2017年08月07日

いなだ豆乃助

いなだ・まめのすけ

2012年 短歌結社「短歌人会」入会
2014年 柳誌「川柳カード」入会
2016年 川柳結社「ふらすこてん」入会

この度、途中から参加させていただくことになりました。
川柳を始めたのは2014年10月からです。
右も左もわからないことだらけですが、
どうぞよろしくお願いします。
posted by いなだ豆乃助 at 16:37| Comment(0) | 執筆者プロフィール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月06日

パーソナル・データ:200字川柳小説  川合大祐

デスメタルが好きで、毎晩聴かないと眠れないのに、昨夜は「伊那華浪曲の会」へ親の強制で出席させられていたので、電気羊の夢を見続けて眠れなかった生徒がいた。ガマの油の売りすぎで声が涸れている生徒がいた。ミスター・スポックと言われるのが嫌で、昨日ついに整形手術の申し込みをしたのだが、身体髪膚へ傷つけることに罪責を感じている生徒がいた。実は自分は神様なのだと解ってしまっている生徒がいた。音楽室が破裂した。

  斉唱に音楽室は破裂して  若草のみち(今月のゲスト作品「斉唱」より)

posted by 川合大祐 at 00:00| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月01日

斉 唱   若草のみち


正確に進む時計をまんなかに

ガラス戸に蝶の頭痛は広がって

砂時計膨らみながらさかのぼる

絶望のヒマワリ種をいっぱいに

斉唱に音楽室は破裂して

あきらめたヒトデそれでも星の形

すぐ消える水平線の嘘の色

水槽の食物連鎖の頂点に



【ゲスト・若草のみち・プロフィール】
歌人集団かばん所属。
第4回角川全国短歌大賞大賞。
第60回角川短歌賞次席。
第41回全国短歌大会 尾崎まゆみ選者賞 大松達治選者賞。
第4回中城ふみ子賞次席。
Twitter:@kinouta00 
ブログ「空の鉱物」http://ameblo.jp/wakakusanomichi


縦書き画像をご覧になるばあいは以下をクリックしてください
斉唱.gif
posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 今月の作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月31日

今月の作品・広瀬ちえみ「切手の鳥」を読む

 もはや都市伝説と言ってもいいと思うのだが、「川柳は『思いを吐く』文芸である」と信じている人がいるという噂がある。
 万が一にもそんな擬似ファンダメンタリストがいたとすれば、それがどんなに川柳にとって「うざったい」存在であるか、このブログで多くの執筆者が散々述べてきたことをお読みになって頂ければ、お解りではないかと思う。
 だが、この「思いを吐く」、一定の説得力を持つとすれば、「思い」というものがわざわざ「吐」かなければならない、川柳のがらんどうさに拠る。ニュートラルな状態では、「思い」という甘い幻想が介入してこない、空白地帯が広がっている。そこにこそ、川柳の可能性があるはずだ。
 とは言いながら、僕には「思い」が何を指すのか、はっきりと断言することができない。何せ都市伝説ですから。それはともかく、このUMA、「私」と関わっていることだけは直覚できる。その辺については今回深入りを避ける。ここでは、「思い」が「私の位置の固定化」ということにして、今月の作品を読んでいきたい。

  春うらら鶏冠をつけるのを忘れ  広瀬ちえみ

 ここに「思い」はない。少なくとも吐かなければならないような、屈折しているようでしていない自意識の肯定感はない。この句にあるのは「鶏冠をつけるのを忘れ」ただけの現象である。現象という言葉を使ったが、それこそ現象学的に、()の中に入れて見るのもいい。と言うより、この句の成立自体が、カッコに入れる行為と非常によく似ている。むしろ、「カッコに入れる」ことのみがこの句の動力であるとも言える。
 これがどんなに魅力的な営みであるか、僕の筆(パソコンだが)では到底言い表すことができない。
 ただ、「作者にはこういう『思い』があってそれがみごとに表現されているよ」という作品よりは、こちらの背すじをぞくぞくとさせてくれる、とだけは言っておきたい。

  軍配はうちのインコのおしゃべりに

「うちの」で「私」が溢出していると思われるかもしれない。しかし作者のいる地点は、「うち」ではない。「軍配は」のところに作者はいる。価値判断を委ねられた存在としての作者。しかし価値判断は、「おしゃべりに」のところで突き放される。
「おしゃべりに」は何を判断しているのか。おそらく何も確とした答えはないだろう。ここで価値判断は放棄させられる。従って作者はどこにもいない。裏を返せばどこにでも遍在する。「私」を超えた、メタとしての「私」。それはおそらく、がらんどうの文芸である川柳の可能性であるはずだ。

  黒い鳥になって影絵の黒い木に
  そらいろの童話のなかへ飛んでゆく

「黒い鳥」になるのは何なのか、「そらいろの童話のなかへ飛んでゆく」のは何なのか、明示はされない。主語の不在は、短詩文芸のひとつのゼロ地点である。「問答体」という、「主語」を主題にした型式を、どうしても背負わずにいられない、川柳においてはなおのことである。この二句は、その「問いー答え」の型式を、句そのものが意識している作品に見える。

  亡亡亡切手の鳥はこう鳴くの

 ここまでお付き合い下さった方は、もう言わんとしていることがお解りかもしれない。「こう鳴くの」のところに「私」も「思い」もない。むしろあるとすれば「亡亡亡」という、禍々しい漢字の連なりにおいてである。いや、言い直そう。「漢字を連ねる」という行為のところに、作者はいる。それがどんなに「私」以上の「私」なのか、「思い」以上の「思い」なのか、この連作を読めばわかってくる。
 いや、正直に言おう。僕にはまだ「私」がわからない。わからないから、句を読み続け、詠み続ける。その手がかりになる指針のひとつとして、この「切手の鳥」はあった。舌足らずで作品の魅力を言い表せず、後悔している。本当は「あなた」に伝える手紙にしたかったのだ。切手を貼って。
posted by 川合大祐 at 15:55| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月23日

白夜考:200字川柳小説  川合大祐

わが町にもスターバックスができたので、藤原鎌足について考える。クーラーがあの世のようにつめたい店内で、藤原鎌足について考える。前世紀の理想化されたアンドロイドのような溌剌としたバリスタを見ながら、藤原鎌足について考える。いつもキタムのアイスコーヒーを飲みながら、藤原鎌足について考える。ふと気付くと、目の前の君がすこし怒っているので藤原鎌足について考える。「今、藤原鎌足考えてたでしょ」うなずかない。

  セロファンに包まれてきた藤原鎌足  山口ろっぱ(「川柳北田辺」80号より)

posted by 川合大祐 at 00:00| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする