2018年06月05日

「水脈」第46号・第47号・第48号

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「水脈」(年3回発行)
編集人 浪越靖政
事務室 一戸涼子

【水脈46号同人作品】
未使用の空に「あ」を描く冒険家  岩渕比呂子
わたくしは伏せ字の上に立っています  小林碧水
「重要なお知らせです」と黒揚羽  浪越靖政

【水脈47号同人作品】
ランジェリーもランプシェードも揺れの中  酒井麗水
冷蔵庫に窓を付けると江差追分  佐々木久枝
目覚めれば素顔のマツコ・デラックス  落合魯忠

【水脈48号同人作品】
裏声になるまでまぶす郷ひろみ  落合魯忠
ゴミ置き場にやにや顔が捨ててある  中島かよ
のびきったセーターと行く活字狩  一戸涼子


北海道の江別を本拠とする「水脈」(すいみゃく)は、浪越靖政さんが代表を務める柳誌。浪越靖政さんも事務の一戸涼子さんも「バックストローク」→「川柳カード」→「川柳スパイラル」の同人として活躍して来られた。そんな訳で北海道、特に道央にお住まいで現代川柳を志向する方にはお勧めのグループといえよう。見本誌を取り寄せるなどしてほしい。

毎回の「作品鑑賞」は内部評と外部評とがあり、外部評は48号は兵頭全郎さん、47号はなかはられいこさん、46号は筒井祥文さん、45号は樋口由紀子さんが担当している。

コンテンツとしては、「同人作品」「作品鑑賞」のほか、同人諸氏が句集や他誌の一句について短評を書いた「一句にふれて」、課題としての絵図や写真をもとに作句する「イメージ吟」、先行する川柳の下五の語か句を取りその同義語(同義句)か反義語(反義句)を入れた五七五を交代で創っていく「創連」、おもに現代川柳界の時事についてまとめた後書きとしての「水源地」、また各人のエッセーや合評会・イベントのレポートなどもある。

なお「イメージ吟」というのは、川柳の世界ではわりとよくある題詠の形式なので、聞いたことがなかった方は頭の片隅に入れておいてほしい(例えばゆうゆう夢工房Web句会では毎月イメージ吟も行われている)。川柳の句会では、イメージ吟、袋回し、前句付け、五分間吟、冠付けや沓付けといった雑俳を適宜おりまぜ、参加者を飽きさせない工夫をすることがある。

「水脈」誌は平成14年に創刊。飯尾麻佐子の「魚」(昭和53年創刊)、「あんぐる」(平成8年創刊)を引き継いだ柳誌だ。「水脈」の成り立ちや飯尾麻佐子については「週刊川柳時評」の「飯尾麻佐子と女性川柳」を読んでほしい。


山頂を食べのこしたりマリンブルー  飯尾麻佐子


水脈」連絡先はこちら


posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月02日

陶器店こわれた指をあたために  加藤久子

陶器店こわれた指をあたために  加藤久子

『現代川柳の精鋭たち』(2000年 北宋社)より

省略された言葉を素直に補えば、「こわれた指をあたために陶器店(へ行く)」という意味の句だろう。
まずは「こわれた指」を抱えたなにものかが陶器店にきた、向かっている、と読めるが、「こわれた指」という言葉遣いに微かな違和感がある。「肩を壊す」や「肘を壊す」とは言うが、指という小さな関節にこわれるという動詞が使われているのは見たことがない。「こわれた指」という表現には、頭に置かれた「陶器店」のイメージが響いている。その連想で、陶器でできたなにかの「こわれた指」を思い浮かべることができるだろう。陶器製の人形の、あるいは動物の欠けた指。しかし、これはあくまでも可能性であり、結局のところ「こわれた指」とは何の、いかなる状態なのか定まらない。
その指を修復するのかといえば、そうではない。「あたため」るのだ。まるで「壊れたものは直さなければならない」という世の理から遊離しているかのように。「陶器店」で。壊れたものを温めてもどうにもならないだろうし、陶器が整列する陶器店はむしろ熱からは遠い。
私は、陶器のティーセットで紅茶を淹れ、温まったカップにおろおろと指を添える人を想像した。
想定される言葉からのずれが読み手をうつくしい行き止まりへと導く、静謐な句。
posted by 暮田真名 at 22:03| Comment(0) | 暮田真名・一句評 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

英田柚有子さんを読む、のと、ほんとうにおもいだせそうにないんですか?/やぎもともともと

 もう蓋の話す言葉がわからない  英田柚有子


さいきん、川柳って、絵本リアリズムにちかいのかなあとおもう。柚有子さんの川柳を読んでいるとそんなふうなことを教えられるようにおもうのだ。

「もう〜わからない」っていうのは、いままでは、蓋と話せたということであり、蓋と話せる世界は、絵本の世界ではごくふつうに、自然に存在する。NHKの朝の教育をみてみるといい。ビーグルや羊や椅子と話している。

川柳のわかる/わからない論ってよくあるのだが、それは、想像力の幅をどこまでひろげるか、で決まってしまうのではないか。でもべつに想像力をひろげればいいというわけでもない。川柳はこうあるべきだから、という立場も大事だから(だから「わからない」も実は大事で捨てちゃいけないとおもう)。

でも、もし、〈読むひと〉になろうとするなら、想像力の境界をひろげたうえで読んでみるのもありなんじゃないだろうか。とくに川柳においては。

去年、青森県の川柳ステーションでも述べたのだが、柚有子さんの「蓋」を「母」にするだけで、(とりあえず)だれでも読めるものになる(「ジジ」にして魔女の宅急便のことを考えてもいい)。わたしはじつはわかる・わからないってそれくらいの差であって(たぶん鍵は「任意性」)、でもこの句は「母」でなく「蓋」をえらんだのだから、蓋と日常的に話す世界からこの句にちかづいてみたらどうなんだろうとおもうのだ。そしてそういうことは現代川柳にはおおいんじゃないかと。

わたしはよく樋口由紀子さんの非常口をセロテープで止める句をおもいだすんだけれど、由紀子さんは、〈そうとしか書けなかった〉と書いていた。だったら、読者もいったん、〈そうとしか考えられない世界〉から考えてみるのはどうなんだろう。

本気であなたは蓋と話そうとしたことがありましたか?

いやもしくはこうでもいい。

ほんとうにあなたはかつて蓋と話していた記憶を思い出せそうにないんですか?




posted by 柳本々々 at 01:24| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月01日

まだ光る   英田柚有子


感情のある包丁はお断り

中指の棘はやっぱり人でした

眼球をひとつ落としてから軽い

水色に塗って明朝までは犬

濡れたなら溶ける素材であったなら

もう蓋の話す言葉がわからない

金属だったからまだ光る

落し物の蝸牛はこれで全部



【ゲスト・英田柚有子(あいだ・ゆうこ)・プロフィール】
「川柳スパイラル」会員

縦書き画像をご覧になるばあいは以下をクリックしてください

まだ光る.gif
posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 今月の作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月30日

今月の作品『「パプリカ」にまたがって』を読む

 時々考えることがある。川柳は「どうやって読む」ものなのだろうか。ここで言う「読む」とは、単純に言えば音読か黙読かということである。
 それではあまりに粗雑なので、少し補足すると、「文字をどうやって脳内で変換しているか」である。
 わかりにくい補足になってしまった。わかりやすい一例として、きゅういち氏の「今月の作品」から見てみよう。

  消えま・・・まで言ってカタツムリは消えた

 この句の場合、「・・・」をどうやって捕らえるかである。「・」をひとつの音として捉えるならば、「消えま・・・」は六文字と認識することができる。しかし、「・・・」を無音として読むとき、「きえままで」と上五の句になるのである。
 つまり、「消えま・・・まで」の「消えま」から「まで」まで(!)のあいだが、消失したことになる。
 この際、掲句は「きえままで/いってかたつむ/りはきえた」と、見事なまでに五七五の定型を守っている。
 しかしながら、なぜわれわれは、そのような「読み」をしてしまうのだろうか。すなわち、なぜ五七五という定型に沿って読んでしまうのだろうか。
 ヒントは「・・・」という三つの「・」にあるような気がする。
 たとえばこれが「・・」という二文字だったら、「消えま・・」という五文字の句として読むことができる。
 また、「・」ではなく、「×」という伏せ字だったら、「消えましょう」「消えましたと」などの、「意味」を持った句としても読めてしまう。
 しかしながら、掲句は、その読者の甘い期待を裏切る。「消えま・・・まで」と提示されたとき、読者は、何が消えたのか、どこまでが「まで」なのか、途方に暮れることになる。
 だからこそ、読者は五七五に頼るのではないか。
 五七五という定型は、作者のためではなく、読者のためにあるという考えはどうだろうか。
 「読む」ということが作品を成立させるための行為だとしたら、「読むためのツールとしての五七五」という考えは、さほど突飛なものではあるまい。
 掲句を見てみよう。この混沌とした世界を、「世界」として成立させたいという欲望が、読者であるわたしにもあなたにも、湧いてこないだろうか。
 そのとき、「五七五として読みたい」という欲望が、湧いてこないだろうか。
 畢竟、「世界」とは「何かに型を与えたいという欲望」のフォルムである。川柳とは、そうやって「世界」を切り取ってくる文芸だと、私は思う。
 だから、その欲望に対して何らかの違和感、平たく言えば、「そんなのやってられっか」という「作者」は、何か罠を仕掛けるのではないか。少なくとも、この掲出句には、読者の欲望を逆手に取り、読者の既成概念を揺さぶる仕掛けがなされていると思う。
 これは妄想だが、「「パプリカ」にまたがって」という連作のタイトルにおける「パプリカ」とは、おそらく筒井康隆の同名小説である。
 ここで筒井作品との意味的な連関については触れない。
 ただ、「筒井康隆『パプリカ』」というひとつの「型」をみずからの型のなかに取り込むこと。そこに構造としての川柳の快楽があるのではないか。
 自己言及とは、結果として自己の消滅をもたらす。カタツムリが殻の中にみずからを閉じこめてゆくとき、「消えま・・・」ものは何なのか。ここを巡って、読者と作者が戦うことが、川柳を「読む」ということなのだと思う。
posted by 川合大祐 at 19:50| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする