2017年06月14日

ファミコンソフト『サラダの国のトマト姫』(1984)と読むをめぐって 安福望×やぎもともともと

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柳本 短歌や俳句や川柳にときどきゲームをとりいれたものがあるけれど、たとえばドラゴンクエストだったら短歌は工藤吉生さん、俳句だったら外山一機さん、川柳だったらSinさんみたいに。
でももともとゲームってとっても文学に近いんじゃないかとはおもってるのね。
例えばファミコンソフトで『サラダの国のトマト姫』っていうのがあるんですけど、これはアドベンチャーゲームというか、〈読み物ゲーム〉なのね。テキストをどんどん読んで選択していくっていう。
ゲームって読み物なんだってことがすごくよくわかるとおもうんですよ。もうそれはファミコン初期からあったんだっていう。
つまり、文学少女や読書少年もゲームに入る余地があるぞっていう。
こういうのはあとでスーパーファミコンの『弟切草』とか『かまいたちの夜』としてもでてくるんですね。
小説しか読まないようなひとたち、とくにゲームをしない女の子たちが〈読み物ゲー〉があることで入ってきたんじゃないかっていうのは『弟切草』をやっている女の子をみてて昔おもったことがあるんですよ。なんていうのかな、プレイじゃなくて〈読む〉なんですよ。でも、この〈読む〉っていうのがドラゴンクエストとかファイナルファンタジーなんかもそうなんだけど、すごく大事で、読書家たちは意外とその点でゲームをやってたんじゃないか。わたしなんて、街のにんげん全員とかならず会話してましたもん。
だから小説好きとゲームって意外と親和性高いぞっていうのがあるとおもうんですよ。文学とゲームってそれほどかけはなれてないですよっていう。サラダの国がそれをおしえてくれた気がする。

安福 これ、ゲーム画面のコマンドみてみると、たたくとたたかうはべつなのかな? ほめるとかすてるとかあるんだなあ。ほめるってどういうことなんだ

柳本 そういう意味のわからない弁別がゲームにはあって。ゲームって過剰性なんですよね。とくに初期は。よくわからないもんをためこんでた。

安福 ここはセロリの森っていって、柿がたおれてるっていって、意味わからないなっておもった笑。意味わからなくてもゲームだからうけいれられるんですよね。ゲームの枠だと。
これ短歌といっしょだなあっておもった。なんか意味わかんないこといわれても短歌ですよっていわれたら
 
柳本 ああほんとですね。たぶんファミコンなんか制限がおおかったからじゃない。ちょっと定型だよねその意味では。
ゲームって境界が未熟なぶん、世界がゆたかだったんですよ。べつにサラダの国があってもいいよね、みたいな。あと、初期のファミコンはドットだったから、プレイヤーの想像力にゆだねられるぶん、こうこうこうです!っていわれたらもう「そうなっちゃう」のね。それがファミコンのよさでもあったとおもうけど。
ただ絵とかもそうだとおもう。絵の額のなかって限られてるじゃないですか。こうこうこうです!って絵としてバーンって提示されたら、受け入れるしかないじゃないですか。そうかあ、って。そういうのあるんじゃないかな。
世界を提示したらそのまんまうけいれるっていう。枠の世界観ってそういうものじゃない。写真も映画も。
やすふくさんて野菜をテーマにした絵だけをかいてるじゃないですか。

安福 いやぜんぜんそんなことないけど笑。そういえば木下さんの短歌を思い出した。

  ああサラダボウルにレタスレタスレタス終わらないんだもうねむいのに/木下龍也

これもひとつのサラダの国だ。

柳本 ゲームって初期からずっとわりとそういう〈なになに尽くし〉の世界観って感じだったんじゃないかな。『パロディウス』っていうシューティングゲームでも、ケーキのなかを弾をうってすすんでいく面があるのね。それは昔、大阪のイベントでやすふくさんが語ってたうる星やつらの巨大ケーキの世界観ともにてるとおもいますよ。

安福 いや語ってないですよ。やぎもとさんが説明してただけで。

柳本 なるほどなあ。そうですか。

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posted by 柳本々々 at 12:38| 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

任天堂ゲーム『MOTHER』と歌うをめぐって 安福望×柳本もともと


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柳本 そういえば『マザー』ってゲーム、糸井重里さんがつくったゲームがあって、そのなかのまちのひとにはなしかけるとあるひとが、「おまえよくやったよなあ」っていってくれるんだけど。

安福 へー、それいいなあ。

柳本 たぶん『マザー』ってゲームは〈おまえよくやったよなあ〉ってゲームなんだとおもう。母親や父親が「よくいきたよねよくやったよ」っていってくれるゲーム。ちょっと岡野さんの短歌みたいだけど。
もちろんそのうらめんとして、それをいってくれないいきかたをえらんじゃうひとがでてくるんだけど。ギーグとかポーキーとかね。
だからそのいみではすごくあたたかくてすごくざんこくなゲームなんだけど。なきたくなるような。なんだかよくわかんない感情で泣きたくなるような。
マザーってよくいわれるけど、他人のアザーとかみひとえだもんね。
ラスボスが赤ちゃんなんだよ。

安福 えっ、そうなんだ。

柳本 だからそのあかちゃんがもとめてたことはたぶんたったひとつで、よくやったよなあおまえ、っていってくれるひとをみつけることだったんだとおもう

安福 なるほどなあ。

柳本 そういえばラスボスをうたうことでたおすんだよね。ちからじゃなくて。だから短歌とも無縁じゃないとおもうんだよ。

安福 えっ。へー

柳本 うたうってコマンドがきゅうにあらわれるのね。うたうことといのることで倒す。

安福 短歌ですね

柳本 そうそう。うたうといのるはにてるとこがあって、とどくかどうかわからないことだよね。魂の賭けというか。パンチはとどくから。チョップも。でも、うたうやいのるはとどくかどうかわからない。

安福 ほんとですね。わかんないね

柳本 ラスボスは宇宙人だからとどかないばあいもあるし。それでもひとってうたったりいのったりすることあるよね。だから短歌って、魂の賭けにちかいぶぶんがあるんじゃないかって。でも、おまえよくやったよなあ、っていってくれるひとがあらわれるばあいもあるのかもって。ずっとうたったりいのったりしてると。

安福 あんた、いろんなはなしするなあ。

柳本 ほんとだね笑

posted by 柳本々々 at 08:15| 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月12日

川柳「カモミール」第1号 B

川柳「カモミール」第1号 @
川柳「カモミール」第1号 A


 縁日のお面の裏に誰かいる  滋野さち

とつぜんですが、人間には孤独を味わいたいという潜在願望がありますまいか。

犯罪者という犯罪者は、電車の中でも縁日の人通りでも、群集の中のロビンソン・クルーソーである。
(江戸川乱歩『群集の中のロビンソン』)
私自身も都会の群衆にまぎれ込んだ一人のロビンソン・クルーソーであったのだ。ロビンソンになりたくてこそ、何か人種の違う大群衆の中へ漂流して行ったのではなかったか。
(同上)

これ、よく分かるのです。わたしも、特に理由もなく繁華街へふらっと行くことがあるのですが、おそらく大勢のなかの「誰か」として漂流したい、という無意識の働きなのではないかと思います。

何者でもない「誰か」になりたい。思うにこの潜在願望は、〈楽屋〉を確保したいということにつながっていると思うのです。お面をかぶって舞台を演じるには、お面を脱ぐ場所、つまり何者でもない「誰か」にもどる場所が必要だ。それこそが〈楽屋〉なのです。

呪術なり神事なり舞台なりで演戯を行うときにかぎらず、人間とは「お面」をかぶり、他者との関係性のなかで役割を演じる演戯的存在だ。「お面」をかぶることによって、あるときは子の親を、あるときは真面目な会社員を、あるときは自治会役員を、またあるときはアイドルの熱烈な追っかけを、そしてまたあるときは新聞柳壇の常連投稿者を演じる。しかしてその実体は・・・誰なのだろう。

述語部分にいくら「親である」「会社員である」「アイドルの追っかけである」といろいろな要素を当てはめてみても、主語の〈自分〉が何者であるかは捉えきれない。なぜなら、繰り返しになるけど、自分とは「お面」を脱いだ〈楽屋〉という場であって、〈楽屋〉があるからこそ人間は素顔が確保され、役割から解放される。逆にいえば、素顔が確保されていればこそ「お面」をかぶったり脱いだりすることができる。舞台をおりたその素顔は、演劇から解放された「誰か」であり、目も耳も鼻もないのっぺらぼうなのだ。

ところで、近現代の私小説がつらいのは、素顔が確保される〈楽屋〉を舞台化してしまったところでしょう。「誰か」に戻れる〈楽屋〉を舞台にしてしまったら、素顔とお面が一体化してしまい、自分を失ってしまうではありませんか。〈私〉を追求した挙句に素顔を失う。これほど皮肉なことはありません。

滋野さちさんの句からこんなことを考えたのだが、ここまでくどくどしく「お面」について書いたわたしは〈無粋者〉という「お面」をかぶっている。

「二十面相」というのは、毎日毎日、新聞記事をにぎわしている、ふしぎな盗賊のあだ名です。その賊は二十のまったくちがった顔を持っているといわれていました。つまり、変装がとびきりじょうずなのです。
 どんなに明るい場所で、どんなに近よってながめても、少しも変装とはわからない、まるでちがった人に見えるのだそうです。老人にも若者にも、富豪にも乞食にも、学者にも無頼漢にも、いや、女にさえも、まったくその人になりきってしまうことができるといいます。
 では、その賊のほんとうの年はいくつで、どんな顔をしているのかというと、それは、だれひとり見たことがありません。二十種もの顔を持っているけれど、そのうちの、どれがほんとうの顔なのだか、だれも知らない。いや、賊自身でも、ほんとうの顔をわすれてしまっているのかもしれません。
(江戸川乱歩『怪人二十面相』)
われわれが日常生活でうそをつくばあひでも、それが相手をだますうへに最大の效果を發揮するためには、ある瞬間、自分でもそのうその魔術にひつかかつてゐたはうがいい。舞臺の名演技といふものもおなじやうな性質をもつてゐます。しかし、演戲において──うそをつくばあひと同様に──重要なことは、陶醉よりも、そのあとで醒めるといふことではありますまいか。いや、陶醉しながら醒めてゐることではないでせうか。醒めてゐるものだけが、醉ふことの快樂を感覺しえます。醒めてゐる自分がないならば、うそをついたのでも、演戲したのでもなく、自分もまただまされてゐるのであり、演戲させられてゐるのにすぎなくなつてしまひませう。
(sc恆存『藝術とはなにか』・sc恆存全集第二巻所収・文藝春秋)

 ◇ ◇ ◇

三回にわたって「川柳カモミール」第1号を紹介してきました。カモミール句会も名古屋のねじまき句会もそうですが、いわゆる〈膝ポン川柳〉とか〈あるある川柳〉とはだいぶ違う。カモミールやねじまきのようなスタイルを便宜的に〈詩性川柳〉といっておくならば、そのスタイルの句会を続けていくうちには多少なりとも困難がおありだったと思います。世間が川柳にいだいているイメージと相当かけ離れたスタイルだし、詩性川柳をコンスタントに書いている作家じたいが少ないからです。それでも「川柳カモミール」「川柳ねじまき」として会報誌を出されている。これはすごく意義がある活動だと思います。

では、いったい東京で詩性川柳を中心とした句会なり読みの会を開くことはできるのか。詩性川柳不毛の地に一粒のたねを蒔く時機は近づいているかも知れません。


posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月11日

約束の土地へ:200字川柳小説  川合大祐

神に告げられた。「お前を祝福しよう。お前がいちど左折するたびに、地球の直径を1センチ縮めてやろう」。翌日、どうしても役所に行かなければならず家を出た。道が分かれているところに来ると、必ず右に曲がった。どんどん進路は目的地からずれて行き、役場も家も遠くに過ぎ去った。憔悴した、魅力的な人に出会った。「私が右折する度に、地球が1センチ縮むんです」とその人は言って左折していった。もう会うことはないだろう。

  左折左折左折 小さくなるわけだ  三浦潤子(「川柳カモミール」第1号より)

posted by 川合大祐 at 00:00| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月04日

デザイアー・フォー・コミュニケーション:200字川柳小説  川合大祐

外面如菩薩、内心如夜叉という言葉があてはまるかどうかわからないが、君は味噌だ。内心にどんなしょっぱさがあるのか、僕にはわからない。そもそも味噌の君に内心があるのかわからない。だいいち味噌の内心とは何なのか、そのうえ君とは一体何なのか、いやまず僕とは何だったのか、僕らにはわからない。そんな僕らは眠る、眠らなくても明日は来るのかどうかわからない。ただわかる、味噌は重いと言うことが。僕にはわからないが。

  眠り込む君の乳房の破壊力  藤みのり(今月の作品「慈しみ」より)

posted by 川合大祐 at 00:00| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする