2019年04月14日

まばたきすることば──粒子と流体とのあわいで/杉倉葉氏ロング・インタビュー(聴き手:小津夜景)A

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まばたきすることば──粒子と流体とのあわいで/杉倉葉氏ロング・インタビュー(聴き手:小津夜景)@


3.こんなふうに句をつくる

小津夜景(以下、O) よろしければ、一句ができるまでの過程をお話しいただけますか。

杉倉葉(以下、S) 単語から作ることが多いです。たとえば、自選句のなかにある〈木漏れ日をなめてくずれる二等兵〉という句は、まずはじめに「くずれる」という動詞を使いたかったんです。これは金井美恵子の『くずれる水』が好きだからなんですが、ここで液体のイメージを使うとそのままになってしまうので、「木漏れ日をなめて」と液体でないものを液体のように書くことにしました。これで「木漏れ日をなめてくずれる」までができたのであとは最後を埋めるだけです。〈静脈を重ね航路を決める夜〉は、「静脈」と言う言葉から、それを重ねるイメージを思い浮かべ、それに類似するものとして「航路」を持ってきました。「夜」は「静脈」と言う語にふたつ「月」が含まれているところから。
軸になる語を決めてそれにあう語を見つけていきます。そうでないときは一気に思いつくときが多いです。思いついたらスマホのメモに書いておく。あとから語を変えたり助詞を調整したりはしますが。

O なるほど。一つの語が喚起するイメージを支柱にして、言葉の足し引きをしてゆくんですね。いけばなのように──

S そのせいで作品の質感が偏ったりするので、良いのか悪いのかわかりませんが、ただ近接するモチーフの句が集まりやすいので、並べてみてしっくりくるものが7、8句できると、それを軸に他の句も作っていきます。川柳は短歌や俳句のように連作で出す賞などがないので、作るととりあえずだいたい20句ずつブログに発表しています。でも川柳の連作ってあまりよくわからないんですよね。

O 連作のつくりかたに定石はないし、賞も好きな場所に出してだいじょうぶ! 俳人の御中虫は代表作が〈結果より過程と滝に言へるのか〉ですが、これって川柳ですよね。あと〈じきに死ぬくらげをどりながら上陸〉〈暗ヒ暗ヒ水羊羹テロリテロリ〉〈混沌混。沌混沌。その先で待つ。〉──こんな連作で芝不器男俳句新人賞を受賞しています。ちなみに彼女の連作句集『関揺れる』は、方法としてはインプロヴィゼーションでした。

S そんな俳句があるんですか。たしかに言われないと川柳だと思ってしまうかもしれません。
インプロヴィゼーションといえば、もともと連句から始まっているわけですから俳句や川柳とインプロヴィゼーションの相性っていいんですかね。川柳に限らず、そういう方法でなにかを書いたり作ったりしたことはないし、自分はあまり向いてなさそうなのでわからないんですが。

O おそらく相性はいいと思います。

S 前友達と連詩をやったら割とストレスがあったんですが、定型だとまた違うかもしれませんね。一度連句などやってみたいです。


4.自選10句をめぐって

O 今回は自選10句も頂戴しましたが、一読してたいへんキラキラしていると思いました。またこの上なくエロス的で、そこは八上桐子に通じる印象を受けます。あと発想の面で目を引いたのが、流体と粒体とのあいだの交歓といったパターンです。

木漏れ日をなめてくずれる二等兵  (粒 : 木漏れ日/流体性 : くずれる)
星々の呼称を巡る判決書  (粒 : 星々/流体性 : 巡る)
緑の光に浸る水の図形  (粒 : 光/流体性 : 浸る)
外は雨、入れ子になって睡ろうよ  (粒 : 雨/流体性 : 雨、眠り)
たえまなく流体として孕まれて  (粒 : 孕むより卵への連想/流体性 : 流体)
星をやどす葉からあふれだしてゆく水銀  (粒 : 星/流体性 : あふれだし)
受粉樹の街がくきやかに滅ぶ  (粒 : 粉/流体性 : 滅ぶ)
「これって音楽ですか?」「いや、廊下です」
フラフープかじりつつ 秋の夕焼け (粒 : かじるから食べこぼしへの連想/流体性 : 夕焼け)
静脈を重ね航路を決める夜  (粒 : ×、流体性 : 静脈、航路)

唯一この中で異質なのは〈「これって音楽ですか?」「いや、廊下です」〉ですが(ともに「滑らかに流れるもの」といった流体的イメージを立てることはできますが)、このようなつくりかたは自覚的に?

S いま指摘していただいて初めて気がつきました。まったく意識していなかったです。たぶんキラキラしたものが好きで、それが溶けてゆくときに官能性を感じるんですよね。不定形にまじりあってゆく感覚に。
あとやはり川柳をきっちりした自律的なイメージをつくりあげるものだと思っていないから、流れ変化してゆくモチーフを使いたくなるのかもしれません。ひとつひとつの言葉=粒体がイメージ=流体として外にあふれてゆくように、というときれいに言い過ぎかもしれませんが、ひとつひとつの言葉をつなげてイメージを作る作句の過程それ自体や、自分の考えている川柳性が作品にあらわれているんだと思います。

O なるほど。ところで、ここまでは大枠がイメージの問題をめぐっていましたが、韻律や句形についてはどのようにお考えでしょう?

S 定型詩のいちばんおもしろいところは、定型があることによって否応なくすべて自己言及性を持ってしまうところだとおもっています。575をどう使用するのか、あるいはどうやってそこから逸脱するのか、ということがそのままジャンルそれ自体との距離感になる。それがあるから短い言葉が詩として成立すると思うんですよね。とはいえそれが作品にどう生きているのか、あるいは生きていないのかは自分でもわかりませんが。
韻律についてはわりと頭韻が好きです。あとア音。「たえまなく流体として孕まれて」などはかなりの部分音で選んでますね。ただ川柳であまり歌いすぎてもよくない気がしますし、字余りの句もよく作りますね。過剰に字余りの川柳と、過剰に字足らずの短歌(たとえば高瀬一誌の作品など)の違いがよくわからなくなってきますが。
私は575に対する愛着はあまりないですが、77は好きです。77が独立して一句になるのって結構変ですよね。もともと自律性のないものをひとつの作品として提出しているわけですし。
俳人から見て、川柳の韻律や句形は俳句となにが違いますか?

O 俳句は〈構造〉に取り組んできた文芸なので、句形への意識は強いです。いっぽう川柳は平句の遺風があって句が流れる。もちろん屹立する川柳というのは珍しくありませんが、それは句形の強さではなく、詠みの気迫や読みの奥行きによって屹つんですね。菅原孝之助〈ゆっくりと父を裸にした柩〉、大野風柳〈美しい国の機械が子を生んだ〉、普川素床〈なんと長い足だろう 夜は〉みたいに。やはり川柳は〈意味〉に取り組んできた文芸だと思うし、そこが私にとっての魅力です。
俳句のことをもう少し言うと、77に限らず575も自律性がなく、立ち姿も不安定だと思うのですが、俳句はそれをそう感じさせないための技法を考案してゆきました。例えば、切れ字を使って17文字の内部に彫りを入れ、音律や意味に立体感をつける。また季語を使い、いまここに立ちながら太古から来世までの時空、すなわち永劫回帰性を召喚する。そうやって怪しい土壌に〈構造〉を創造するわけです。もちろん〈構造〉への取り組みとは、阿部青鞋〈半円をかきおそろしくなりぬ〉に見られるような〈脱構造〉を含んでいます。ただしジャンルに関する言説はつねに後づけなので、どんな見立ても本質ではありませんが。

S 川柳の〈意味〉のおもしろいのは、その短さゆえに、意味が十全になることがないところにあると思います。読者はそれを補おうとするわけですが、補おうにもヒントがなさ過ぎて、言葉が描こうとしている世界の全体像が見えない。というより、全体像なんてはじめからないのかもしれない。そうした不安定さや不気味さが川柳だと私は思っています。〈エンタシスの柱に消える大納言〉(小池正博)というように、屹立させつつ(「エンタシスの柱」)もそこから逃れてゆく(「消える大納言」)ような。
川柳はあまり技巧的に見えないし、でも間違いなく技巧はあるはずなのに、理論・体系化されていないので、他の詩型を参照しつつ考えていけたらいいのかな、と思います。特に俳句は575という定型を共有していて、似ているような、でもぜんぜん違うような気がして不思議ですね。いまあまりよくわからずに切れ字をつかった川柳の句を作ってしまったりしているのですが、もう少しこれまでの俳句の蓄積を知ったうえで創作していかないといけませんね。

O 切れ字については「切れ字の前後では主体が変わる」なんて説明の仕方もあります。あと樋口由紀子「川柳に関する20のアフォリズム」と西原天気「俳句に関する20のエッセイ・樋口由紀子『川柳に関する20のアフォリズム』へのオード」という週刊俳句のやりとりなども興味ぶかいです。


5.これからのこと

O さいごに今後どのような活動をしてゆきたいかを教えてください。短いスパンと長いスパンと分けてお伺いできますとうれしいです。

S あまり考えてませんが、とりあえずコンスタントに句をつくりつづけたい、というのと、あと最近はブログに作品を載せるのに飽きてきたので、他の発表の場所をつくりたいですね。同人誌などやってみたいです。
川柳はじめてまだ1年たっていないのですが、300句くらいは作ったと思うので、順調にいけば5年で1500句。それくらい句が集まったら句集つくりたい、と思っています。そのときはお読みいただけたら幸いです。

O 1年300句はいいペースですね。ますますのご活躍を期待しております。ありがとうございました。

(了)

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2019年04月13日

まばたきすることば──粒子と流体とのあわいで/杉倉葉氏ロング・インタビュー(聴き手:小津夜景)@

1.川柳との出会い

小津夜景(以下、O) 杉倉さん、はじめまして。川柳スープレックス「1月の作品」の連作「流体のために」を大変おもしろく拝読しました。川柳というのは若い方がとても少ないジャンルですが、そもそも杉倉さんはなぜこの詩形を選んで活動しようと思ったのでしょう。

杉倉葉(以下、S) 昨年の春ごろ、歌人の瀬戸夏子さんのエッセイなどを読んでいたら度々川柳に言及されていました。たしか『現代短歌』の連載だと思うんですけれど、石田柊馬の〈妖精は酢豚に似ている絶対似ている〉が引かれていて、川柳でこんな変なことをする人がいるんだ、と気になったのが川柳に関心を持ったはじめです。

O 〈妖精は酢豚に似ている絶対似ている〉は快作ですね。これぞ川柳!といったジャンルの王道を体現しつつ、同時に短詩形文学の枠に収まらないエネルギー、外部に飛び出そうとする太いベクトルをはらんでいる、という。

S すごい句ですよね。それにびっくりして川柳が気になりはじめて、ちょうど同じころに、偶然、川柳スパイラルや川柳スープレックスなどで活動なさってる川柳作家の暮田真名さんと知り合ったんですが、暮田さんが「当たり」というネットプリントに載せていらした作品がすごくおもしろかった。それで暮田さんにいろいろ教えていただくうちにいつのまにか自分でも作っていた、という感じですね。ほんとうに歴史もなにも知らないところから川柳をはじめました(いまでもそのままなんですけれど)。
はじめて読んだ川柳の句集は小池正博『水牛の余波』で、まったくわけがわからなかったんですが、わけのわからないものが好きなので、すっかり惹きこまれてしまいましたね。それから、たぶんそのころまだ出たばかりだった八上桐子『hibi』がすごく良くて、水のモチーフの使い方になんとなく現代詩っぽいものを感じて自然に読み進めていけました。
そのころ読んだ句で印象に残っているものを挙げると、

  共食いなのに夜が明けない/暮田真名
  獣偏のデザインは疾走する/小池正博
  えんぴつを離す 舟がきましたね/八上桐子

などです。

O まさに現代詩の一行、といった雰囲気の……。

S そうですね。現代詩だけでなく、もっと他の詩形のひとに読まれてもいいと思うんですが、残念ながら川柳ってすごくマイナーなジャンルですよね。いま川柳を読んだり作ったりしているひとがどのように川柳と出会っているか、ということはとても気になるんですが、小津さんがはじめて川柳に触れられたのはいつなんですか?

O 6歳の時に依田勉三〈開墾のはじめは豚とひとつ鍋〉をおぼえたのが最初ですが、自覚的な出会いは3、4年前です。そのときは川柳そのものに興味はなくて、柳本々々さんの目に映る川柳を理解したかった。そんなにおもしろいの?とふしぎだったの。杉倉さんの目には、川柳という詩形はどんな風に映っているのでしょう。

S 俳人の方にとっても川柳はやや距離のあるジャンルなんですね。
私は川柳のなかでもごく一部しか読んでいないのでかなり偏った印象だとは思うんですが、川柳は人称性というか、発話者の主体性が希薄な気がします。たとえばさっき引いた小池さんの〈獣偏のデザインは疾走する〉や、〈はじめにピザのサイズがあった〉もそうですが、こうした極端に偏った断言の背後に主体が見えるかというと、まったく見えない。
俳句だと(私は俳句にぜんぜん詳しくないのであてずっぽうで言いますが)、一句としてのイメージの完結性がもとめられ、そうなると景を見る主体なり、語を統御する主体というものがあらわれてくるのを感じるんですが。

O あ。それは一般のイメージとはたぶん逆ですね。ふつうは川柳の話者は我を出し、俳句の話者は我を消す、といったイメージなんじゃないかな。 
   
S そうなんですか。でも川柳ってだれかよくわからない変な言葉がただそこに置いてある、って感じがするんですよ。他のジャンルで近いと思うのはアメリカのポストモダン小説家、バーセルミの小説ですね。バーセルミの小説って、ほんとに意味がない掌編ばかりで、読んでいると意味も分からず変な形のプラスチック片を見せられている気分になるんですが、川柳もそれに近い感じがします。
それから、俳句は季語があることによって一句を読むこと自体がほかの句を参照することになるはずなので、とても豊かで、重みがありますよね。それに比べると川柳は(悪い意味ではなく)貧しく、軽やかな気がします。俳句を解釈すると、十七音からさまざまなものを読み取ることになると思うんですが、川柳ではむしろ、得体のしれない余白を前に途方に暮れてしまう。俳句が文の凝縮だとしたら、川柳は文の断片だと捉えられると思います。
ただ同時に(小津さんがスープレックスのインタビューでおっしゃっていた、俳句と川柳の作者性とかかわるところだと思うのですが)、句単位だと川柳は主体性が薄い印象があるのに、連作や句集の単位で読むと必ずしもそうとは言えない気もするんですよね。俳句は最終的なところで季語=歴史に主体性を明け渡しているのに対し、川柳は拠るところがないから、まとまって読んだときにむしろ作者性が目立つのでしょうか。

O うーん、むずかしい。さしあたり詩性川柳と俳句との違いについては、昔、次のような比較を試みたことがあります。
たとえば川柳のパターンのひとつに〈身体性の過剰な改造〉というのがありますが、実は俳句では身体の改造がまったく好まれません。もちろん身体の〈違和〉や〈異化〉を詠む人は少なくないですよ。でもその〈違和〉や〈異化〉は、中心たる身体への幻想があるからこそ成立する予定調和にすぎないんです。また身体性の問題をかなり学究的に考えている俳人にしても、彼らの作業は身体をめぐるありきたりの言説を疑い、その現象を捉え直すことに費やされる。つまりそこでは〈本来の身体〉なるものが空虚なシニフィアンとして、依然として隠れた中心的機能を担っています。
いっぽう柳人の身体に対する姿勢は、まるで新種のアニマロイド(獣人)を生み出すようなクールさです。彼らは身体の破壊、継ぎ接ぎ、再生といったロボティズム的作業を、もったいぶった観念的意匠をまとうことなしに平然とおこなう。言ってみれば、川柳による身体性へのアプローチは人文学的というよりむしろ工学的で、杉倉さんが川柳に対してお感じになる「主体性の薄さ」は、おそらくここに起因する。またこの工学的指向こそ、川柳が芸術の言説によって捉えにくいことの一因でしょう。


S たしかに川柳の身体性は特徴的ですね。詩の一節だったら隠喩として解釈されそうな言葉も、川柳の短い断片的な記述においては身体の再創造として読まれうる。〈喉元に脱走兵を匿って〉(樋口由紀子)、〈背骨から私が匂いだしている〉(畑美樹)、〈この世から剥がれた膝がうつくしい〉(倉本朝世)……。
さっき小津さんがおっしゃっていた石田柊馬の句の外部に跳びだそうとするベクトル、というのも、たぶんそういうところにあるのかもしれませんね。通常の秩序とは異なった世界を作り出すための、キャンバスの外にまで伸びてゆく線のような力を持つ得体のしれない断言。俳句がとらえているのが「過去」だとしたら、川柳がとらえようとしているのは「未来」なのかもしれません。
そうした改造の技術のありかた、使用する道具(モチーフ)の選択に、川柳人の作者性がある、といえるでしょうか。

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2.川柳より前のこと

O 杉倉さんが川柳を始める前に触れてきたものもお聞きしたいです。

S もともと小説が好きで、10代の半ばくらいまで太宰治とか安部公房を愛読していたんですが(いかにも文学青年と言う感じでちょっと恥ずかしいですね……)、高校の頃高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』に衝撃を受けて、それから高橋源一郎の評論などを手掛かりにいろいろ読みました。そのときに鈴木志郎康や藤井貞和や伊藤比呂美を読んで、現代詩というものを知って、だから詩歌を読んだのは教科書に載っているようなものを除けば、現代詩がはじめです。
定型詩に関しては短歌を少し読んだくらいですが、図書館で借りた『新星十人──現代短歌ニューウェイブ』というアンソロジーで知った紀野恵はすごく好きでしたね。
ただそのときは詩歌よりも小説がとにかく好きでした。ベケットに保坂和志、それから金井美恵子。デビュー作の『愛の生活』を読んだ17歳の頃から今に至るまで、金井美恵子がいちばん好きな小説家です。

O 17歳で金井美恵子かあ。それは一歩も寄り道なしに来ましたね。

S まあ金井美恵子はもともとエッセイの口の悪さが好きで読んでいたんです、口の悪い人が好きで……。
大学では、文芸科みたいなところに入ったので、そういうところにいる学生がよく読むようなものを読みはじめます。文芸批評や思想書、あとヌーヴォーロマンなど。
詩歌も読んではいましたが、たまに図書館で詩集を借りるくらいでした。でも、2017年に復刊された松本圭二の『詩篇アマータイム』に衝撃を受けて、それから現代詩ばかり読むようになる。一番好きな詩人は安川奈緒です。『MELOPHOBIA』という詩集がほんとうに素晴らしくて、ただ、絶版で手に入らないんですよね。
書店で詩歌の棚に行くといまいちばん勢いのあるのが短歌なので、短歌も読みはじめて、それが昨年のはじめあたりです。ただ短歌は読めるときと読めない時がありますね。韻律が強すぎる感じがして。俳句はぜんぜん読めていなくて、これから読んでいきたいな、と思っているところです。

O お話を伺っていると、読むものの嗜好と書くものの志向が重なっていそうな感じですね。

S そうですね、基本的に発想も想像力も貧しいので、書く時に拠るものが今まで読んだ本くらいしかないんですよね。
そういえば小津さんはフランスにお住まいだそうですが、俳句を作るうえで、そこから影響を受けていると感じるときはありますか?

O うーん、影響ではないですが、いくぶん変わった孤独体験ができます。日本だと一人になりたくても、一歩外に出れば文字や音声が身体に入ってくるでしょう? 外国語は、意識のチューニングさえゆるめておけば、すべてを100パーセント落書・雑音として脳が処理してくれるから、いつまでも自分の声だけを聴いていられるんですよね。

S なるほど。私はいままで一度も海外に行ったことがないのでまったく体験したことがないです。それは定型のない詩や、散文を書く時でも一緒ですか? たしか詩人の伊藤比呂美さんがアメリカに住んでいらしたときに、どんどん日本語を忘れていって言葉がうまく使えなくなってゆく、ということを書いていたと思うのですが、そうしたことはないのでしょうか?

O ありますよ。運動性失語症(言いたいことはわかっているが言語にならない状態)です。何かを考えようとしても、言葉を置いてある脳の部屋の扉があかない。『海程』の崎原風子もそうだったらしい。アルゼンチンで日系新聞を発行していた方です。

  い。そこに薄明し熟れない一個の梨/崎原風子
  Dの視野にあるヒロシマの椅子の椅子
  ヒエラル墓地の昼の一日の大きな容器
  8月もっとはるかな8へ卵生ヒロシマ

こんな俳句を書く人。風子については、辻本昌弘『語り──移動の近代を生きる あるアルゼンチン移民の肖像』という本があります。


S そういう状態でものを書く、というのは考えただけでもおそろしいです、たまにそういう夢を見るんですが。
はじめて聞きました、崎原風子。かなり変な句ですね、何について書いているのかよくわからない。すごく面白いです。

(つづく)

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2019年04月10日

万葉集における言葉派

先日は、万葉集の笑いとして戯笑歌・嗤笑歌について書きました.

万葉集におけるマイク合戦

しかし万葉集には、それとは質の違う笑いも掲載されています。
おなじ巻16には「無心所著むしんしょぢゃく歌」(心のく所無き歌)二首が載っています。「心」とは、現在でも謎かけ芸人が「その心は?」というように、意味・内容ということですから、無心所著歌とは意味を成さない歌というところでしょうか。

あるとき、天武天皇の第三皇子の舎人親王が側に仕えている者に、由の有って無い歌をつくる者がいたら褒美を与える、と言われました。難しいお題です。ところが、すぐに二首つくった人がいました。安倍朝臣子祖父こおじです。子祖父の歌は親王に認められ、みごと褒美をもらったそうです。

そのとき子祖父がつくった二首は以下のとおり。男女のカップルの体裁をとっていて、先の歌が男から女へ、後の歌が女から男へ書かれています。

  我妹子わぎもこが額にふる双六のことひの牛の鞍の上のかさ(3838)
  
  わが背子が犢鼻たふさぎにする円石つぶれいしの吉野の山に氷魚ひをぞ下がれる(3839)

・我妹子→男性が、妻や恋人などを親しんでいう語。
・瘡→はれもの。できもの。
・背子→男性を親しんでいう語。多くは、女性が夫や恋人などを親しんでいう。
・犢鼻→今で言うふんどしのようなもの。
・氷魚→鮎の幼魚。琵琶湖産、宇治川産が有名。

男女が互いにからかい合う図式になっています。直訳すると先の歌は、彼女の額に生えている双六盤の強く大きな牡牛の鞍の上のできもの。後の歌は、彼がふんどしにしている丸石の吉野の山中に鮎の幼魚がぶら下がっている。まあ、おおよそこんなところでしょうか。

何か、言葉派の川柳を想わせる二首です。意味が取れそうなのに全体としては意味を取り切れない。由が有って無い歌としての基準を満たしています。子祖父が川柳を書いたらさぞ面白い句を書くでしょうね。

ところで言葉派といえば……川柳の世界には「意味のない句」を目指す方がまれにいらっしゃいます。でも、わたし思うのです。意味のない句というものを言語的動物である人間が作れるのでしょうか。(将来は分かりませんが)いまの段階でのわたしは、それは厳しいんではないかと思います。

簡単に言うと、意味というものは、どうしたって発生してしまうからです。じつは上掲の二首も、親しい男女(夫婦?)が互いの局部を詠んでいる、という解釈があるのです。あくまでも局部を示唆している、という程度かも知れませんが、それでも意味に違いはありません。意味が生じてしまっている。

そもそも何もないところにすら意味を見出すのが鍛えられた鑑賞者です。詩歌でも音楽でも演劇でも、そこでどんなに空白や無音や間が使われたとしても、鍛えられた鑑賞者ならそこに意味付けをする。これは経験上、分かる方も多いと思います。

それに上掲二首で使われた言葉の間には、意味的な対応もあるのです。二首はそれぞれ反対概念で構成されています。「我妹子」「わが背子」という男・女、「額」「犢鼻」という上部・下部、「双六」「円石」という四角・円、「牡の牛」「氷魚」という大・小/強・弱、「鞍の上」「下がれる」という上方・下方。即詠だけに意味上の対応が働いたのでしょうか。それとも先行する歌に言葉を当てはめ直したのでしょうか。いずれにせよこのような対応は、子祖父が言葉の意味をしっかり理解した上で二首をつくった痕跡です。そうであれば、単語レベルでなく一首全体としても意味は生じてくるでしょう。

と、いろいろ書きましたが上掲二首は、けっして明快な意味はなさない。由の有って無い歌というお題に見事適っています。万葉の頃から言葉派がいたのですから、それは何も特殊な書き方ではなく、詩歌一般にあって然るべきなのでしょう。そんなことを考えました。

2019年04月09日

万葉集におけるマイク合戦

新元号が令和に決まりましたね。その由来になったということで、いま『万葉集』が脚光を浴びています。わたしの住まい周辺の書店や図書館では、新元号が発表されてすぐに万葉集のコーナーが出来ていました。

万葉集といえば……先日、歌人集団かばんの会では、「笑える歌」で競う歌会が開かれました。わたしは詠草を提出する前に、笑いと短歌の関係について歴史を遡って調べてみました。すると、やはり『万葉集』にいきついたわけです。最古の和歌集ですものね。巻16の戯笑歌・嗤笑歌が笑いや滑稽に関わっています。次の歌は、平群朝臣(へぐりのあそみ)という人が、穂積朝臣(ほづみのあそみ)という人をおちょくっている歌です。
 
  わらはども草はな刈りそ八穂蓼やほたでを穂積の朝臣あそが腋草を刈れ(3842)

・「な〜そ」→〜するな
・「八穂蓼を」→多くの穂のついた蓼を刈って積む意から、人名「穂積」にかかる枕詞。
・「腋草」→腋毛。腋毛を草に見立てた語。一説に、「草」に「臭」の意をかけて「腋臭」のことともいう。

子供たちよ、草なんか刈らないでいいから、ぼうぼうと生えた穂積朝臣の臭い腋毛を刈っちまえ。これくらいの意味でしょうか。穂積朝臣は腋臭なんでしょうね。こういうディスり方は、現代の一部のお笑いやラップミュージック、ネット書き込みにも通じるかも知れませんね。

さて、こんなことを言われては穂積朝臣も黙っていません。こう返します。
 
  いづくにぞ真朱掘る岡薦畳こもだたみ平群の朝臣が鼻の上を掘れ(3843)

・「真朱」→まそほ。顔料にする赤い土。赤い色。
・「薦畳」→マコモで編んだ畳。枕詞としては、いく重にも重ねて編む意から、「重 (へ) 」と同音を持つ地名「平群 」の「へ」にかかる。

何処にあるんだろうか真朱を掘る丘は? 平群朝臣の赤い鼻の上を掘れ。まあ、こんな意味なのでしょう。じぶんの腋臭をディスられた仕返しをしているのですね。赤土はどこだ・・・(あ、そうだ!)平群朝臣の鼻は赤いからそこを掘ろう! って。

どちらも相手の身体的なハンディをおちょくっているのですから、二人の間に信頼関係がないとできない書き方です。わたしたちが公に発表する短歌の参考にはならない。でも、くだけた中にも機知がある二人の応酬を見ていると、現代の種々の興行で見られる「マイク合戦」に似た娯楽性を感じます。そう、嗤笑歌もマイク合戦も、表現者同士の信頼関係によって、また表現者と観客の信頼関係によって娯楽となり、笑いや滑稽への道筋がうまれるのです。

2019年04月01日

蟹の腹/赤松ますみ


真実は水ようかんの底あたり

ジェラートでそっとなぞってゆく邪心

満月のテイクアウトはできますか

金箔はごめんこうむる笹だんご

ミルクソフトでしっかりまるめこみました

たわごとに酔うかがり火も夜桜も

羽二重餅へゆっくり沈む九谷焼

自白する覚悟はできた蟹の腹



【ゲスト・赤松ますみ・プロフィール】
川柳を書き始めて二十四年と七ヶ月が過ぎた。川柳で今一番興味があるのは吟行や印象吟を通じて非日常の扉を潜りながら言葉を五七五に紡ぐこと。現在、川柳文学コロキュウム代表。印象吟勉強会・ぜりぃびぃんず代表。


縦書き画像をご覧になるばあいは以下をクリックしてください
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posted by 飯島章友 at 00:13| Comment(0) | 今月の作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする