2017年11月04日

暮田真名「モアレ現象とは」を読む

10月の作品は、暮田真名さんによる「モアレ現象とは」だった。

最初に「モアレ」の意味を確認しておく。モアレとは、「1 木目や波紋模様を表した張りのある織物。また、その加工。タフタ・アセテートなどに施し、リボン・服地などに使われる。 2 幾何学的に規則正しく分布する点または線を重ね合わせると、その間隔の疎密によってできる斑紋。網版の多色印刷、走査線が周期的に並ぶテレビ画面、画素が規則正しく配列されたデジタルカメラの撮影画像などに生じやすい」。


見せつけてティンカー・ベルの霜柱

ディズニーのティンカー・ベルシリーズを観ていると、妖精たちがハネ(翅?羽?)をはばたかせ空中を飛ぶたびに、なにか蝶の鱗粉のような、キラキラしたものをふり撒いているのに気づく。妖精たちがいっせいに飛び立ったり、よろこびに乱舞したりするシーンでは、そのキラキラとこぼれ落ちる粉で目のくらむ思いがする(目がくらまないように配慮して作ってあると思うので、あくまでもそのような「思いがする」だけであるが)。
また霜柱も、ズーム画像で見ると目のくらむ思いがする。それというのも、一本いっぽんの柱が重なりつつも少しズレていたり、氷の白い部分と透明な部分にコントラストがあったりするからだろう。
「ティンカー・ベルの霜柱」、そんなものを「見せつけ」られたら見る側は眩惑されてしまうだろう、ちょうどモアレの斑紋を見てくらくらするように。いまは11月初頭。これからいよいよ冬を迎えるわけだが、わたしには「ティンカー・ベルの霜柱」が見えるのだろうか。

まばゆくてあばら並びに倦んでいる

「あばら並び」とはオモシロい言葉をつくったものだ。むかし学校で、生徒どうし二列に向かい合って手をつなぎ、人間トンネルをつくった経験がある。あのようなときは「みなさん、あばら並びに手をつないでトンネルをつくりましょう」といえば、効率よく伝わりそうだ。
さて「まばゆい」とは、まともに目を開けて見られないほど過剰に美しいこと。その美しさにたいして人びとは「倦んでいる」わけだ。「まばゆい」という正の過剰と「倦む」という負の過剰。そして、その両極の過剰をつないでいるのが「あばら並び」という均整(シンメトリー)。正負の過剰、そして均整。この疎密にモアレは生じるのかも知れない。
なお、上掲句は音の並びも面白いと思った。mabayukute abaranarabini undeiruとすると分かりやすいのだけど、上五から中七にかけてa音がつづいている。さらに上五のu音、中七のi音も、舌に心地いい。だが、その音の心地よさも下五の前でぷっつりと切れているように思える。これもモアレ現象の一種なのだろうか。

   🔶 🔶 🔶

「モアレ現象」というタイトルはたいへん示唆的だと思う。というのも、短詩型文学作品における共感性の一パターンには、多かれ少なかれ〈言葉のモアレ現象〉が関わっていると思うからだ。それは以下のようなことである。

仰向けに逝きたる蟬よ仕立てのよい秋のベストをきっちり着けて  杉ア恒夫

わたしの好きな歌だ。なぜ好きと感じるのか。その理由としては、真っ先に次のことが考えられる。「仰向けに逝きたる蟬」と「仕立てのよい秋のベストをきっちり着けて」とは互いに〈即いている〉関係だ。にもかかわらず、「蟬」の亡骸と「ベスト」とはあくまでも異種どうしであって、その意味では〈即いていない〉関係でもある。一首における即く・即かないの重なり合い。これが不思議で心地よい情感を醸しているのだ。

ところでモアレ現象というのは、〈規則正し〉く並んだ線や点を重ね合わせたとき、周期の〈ズレ〉が原因で発生する縞模様。ここでかりに、規則正しい=即く、ズレる=即かない、と見なして上記の議論に当てはめてみよう。すると短歌の共感性とは、〈規則正しい=即く〉と〈ズレる=即かない〉が重なり合うことによって生まれる、といえるだろう。これは、短歌における〈言葉のモアレ現象〉とでもいうべきものだ。そして〈言葉のモアレ現象〉こそ、えもいえぬ不思議な情感を読み手に与える一因であり、また規則正しさが求められる散文を脱することにも寄与している。今回は分析しないけど、おそらく俳句や川柳の共感性にも〈言葉のモアレ現象〉は関わっている。

こうしてモアレ現象と短詩型の関係を考えてみたとき、ふと、わたしの脳裏に寺山修司の名前がよぎる。印刷におけるモアレについていうと、いちど網点を貼ったデータを拡大・縮小することによってモアレが発生してしまうのだという。短詩型に置きかえるならば、或るエモーションから作られた五七五に七七を付け加えて拡大したり、逆に五七五七七から七七を省いて縮小したりすると、モアレが発生するといえそうだ。寺山の『ロミイの代弁―短詩型へのエチュード』を読むと、彼が俳句の短歌化と短歌の俳句化に意識的だったことが窺われる。

チェホフ忌頬髭おしつけ籠桃抱き

寺山によると、これでは窮屈でしょうがないということで次のようになった。

籠桃に頬いたきまでおしつけてチェホフの日の電車にゆらる

逆のばあいもある。

桃太る夜はひそかな小市民の怒りをこめしわが無名の詩

これはやや冗漫だということで次のように引き締めている。

桃太る夜は怒りを詩にこめて

おなじエモーションからできた短歌と俳句を並べてみると、その一致とズレに、えもいえぬ不思議な感覚が起こってくる。これも〈言葉のモアレ現象〉といえるのではないだろうか。

また、寺山修司の歌集『空には本』を見ると、あることに気がつく。それは、先行する自分の歌の断片を、まるで衣服のコーディネートでもするかのように、後行する自分の歌へ組み込んでいるのだ。こころみに、歌集内では別々のページに掲載されているそれらの歌を並べてみよう。いっぱいある中から一例だけあげる。

やがて海へ出る夏の川あかるくてわれは映されながら沿いゆく
冬怒濤汲まれてしずかなる水におのが胸もとうつされてゆく
冬怒濤汲みきてしずかなる桶にうつされ帰るただの一漁夫


三首に共通・類似する断片を、赤・青・黄で色分けしてみた。先行する歌の断片を組み入れることによって起こる一致と不一致。それが、一首だけ鑑賞するのでは味わえない不思議な情感を醸し出し、くらくらする。ここにおいても〈言葉のモアレ現象〉が起こっている気がしてならない。


posted by 飯島章友 at 20:00| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月01日

形而上の象はときどき水を飲む  大西泰世

句集『世紀末の小町』(1989年 砂子屋書房)より

ぼくと川柳との出会いを語りたい。
詩や俳句、短歌は興味なくとも小中学校の教科書でまず目に触れられるが川柳はそうはいかない。特に現代川柳や革新川柳というものは尚更だ。今ならネットやなんかで検索すると色々ヒットするが、ぼくの思春期当時にはそのようなものは当然なく、興味あるものはとりあえず図書館で手当たり次第あたるか本屋で探す位しか方法はなかった。既に文学にかぶれていた中学生の頃は暇を見つけては新しい書物との出会いを求めて自転車で市内にある図書館や古書店を巡ったものだ。

あれはそんな中学生の頃だったと記憶しているが、市内の今はもうない行きつけの古書店で何気なく手を取ったこの句集のこの句に出会ってしまった。
形而上という高尚な言葉と象の組み合わせになにやら心の中で火花が飛び散った。
これが川柳か! と。
以来川柳に真面目に取り組めば良かったのだが、紆余曲折あって実際に川柳を始めるまでに20数年まわり道をすることになってしまった。それはまたの機会に。

月夜の晩、或いは真昼間かもしれないが象は水を飲む。しかもときどき。きっと美味しいのだろう。水を飲み音まで聞こえてくるようだ。


posted by いなだ豆乃助 at 12:32| Comment(0) | いなだ豆乃助・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

矮 星   くんじろう


猥談も確かにあった古墳群

フレアから阿闍梨も猫も帰るころ

ベランダに干す彗星の尾の部分

惑星はツベルクリンなお人柄

ん行から諸行無常のチョコレート

錆止めと馬の歯型を星座図に

ペデルギウスに惚れちゃったのさ麩麩麩

矮星に空海らしき墨衣



【ゲスト・くんじろう・プロフィール】
2010年「第10回・詩のボクシング」全国チャンピオン
川柳・北田辺 主宰



縦書き画像をご覧になるばあいは以下をクリックしてください
矯星.gif



posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 今月の作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月30日

【お知らせ】「川柳スパイラル」創刊号

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「川柳スパイラル」創刊号

目次
1 巻頭写真 入交佐妃
3 創刊のご挨拶・渦の生成 小池正博
6 同人作品 Spiral Wave
18 おしまい日記 第一回 柳本々々×安福望
23 いかに句を作るか 第一話 川合大祐
27 現代川柳入門以前 小池正博
31 小遊星 飯島章友×小津夜景
35 会員作品 Plastic Wave
41 現代川柳あれこれ Biotope 小池正博
47 投句規定・合評句会案内
48 妄読ノススメ 兵頭全郎
50 第一回東京句会
52 編集後記


「川柳スパイラル」の第1号が出来上がりました。

同人作品は、清水かおり、湊圭史、一戸涼子、柳本々々、浪越靖政、悠とし子、川合大祐、石田柊馬、畑美樹、飯島章友、兵頭全郎、小池正博。
また会員作品は、英田柚有子、宇川草書、深海魚、津田暹、丸山進、吉松澄子、松本藍、中西軒わ、本間かもせり、本多洋子、猫田千恵子、落合魯忠、岡本遊凪、いわさき楊子、西田雅子、いなだ豆乃助、早計層、岩根彰子、山下和代、高橋蘭、重森恒雄、酒井麗水、笠嶋恵美子、内田真理子、前田一石。

意外かも知れませんが、わたしはこのスパイラル誌ではじめて、川合大祐・柳本々々と所属グループをおなじくします。「川柳カード」をホームとしていた飯島章友、「川柳の仲間 旬」をホームとする川合大祐、「おかじょうき川柳社」をホームとする柳本々々とは別々の場で作句していたのです。
また畑美樹と川合大祐がおなじ柳誌に名を連ねていることも、ふたりの軌跡を想うと感慨深い。もともとふたりは、「川柳の仲間 旬」で同じ釜の飯をくっていたのですが、畑美樹は旬を脱会して「バックストローク」誌の編集人→「川柳カード」同人となり、いっぽう川合大祐はずっと旬に残留していました。それが約15年の歳月を経ておなじ柳誌で再会したわけです。

コンテンツについて簡単に説明します。
「おしまい日記」は柳本々々と安福望のトーク、「いかに句を作るか」は川合大祐による本格川柳小説、「現代川柳入門以前」は川柳とは何かについて「入門の手前あたりでうろうろする」文章、「小遊星」はホストの飯島章友とゲストとのトーク、「現代川柳あれこれ」は小池正博による会員作品評、「妄読ノススメ」は或る川柳作品を起点にした兵頭全郎の二次創作的な読み。まだ第1回目なので分からない部分もあるのだが、だいたいこんな感じで合っていると思います。

飯島が担当する「小遊星」は、テレビで言えば「徹子の部屋」や「サワコの朝」みたいなものだと思っています。今回のゲストは俳人の小津夜景さん。田中裕明賞受賞後のお忙しいなか、真摯かつ丁寧にご対応いただきました。誌面では3400文字ほどですが、実際はその3倍近くお話しています。夜景さんが短詩型文学に出合うまでのこと、句が出来上がるまでのプロセス、石部明の印象などなど。とても楽しいトークでしたよ。

ところで、「川柳スパイラル」はどのような柳誌になっていくのか。これは、あくまでもわたし個人の意見なのを断って言うけど、「川柳スパイラル」は次のようなタイプのひとたちに向いているのではないかしら。現代川柳には興味があるけどグループの理念や作風を指導されるのは苦手というひと、川柳をつうじて他のジャンルの表現者と交流をもちたいひと、(シニアの作者とは違う)現役世代のセンスでのびのびと作句したいひと、などなど。この柳誌が、そういうひとたちの受け皿になれたら素敵だと思う。ちょうど歌誌「かばん」のように。

「創刊のご挨拶」で小池正博は、「これまで川柳人しか知らなかった川柳の遺産をもっと一般の詩歌に関心のある読者に届ける方法を模索してゆきたい。したがって、本誌は川柳人だけではなくて、広く短詩型文学に関心のある読者を想定している」と述べている。俳人、歌人、詩人、連句人、都々逸作家、あるいは既成の壇から距離を置いて同人誌やネット上で詩歌創作をしている方々にもお読みいただければ幸甚です。

「川柳スパイラル」
編集発行人 小池正博
制作 私家本工房
同人 年間12000円
会員 年間6000円
購読 年間3000円 

「川柳スパイラル」のご購読
「川柳スパイラル」創刊号・合評句会のご案内


posted by 飯島章友 at 22:00| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月24日

「垂人」31

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「垂人」31
編集・発行 中西ひろ美 広瀬ちえみ

ひろ美&ちえみによる表紙写真が毎号印象的な「垂人たると」は、俳句、川柳、短歌、連句、自由律句、詩、図形詩と、さまざまなジャンルの作品が掲載されている。そして参加している作家の幾人かは、ジャンルを掛け持ちしている。

一般的に短詩型作家は、川柳なら川柳、俳句なら俳句、短歌なら短歌と、一つのジャンルにしぼって創作をつづけるものだ。しかし、なかには自ずとジャンルを越境する書き手もいる。わたしが参加している「かばん」誌は、短歌専門誌ではあるけれど、個々の会員・購読会員のなかには、短歌と並行して俳句、川柳、連句、現代詩、小説、エッセー、絵本、戯曲、翻訳、歌詞などを創作しているひともいる。なものだから「垂人」誌は、わたしからすると違和感がないどころか、これが普通という感じすらある。

ちなみに、格闘技の世界では、嘉納治五郎、前田光世、木村政彦、ジン・ラーベル、ダニー・ホッジ、ブルース・リー、佐山聡のように、打・投・極(打・倒・極)の技術を越境したり、あるいはその技術の総合化を追求したりする人がむかしからいたものだ。古代までさかのぼればパンクラチオン(レスリング+ボクシング)という競技などまさにそう。だから、たぶん格闘家や格闘技のファンってのは、文芸家以上にジャンルの越境には慣れている。近年の格闘技興行では、キック、総合、プロレス、ボクシングなどぜんぶ観られるのが普通になったしね(そういうのをいちばん最初に観にいったのは、昭和63(1988)年、両国国技館でおこなわれた梶原一騎追悼興行「格闘技の祭典」だ。あのときの思い出としては、初代タイガーマスクの佐山聡と二代目タイガーマスクが握手をしたこと、そしてダフ屋がいっぱいいたってことが印象的)

何の話だったか。そうそう「垂人」の話でした。

燕くる駅舎大きく口あけて  川村研治
雨のいうとおりに行くと初燕  中西ひろ美
隆夫忌ができてしまったすぐ追えば彼岸の前に追いつけるかも
目玉から闇へとびこむ鬼やんま  ますだかも
宇宙軌道を回りつづける駄句冗句  高橋かづき
白藤や遣欧使節ひかりあう  坂間恒子
ゆく雲やそれは春巻春の駅  佐藤榮市
多羅葉のハガキを森の郵函ポストまで  渡辺信明
ざわざわとしている春の道具箱  広瀬ちえみ
たまたまもまたまたもあり鳥墜ちる 
よく動く埃と見れば囀りぬ  野口 裕
幻覚の消えつつ残る春の朝ごろんと蘇鉄の実がころがって
何もしないから神は神でいられる  中内火星
ささやかれつぶやかれついはるのうみ  大沢 然
あめんぼうじいじがきゅうにいなくなる  ます田さなみ


各作家の群作には、俳句とか川柳といったジャンル名は表明されていない。言ってみれば、俳句として読もうが川柳として読もうがご自由に、という感じだ。このように複数のジャンルを跨いだり、あるいは複数のジャンルが共生している様をみると、前近代が一足飛びで後近代に現れた感じがしてくる。

ここでは引用できないが、この他に、参加者の詩やエッセー、そして曳尾庵えいりあん璞の捌による「脇起 オン座六句『そこのけ』の巻」も掲載されている。もちろん、立句は「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る 小林一茶」である。

「垂人」の素敵なところは、各作家がノビノビと、自由に楽しんでやっているのが伝わってくること。これって大事ですよね。

なお「垂人」は、ブログやSNSを設けていない模様。興味をお持ちのかたは、共通の知人にお訊きになるなど、万難を排して中西ひろ美さんや広瀬ちえみさんの連絡先をお調べになってくださいませ。


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とびら  鈴木純一
posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする