2019年02月15日

山村祐「定型律の回帰性」を読んで

『続短詩私論』(山村祐著・森林書房・1963年)は、柳人・山村祐の評論集である。山村の評論には柳俳の差異や川柳の特質、あるいは伝統論など、現在の川柳評論でもつづいている議論がいくつかある。戦後の知識人が立脚していた進歩思想というのは、合理の先に必ずや最終的な答えがあるものと信じ、そこへ向けてひたすら世界を変革するイデオロギーだと思うが、実際の答えというものは、探求しつづけながらも決して到達が叶わない境地なのだろうと、同書を読んであらためて思った。

さて、『続短詩私論』のなかには「定型律の回帰性」という評論が掲載されている。ここで山村祐は、定型の魅力についてこんな分析をしている。

五七五・十七音定型の魅力が生れる要素の一つは、二律背反的な読後の感じにあるのではないか、ということである。頭の中で、あるいは唇にのせて、二音一拍に読む場合、呼吸的には休止符の存在によって偶数的感覚で読むが、発音(声)的には、実際の音数が奇数なので奇数的感覚を残す。この二律背反的な性格が、単純に割切れてしまう場合と異なって、魅力を保つ秘密ではないか。そしてその秘密は、五音七音五音の間にある三コの休止符にすべてがかかっているということなのである。

どういうことなのか、これだけでは分かりにくいと思うので、山村が同論で引用している誹風柳多留の「腰帯を〆ると腰は生きてくる」とともに説明していこう。

こし おび を◯ (実質6音)
1拍 2拍 3拍
 
しめ ると こし は◯ (実質8音)
1拍 2拍 3拍 4拍

いき てく る◯ (実質6音)
1拍 2泊 3拍

同論によると、句を読むときは、1音1拍で読むのではなく、2音を1拍に数えて読むのだそうだ。そして日本語は抑揚がない言語なので、何音かのグループの間に休止が挟まれることで、句にリズム感を呼ぶという(「◯」は1音分=半拍の休止符を意味する)。ちなみに上掲句のばあい、休止符も含めると、3・4・3拍の合計10拍で読むことになる。

これによって「頭の中で、あるいは唇にのせて、二音一拍に読む場合、呼吸的には休止符の存在によって偶数的感覚で読むが、発音(声)的には、実際の音数が奇数なので奇数的感覚を残」す。この二律背反的な性格が、定型の魅力を保つ秘密だという。そして「定型の形式美を完成するものは定型律の回帰性に求め」られ、回帰性のないリズムは五七五・十七音定型律ではないし、その変型でもないという。

ちなみに、山村自身はけっして定型論者ではない。むしろ脱定型論者だ。しかしこの評論では、「私の目的は定型が永い歳月を存在してきた事実と意味に眼を向け、そこから何を引継ぐべきかを考えたい」のだといっている。偶数的な感覚と奇数的な感覚の二律背反。そして回帰性。その構造をきちんと分析して明らかにする山村からは、評論のあり方について示唆されるところが大きい。

ただひとつ、何となく気になることが生まれた。それは、わたしたちは本当に句を2音1拍で読んでいるのか、ということだ。そこでさらに音を厳密に見るため、試みに先の柳多留の句をローマ字で表記してみよう。

こし おび を◯
kosi obiw o◦◯ 

しめ ると こし は◯
sime ruto kosi wa◯

いき てく る◯
ikit ekur u◦◯

小さな丸「◦」は、1音のさらに半分の音ということで見てもらいたい。さて、この句はローマ字で読んだとしても、上五と下五の長さが同じであり、きちんと回帰性を示している。ただし、ローマ字で書くと違いも出てきた。母音の入った上五のobiや下五のikiは音のテンポが速くなり、そのぶん末尾の休止が長くなったようだ。

ではもう一作品、おなじやり方で見てみよう。今度はわたしの好きな現代川柳の作品から。加藤久子の「レタス裂く窓いっぱいの異人船」ではどのようになるだろうか。

れた すさ く◯ 
reta susa ku◯

まど いっ ぱい の◯
mado ippa ino◦◯

いじ んせ ん◯ 
ijin sen◦◯ 

この句の下五では、語頭に母音iと末尾に撥音nがあるため、上五より速いテンポで読むことになりそうだ。特に末尾に「ん」がきたばあい、読みのテンポが速まるケースが多いのではないだろうか。たとえば〈三分が 限界という ウルトラマン〉という文があったとき、この3パート目の「ウルトラマン」は、字余りではあるが5音と見なしたくなる。実際に読んでみると5音強くらいだ(この問題は川柳の句会でも議論になることがある)。いずれにせよ音韻論的なことはからっきし分からないので、相当見当違いなことをしている可能性はある。しかし、とにもかくにも上掲句では、上五が3拍で下五は2拍半になった。だとすると、再びもとへ戻ってくるリズム=回帰性が認められないことになってしまうのだろうか。

尤も、実際口に出して「れたすさく」と「いじんせん」の両方を読んでみると、後者のほうが若干速く読み終わった気はするものの、時間的長さはほとんど変わらない。理屈と実地は違うものだ。それに個人差だってあるだろう。だから、たとえ上五と下五の読みのテンポが微妙に違っていても、回帰性が認められないとまではいえないだろう。山村の分析した定型の回帰性は揺るがないと思う。

と、一見落着したかに思えたものの、また気がかりなことができてしまった。それは、3パートそれぞれの末尾に休止を入れるという読み方で本当にいいのか、ということだ。たとえばわたしは上掲句を、「れたすさく◯まどいっぱいのいじんせん」というふうに、中七からの12音を一気に読み下すほうが心地好い。休止を入れて抑揚をつける必要性を感じないのだ。山村は、5音/12音の短長律はリズムに回帰性がないため、定型感から外れたものであるといっているのだが、定型感とはそういうことなのだろうか。が、そこまで踏み込むと長くなるため、ここまでにしたい。
posted by 飯島章友 at 07:20| Comment(0) | 川柳論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月13日

久保田紺句集『大阪のかたち』

久保田紺句集『大阪のかたち』(2015年・川柳カード)
編者 小池正博

ざぶざぶと醤油をかけて隠すもの
ひまなところに稲荷寿司詰め合わす
ショッカーのおうちの前の三輪車
絶叫のカバ誰が妖怪やねん
唐揚げになるにはパンツ脱がないと
高島屋ですが大根売ってます
遠くから見るといいやつだった島
きれいなカマキリに食べてもらいなさい
褒められたあたりにはもう行けないね
あいされていたのかな背中に付箋
着ぐるみの中では笑わなくていい
撒いた餌くらいは食べて帰ってね
呑み込んであげるカプセルにお入り


人は、或る人が亡くなってから生前の仕事や才能に関心を抱くことが多いと思います。わたしもそんなひとりです。でも、久保田紺さんにかんしては違います。お会いしたことこそありませんが、亡くなる前からずっと彼女の作品に注目し、愛読してきました。紺さんの川柳はとにかく愉しい。なので、何かに迷っているときなどには紺さんの川柳を読み、気持ちをリフレッシュさせていました。それは今でも変わりません。彼女が作句を始めたのは2005年だそうです。だからそれほどベテランというわけではなかった。やはり言語の才能に恵まれていたのでしょう。これからも紺さんの川柳が読み継がれていってほしい。切にそう思います。

posted by 飯島章友 at 07:30| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月01日

さけや /森山文切


五反田のガールズバーにある墨書

ダクト平面図まで卑猥に見える

なさけやさんにおさけをかけられる

トリアージ訓練中の通知音

ギロチンにキレる手押し車の首

「終了」と付箋が貼ってある扉

仏壇にグルテンフリーナポリタン

宇宙際なんちゃら増える奈良の鹿


【ゲスト・森山文切・プロフィール】
川柳塔社同人
毎週web句会主催者
酒好き



縦書き画像をご覧になるばあいは以下をクリックしてください
さけや.gif


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2019年01月31日

杉野十佐一賞について

第23回杉野十佐一賞の結果がおかじょうき川柳社のホームページで発表されました。

 発表!第23回杉野十佐一賞「黒」

杉野十佐一賞の選者は、徳永政二さん、なかはられいこさん、樋口由紀子さん、広瀬ちえみさん、むさしさん、前年度大賞受賞者(今回は小林康浩さん)の6名です。かつては石部明さんも選者のおひとりでした。

わたし、杉野十佐一賞にだけは毎年応募することにしているんです。というのも、すでに現代川柳界で有名な方々が多数応募してくる賞だからです。それは、上記のリンク先にある応募者一覧を見ていただければ分かります。そんなわけで杉野十佐一賞は、わたしがいま最もお勧めする川柳賞であります。

ちなみに月刊「おかじょうき」1月号によると、今回大賞を受賞された吉松澄子さんは、あの柳人の御母堂様です(←すみません、テレビの浅見光彦シリーズが好きなもので)。
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2019年01月30日

杉倉 葉「流体のために」を読む

 たとえば、短詩型というモノ=コト=トキをひとつの、という「ひとつの」自体がすでに先触れとしてあるのだが、ひとつの断裂としてとらえること、絶え間ない〈何か〉の一部を切り取ったものであるという認識は可能であろうし、それは思いもかけぬ豊穣さを書き手=読み手=テクストに与えるであろうことは想像に難くないが、しかしそこで想定されている〈何か〉すなわち〈流れ〉とは別の〈流れ〉として、完璧に〈作者〉の統御下にあると見える作品の隙間から、それこそ何其れのように、と無限の類比を発生させる無意識、ないしはノイズが漏れ出してくることは当然あるだろうし、それこそが、いっそ奇蹟、と呼ぶべき作品なのだ。
 この「流体のために」が奇蹟の名にふさわしいかどうかは今は置いておき、一読して目を引くのは無論ドゥルーズのテクストを下敷きにした飛躍であり、詩的なうつくしさであることは疑いなく、そこに見られるのは、挙げるなら『差異と反復』という書名を流用しなお「差異と反復 裁断の」という一字空けによる「差異」から「裁断」への反復と裁断を表現した自己言及であり、またこの連作の八句目が『差異と反復』であるなら一句目は「流体として孕まれて」というやはりドゥルーズのコンテクストを指向した句であり、二句目の「暗殺」「コーヒーに落とす」には七句目の「暗い」「雨が、降っていた」が対応するだろうし、三句目の「無傷の翅」は六句目の「睡眠が祈られる」「好きなひと」のイノセンスと相通じるだろうし、四句目の「ひかりに」は五句目の「星」「あふれだしてゆく水銀」にイメージとして重なり合うと読むことが出来るのであり、すなわち、この連作は四ー五句目の間隙を折り線として、前半と後半が鏡のように対応しあっているのはまぎれもなく、作者の統御が作品を律していることの証左に他ならない。
 だがここまでは、作者の意識下と読むことは可能であるが、無意識下として作品を読むことは可能であろうか、という問い自体が、他者の意識を詮索出来ると確信している傲慢さでもあろうが、それでも作者の統御を放たれて飛翔する蝶が、いっそ奇蹟の名にふさわしいのではあるまいか、という断言もまた傲慢の謂であるが、しかし〈作者の統御〉にすべてを帰するには、ドゥルーズを引く作者に対しては、ある意味で礼を欠くことになりはしまいかという懼れもあり、それ以上に作品の魅力が、〈読み手〉であるわれわれに、このテクストに参加したいという欲動を統御不能とさせるのだった。

  たえまなく流体として孕まれて

 この句において、なにが選択され、なにが選択されなかったのかという問いは、ある地層まで有効であると思われるのは、「選択」という行為がひとつの「切断」であり、「流体」を切断することによって短詩型が成立するというのならば、この愚かにも見える問いにも何らかの意義はあると正当化はできるであろう。
 選択されたのは「たえまなく/流体/として/孕まれて」という、これ以上の分解も可能ではあるが、当座の目安として分子としておくパーツ群であり、この選択は、作品がこの型式で完成されている以上、揺るぎのない〈結果〉として読むことも当然ではあろうが、仮に作品が流体であるならば、〈結果〉という完結はあり得ないはずであり、読み手にとっては、この句のよって来たるところ、そしてこれからゆくところを、自然とイマジネートさせられてしまうのだ。
「たえまなく」はどこから来たのか?
「流体」はどこから来たのか?
「として」はどこから来たのか?
「孕まれて」はどこから来たのか?
 そして、彼女ら彼らはどこへ行くのか?
 そのいちいちの検証は今は手に余るし、それはあくまで〈私〉のひとつの読み方に過ぎず、だから〈正解さがし〉などというものが端から成立しないこの連作を前に、そのようなふるまいをするのは句が喜ばないだろう。
 ただ、句が読み手にこのような過剰と言ってもいい反応を引き出すということ。
 そのこと、だけをもってしても、この連作の存在意義はあると思うのだ。
 そして、それは〈読み手〉の存在意義を肯定する。
 そんな文芸が、ジャンルを問わず、この世にあるのだろうか?
 この見地から、この「流体のために」が〈奇蹟〉であるかどうか、〈読み手〉のひとりひとりがみずからの存在を賭けて立ち向かうべきテクストであると、私は断言する。
 呪わしくも輝かしかった(余言ながら、作者がまだ未生だった)八〇年代風の戯文、許されたい。
posted by 川合大祐 at 20:38| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする