2018年02月17日

「川柳木馬」第155号 2018・冬

「川柳木馬」第155号
発行人 清水かおり
編集室 山下和代

今号の特集は、長年、木馬誌が取り組んでいる「作家群像」シリーズで、今回はきゅういち篇である。プロフィールによるときゅういちさんは、2003年より作句、川柳結社「ふらすこてん」同人、川柳「北田辺」会員、そして創刊されたばかりの「晴」メンバー。

同欄は、プロフィール、作者のことば、川柳60句、そして二名の執筆者による作家論がその内容だ。今回は、江口ちかると柳本々々がきゅういち論を執筆。二人とも散文に慣れているので、きゅういちさんの作品の良さを的確にプレゼンしている。

以下、掲載されているきゅういち作品から引用。

朝礼のみんな卵を産みたいの
義母笑う小っちゃい蜘蛛を吐きながら
カメリハを終えて寛ぐ斬首台
火付けして逃げる足音までスミレ
牛乳を吹き出す近畿一円に
ラーメン鉢の底に愚問と書いてある


「きゅういちのブラコメ劇場」と言いたくなるような川柳がいっぱいある。自分ごときが言うのはおこがましいと思いつつ言ってしまうのだけど、近年のきゅういちさんの川柳はホント面白い。以前は技巧派という印象をもっていたのだけど、いまは川柳的な〈華〉も加わった感がある。まるで凱旋したプロレスラーのように。

あくまでも私見であるが、詩性川柳の世界に限っていうと、21世紀に入ってからは女の川柳人が注目され、作品をリードしてきたように思う(たぶん人数も女のほうが多いだろう)。実際、わたしも影響を受けたのは圧倒的に女の川柳人が多い。しかし近年、きゅういちさんを筆頭に、徐々に男の川柳人の作品にも〈華〉が出てきたと思うのだ。それが誰と誰と誰なのかは、いちいち挙げないでおく。「何だ、オレ様の名前がないじゃないか!」といわれるのがコワいから。何にせよ、男の川柳人の活躍が今後も続くのならば、秀句とされる作品の質に大きな変化が生じるかも知れない。

【木馬座 会員作品】
ガムシャラをあばら骨からつまみ出す  岡林裕子
大空へ鯨見送り秋に入る  内田万貴
オリジナル凶器とすべし「お上品」  小野善江
静物になる肩胛骨の一本  濱田久子
時おり迷子になる小数点  山下和代
コスモスも桔梗も海になる前夜  清水かおり
真ん中で土偶の母は動じない  川添郁子

なお、木馬座句評では「ねじまき句会」の丸山進さんが、とても丁寧な鑑賞を書かれている。こちらも必見。

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2018年02月15日

七月のセロリの筋を通したい   瀧村小奈生


七月のセロリの筋を通したい  瀧村小奈生

瀧村小奈生さんを意識したのは、「湯豆腐の大和魂らしきもの」「敷島の大和に降らす太田胃散」(「川柳ねじまき」♯2)という抜群なセンスの句に触れてからだ。そしてこの頃からだと思うけど、瀧村さんの川柳には言語遊戯が散見されるようになった。川柳スープレックスにご寄稿いただいた「射干玉の」でも折句的な手法(縦読み)が使われている。

言語遊戯は、近代という生真面目な時代に短詩文芸から取り除かれた。そして現代もまた、生真面目な時代になりつつある。グレーゾーン(矛盾・逆説・二律背反)をなくしていくため社会を合理的に統制しよう、というのが世界的な潮流だからだ。それだけに、掲出句のような小気味好い言語遊戯に接すると、愉しさばかりか解放感すらおぼえる。ちなみに、先日掲載した「川柳ねじまき」♯4での引用句も、半分近くは言語遊戯的な作品だった。

さて掲出句は、読んですぐ分かるように「筋」の一語が、「セロリの筋」と「筋を通したい」の両方にかかっている。まるで真っ直ぐに伸びている線路が駅に到着する手前で分岐し、1番線ホームでなく2番線ホームに入っていくような句だ。

この句の良さは、文字どおり筋が通っているところにある。というのも第一に、言葉として「セロリの筋を通したい」は十分あり得る措辞であるということ。第二に、文脈としても「七月」→「セロリの筋を通したい」という流れは、理屈として筋が通っているということ。セロリのことは全然詳しくないけど、七月はセロリの植え付け時期なのだという。このようにきっちり筋を通していればこそ、わたしはこの句と盃を交わしたくなるのだ。
 
「セロリの筋を通したい」は、「筋」という言葉が持つ異義を利用した言語遊戯・レトリックであるけれど、これと似たものが前近代にはあった。ひとつはお馴染みの「掛詞」であるが、もうひとつは「もじり」である。もじりは、同じ音からなるコトバに二重の意味を持たせる言語遊戯だ。次の句は、「ふりそでめした」という中七に二重の意味が込められている。

お姫様 ふりそでめした 月の笠 

ねづっち風にいえば、「整いました! お姫様とかけまして、月の笠と解きます。その心は、振袖召した(降りそで召した)のであります」といった感じだろうか。もうひとつ例を挙げてみよう。

小娘の とのほしさうな 破れ窓

この中七からは、「殿欲しさうな」と「戸の欲しさうな」が炙り出されてくる。以上の二句は『つばめ口全』より。

言語遊戯をはじめとするレトリックに対しては、しばしば「それはレトリックにすぎない」という言葉を耳にする。不真面目であるとか、詭弁を弄しているだとか、レトリックにはそんなイメージが付いてまわるのだろう。でも、この世界が矛盾・逆説・二律背反の複雑さに満ちており、その全体像を見通すのが困難だとしたら、直截的な表現では間に合わない。したがって、レトリックに活路を見出すほかないと思う。瀧村小奈生さんのレトリックがどこへ向かっていくのか、今後もアンテナを張っていきたい。

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2018年02月13日

「川柳ねじまき」♯4

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「川柳ねじまき」♯4
発行人 なかはられいこ
編集人 川柳ねじまき制作委員会


鉄塔は鉄の頃からさびしがり  なかはられいこ
いちじくづくしボーダーにくし  二村典子
頭からバリバリいった理想論  猫田千恵子
束の間のひとりに浸かる頭まで  早川柚香
立ち合いで負けた三度目のお見合い  丸山進
気遣いの境界線の液状化  三好光明
眼帯の上の眼鏡の見る桜  八上桐子
誘われる運河に添い寝する役で  米山明日歌
カンナカンナ素っ頓狂にぐれている  青砥和子
羽根のない鳥は白磁の皿に乗る  安藤なみ
ホバリングしてる時代の中空で  魚澄秋来
サンクトペテルブルク的梅雨晴れ間  犬山高木
すかんぽたんぽぽからっぽの大皿  妹尾凛
家庭的紫芋の座り方  中川喜代子
七月のセロリの筋を通したい  瀧村小奈生


毎年1回発行されている「川柳ねじまき」は、名古屋の「ねじまき句会」メンバーによる作品集だ。今号は、各人の川柳20句およびエッセイ、ねじまき連句、ねじまき実況(二〇一七高得点句を語り合う会)、二村典子の評論「ぽのあたり」、なかはられいこのあとがき、そして八上桐子の句集『hibi』の案内が掲載されている。

引用した川柳はいずれも大好きな句で、本当はすべての句に触れていきたいところなのだが、ここではなかはられいこさんの引用句のみ鑑賞してみたい。

鉄塔は鉄の頃からさびしがり  なかはられいこ

この句のポイントは「鉄の頃からさびしがり(屋)」にある。かりに「鉄塔はさびしがり屋さん」という句意だったらありきたりだったろう。〈共感〉はできても〈驚異〉がないからである。
上掲句はセンチメンタルな世界ではない。そればかりか、「鉄の頃」まで遡ることで「鉄塔」の性質を見通しているとても〈冷徹〉な句なのだ。もちろん、この句を感傷的に捉えることもできるだろう。ただしそのばあい、「鉄塔」=「さびしがり」によってそう感じるのではない。「(鉄塔は)鉄の頃から」→「さびしがり」によって感傷が生じるのである。その意味で月並なパターンを越えている。
樋口由紀子さんに「空腹でなければ秋とわからない」(「晴」第1号)という句があるけど、こちらも一見すると「空腹」と「秋」がありきたりだ。しかし「空腹なので秋とわかった」のではない。あくまでも「秋」だとわかるための条件が「空腹」だと書かれている。〈変〉なわかり方ではないか。予定調和なようで〈変〉。現在のなかはらさんと樋口さんに共通する文体かも知れない。

上掲句についてもうひとつ思ったこと、それは、ここでの「鉄塔」は容易に動かない言葉だということだ。試みに「鉄砲は鉄の頃からさびしがり」としたらどうか。このばあい、〈鉄砲〉が強い言葉なのでアイロニーは出るかも知れないが、狙いすぎの感は否めないだろうし、なによりも原句の方向性や情緒から離れてしまう。ほかに〈鉄甲〉〈鉄条〉〈鉄柱〉〈鉄門〉でも同じことがいえる。唯一、「鉄塔」に対抗できる可能性があるのは〈鉄橋〉か。「鉄橋は鉄の頃からさびしがり」。
次に「鉄鋼は鉄の頃からさびしがり」だとどうか。このばあい、〈鉄鋼〉は「鉄」の状態から半歩しか抜け出ていないため、「鉄の頃」に遡るには時期尚早であろう。ほかに〈鉄筋〉〈鉄材〉でも同じことがいえる。
次に「鉄則は鉄の頃からさびしがり」ではどうか。このばあい、そもそも〈鉄則〉が物質としての「鉄」ではないので原句と比較することができない。よって「鉄塔」の代替にはなりえない。ただし、次元の異なる「鉄」と「鉄則」とが結び付けられることで詩性川柳の表現にはなっている。「川柳スパイラル」誌あたりに掲載されていても違和感ない気はする。

ところで初見でわたしは、下五の「さびしがり」を連用止めと捉えていた。連用止めにすることで余韻をもたせているのではないかと。しかし何回か読み返すうちに、じつは冷徹な目をもった句ではないかと思うに至り、〈さびしがり屋〉の意味で捉え直してみた次第だ。

ここまでくどくどしく鑑賞してきたが、そもそも上掲句は、評など加えなくても少なくない人が共感する川柳だと思う。それは犬山高木さんの「サンクトペテルブルク的梅雨晴れ間」にもいえることだろう。小林秀雄著『当麻』に次のような有名な一節がある。「美しい『花』がある、『花』の美しさというようなものはない」。そして小林は、それ以上説明しようとしていない。説明など野暮だということだろうか。西洋哲学ならここから論理を展開していくところだが……。
では、川柳に評は不必要なのだろうか。秀句に対して「説明しなくても分かるでしょ?」という美的感受に留まる姿勢(間主観性といってもいい)でいいのだろうか。このことについては、『川柳ねじまき』♯4の「二〇一七高得点句を語り合う会」での座談を参照しつつ、いずれ何か書けたらと思っているが、少しだけわたしの考えをここで述べておこう。鑑賞者が句の意味やレトリックを分析することで作品の価値を下げている、といった類の意見はよく耳にする。気持ちはいたいほどよく分かる。しかし、句の意味やレトリックを分析されたくらいで価値が下がる作品なら、そもそも秀句としての力や奥行きがなかったというだけの話ではなかろうか。野暮天なのをいとわず説明を加えるのはその作品を信頼しているからだ、と思っている。

以上、一人でも多くの方に「川柳ねじまき」を読んでいただきたい。

月刊 ★ ねじまき
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2018年02月01日

レモンと可能性   服部真里子


蝶よりもペーパードライバーだった

洗剤がひどいピンクで帰宅する

線状になった犬だよその線は

個人的水鳥を個人的に呼ぶ

喝采の中に木槿を見失う

驚いて君のレモンが灰になる

太陽を返却します雲雀たち

迎えに行くよ梨よりあたたかい身体



【ゲスト・服部真里子(はっとり・まりこ)・プロフィール】
1987年横浜生まれ。未来短歌会所属。第24回歌壇賞受賞。第一歌集『行け広野へと』(2014年、本阿弥書店)にて、第21回日本歌人クラブ新人賞、第59回現代歌人協会賞。



縦書き画像をご覧になるばあいは以下をクリックしてください
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2018年01月25日

「晴」第1号

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「晴」第1号
編集発行人 樋口由紀子

ゴルゴダのその日の出口調査員  きゅういち
死なないと死ぬの間の朝ごはん  松永千秋
殺された場所へ戻っている鸚鵡  月波与生
靴下を三枚はいて棒を持ち  広瀬ちえみ 
両手の中に残る海鳴り  水本石華
空腹でなければ秋とわからない  樋口由紀子

昨年「川柳カード」が終刊したのち、「うみの会」という川柳句会を立ち上げて活動していた樋口由紀子さんだが、ついに同人誌を旗揚げした。その名も「晴」。メンバーは樋口由紀子の他に、きゅういち、月波与生、広瀬ちえみ、松永千秋、水本石華の6名。とくに同人や会員、購読会員を募集しているようではないので、固定メンバーだった「MANO」誌と同じような形態で活動していくのかも知れない。

動こうと決断すれば、早かった。私の出来る範囲のことをやればいいのだと開き直った。メンバーもすんなりと決まった。広瀬ちえみさんと松永千秋さんは長年の親友であり、頼りになるおねえさんたち。水本石華さん、きゅういちさん、月波与生さんは、それぞれの柳誌や各分野での活躍に注目していた。作品とエッセイを読んでいただけたらおわかりだと思うが、メンバーはおのおの見ているものも、見ている方向も同じではない。そこから「晴」のカラーが作り出せたらと思っている。

後記にはこう記されている。
シニアの趣味の集まりが大半の吟社・同人川柳において、高いレベルでの表現活動を行うとしたら必然、少数での活動を覚悟しなければならない。6名でのスタートであるが、6が2乗にも3乗にも4乗にもなっていくことを期待している。



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