2018年08月08日

今月の作品 本間かもせり「球 根」を読む

川柳とは不思議な詩型である。
そもそも川柳という名称もなんだかよくわからない。川柳という名称は人の名前から来ている。例えていうと俳句を芭蕉というようなものである。実にヘンテコだ。名称の由来となった初代柄井川柳という人は川柳の名作家という訳ではなく、ただの選者である。これまた意味がわからない。関係ないが落語の世界に〈川柳川柳〉という噺家がいて、〈せんりゅうせんりゅう〉とは読まずに〈かわやなぎせんりゅう〉と読む。川柳をやっていると妙に引っかかる名前である。
またまた話は変わるが、川柳というものは575定型が一般的である。これは俳句でも同じであるが、川柳には575だけではなく、77というものもある。77の形式のものは武玉川調とも十四字詩ともいう。武玉川調の名前の由来は『誹諧武玉川』という江戸時代中期の付句集から来ており、同書には575と77という長句と短句が含まれている。武玉川という名称もこれまた独特である。川柳といい武玉川という名称は芸術至上主義者からみると嫌悪感を覚えるかもしれない。ただこの訳の分からないところが川柳の良さではないかと考える。

さて、本間かもせりさんの今月の作品であるが、見事に全句武玉川(もしくは十四字詩)形式である。575に比べて文節が2つしかないので575に慣れている人からみると妙な違和感をおぼえるものだが、ハマると心のどこかにひっかかる。それが非常に刺激的で興奮するのだ。


  添付ファイルをカフェに忘れる
私事ですが、よくモノを忘れます。カフェや飲み屋やレストランでいろいろなものを置き忘れてきましたが、さすがに添付ファイルだけは忘れたことはありません。これを忘れてしまうとは作中人物はさすがです。

   脱ぐのが早いほうが容疑者
私は脱ぐのは早い方なので、容疑者になるかもしれません。いったいなんの容疑者でしょうか? 姦通罪かもしれません。恐ろしい世の中です。

  謙虚なひとは球根になる
先日イヌサフランの球根をイモと勘違いして食べてお亡くなりになった80代女性の人がいたと、ニュースで知りました。球根は毒にもなりうるのです。謙虚なひとは尚更です。

  歌を忘れたMiG-21
ソビエト連邦が誇る名機は何故に歌を忘れたでしょうか? 1976年に ベレンコ中尉が日本に亡命した際に乗っていたのはMiG-25でしたので、もしや先に亡命した弟を思って悲しんだのかもしれません。ところでミグ21の正式表記はMiG-21なのですね。川柳やっているといろいろ勉強になります。


色々心惹かれる句ばかりでこれを書いている私も楽しくなります。
このように575だけが川柳ではないのです。575に縛られず77にも目を向けてみませんか。
posted by いなだ豆乃助 at 10:22| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月03日

「川柳スパイラル」3号発行

spiral3.JPG

「川柳スパイラル」第3号が発行されました。

特集は【現代川柳にアクセスしよう】。現代川柳に興味をもったばかりの方には便利な特集だと思います。

また今回の【小遊星】は、森山文切さんにご登場いただき、「伝統川柳」の世界について伺っています。

今号の「五つの現代川柳」の中で小池正博さんは、川柳を5つの面から書いています。それは、サラリーマン川柳、時事川柳、伝統川柳、私性川柳、過渡の時代の川柳、です。分かりやすいように敢えて極端な言い方をこれからしますが、川柳って、各人がどの川柳に出合うかで川柳観がまったく違ってしまうジャンルだと思います。歌壇だと、たとえスタイルが違っていても、歌論を交わせるだけの共通項はそこそこあると思う。でも川柳の世界は、別のスタイルの書き手と柳論を交わすことがとても難しい。川柳の基盤が違いすぎて、言葉が通じないのですね。

でも森山文切さんは、今までの伝統川柳の方とは良い意味でタイプが違っていたので、スムーズに会話することができました。じぶんが長年、伝統川柳に抱いていた分からない点にも冷静に答えていただき、少なくともわたしにとっては、たいへん有意義な記事となりました。感謝!

【川柳スパイラル3号・内容】
・巻頭写真  入交佐妃
・渦へのアクセス  小池正博
・同人作品Spiral Wave
・【特集】現代川柳にアクセスしよう
  現代川柳発見  飯島章友
  二字の彼方に―前提を超えて  川合大祐
  川柳を描く。と何かいいことあんですか?  柳本々々×安福望
  五つの現代川柳  小池正博
・会員作品Plastic Wave
・現代川柳あれこれ Biotope  小池正博
・GAKKOの川柳な人たち  月湖
・【リレーエッセイ】お蚕さま  畑美樹
・小遊星 第3回  飯島章友×森山文切
・本格川柳小説 PARTV  川合大祐
・おしまい日記 第3回  柳本々々×安福望
・妄読ノススメ  兵頭全郎
・川柳スパイラル・東京句会
・大阪句会
・投句規定・合評句会案内
・編集後記

川柳スパイラル

posted by 飯島章友 at 23:00| Comment(4) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月01日

球 根   本間かもせり


添付ファイルをカフェに忘れる

脱ぐのが早いほうが容疑者

謙虚なひとは球根になる

歌を忘れたMiG-21

冷たい部屋で赤い靴履く

砂の上ならまず許される

平服で来るダース・ベイダー

奇数だったらまた逢いましょう



【ゲスト・本間かもせり・プロフィール】
川柳誌「風」「川柳スパイラル」
自由律俳誌「海紅」


縦書き画像をご覧になるばあいは以下をクリックしてください
球根.gif

posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 今月の作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月31日

ひとり静「野原いっぱい」を読む

7月の作品はひとり静さんの「野原いっぱい」だった。ひとり静。すてきな筆名だ。「一人静」というのは、しろい花を咲かせる多年草。このような名称を見ると、名づけた先人の詩心を感じる。作者のひとり静さんも、その名のとおりガツガツせず、ひとり静かに作句をなさっているのではないか、なんて想像をしてしまう。

今回も作品群も、作中に登場する植物のイメージが、別種のモノやコトになぞらえられ、照応している印象をもった。

原っぱにいると隙間ができそうだ
ヒメジョオン今は文字より音符でしょ
嵌ってしまうヤブガラシ的思う壺
蔓草よ愛を殺したのはどっち
舟なんかよこし聞き分けないハコベ
ため息も出ないママコノシリヌグイ
夏草が時間を止めているのです
夕暮れはハサミを持っているようだ


「ヒメジョオン」と「音符」、「ヤブガラシ」と「嵌ってしまう」、「蔓草」と「愛を殺した」、「ハコベ」と「舟」、「ママコノシリヌグイ」と「ため息も出ない」、「夏草」と「時間を止めている」。これらは読み終えてすぐ、感性の次元で合点させられた。言ってみれば、両者が地下水脈でつながっているように感じられたわけだ。けれど、その後によくよく分析してみると、どこで一脈相通じているのか、すぐには分からなかった。

このように、いっけん関係のなさそうなものどうしが、それにもかかわらず呼応するとき、明快な散文的世界から解き放たれる快感がある。いま自分は韻文を読んでいるのだ、という心地がするのだ。植物ではないけれども、同じことが「原っぱ」と「隙間」、「夕暮れ」と「ハサミ」の関係性にもいえる。

さて、群作中でもっともシンパシーをいだいたのは次の句だ。

夏草が時間を止めているのです

たぶん、自分がかつて書いた短歌を思い出したからだと思う。歌誌デビューして間もないころの若書きで恥ずかしいのだけど、それはこんな歌だ。

積雪に音飲まれ行く夜のみち無条件降伏してもいい  (「かばん」2009年11月号)

「行く」と漢字で書かれている。いまなら「ゆく」とひらがなで書くだろう。この歌、三句目までは、一面を覆う圧倒的な雪のしろさに音すらも奪われ、何かこの世が停止してしまったかのような、ひどく頼りない気配がある。そしてその後、「無条件降伏してもいい」と句跨りで一気に表現されることで、いまにも自分が無化されそうな、切迫した気持ちが伝わってくる。

ひとり静さんの句も、圧倒的な「夏草」の量と生命力によって世界が押さえ込まれ、時間すら無効になってしまったかのようだ。別言すれば、時間という小川に生い茂る夥しい「夏草」が、時の流れをせき止めてしまっているかのようだ。春草や秋草では、「時間を止めて」しまう感覚は出ない。

ただ、わたしの歌と違うところもある。ひとり静さんのほうは、切迫した感じがあまりないのだ。世界の外側から、ですます調で静かに語りかけている、そんなゆとりを感じるのである。

さびしいと人を食べてはいけません  ひとり静

posted by 飯島章友 at 23:52| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月26日

お笑いと短詩  柳本々々

あるとき漫才を見ていて漫才って定型的だなあとおもったのだが(ボケ・ツッコミ、時間、立ち位置、落とし)、漫才と短詩は似ているのではないか。

たとえば、漫才には、ボケとツッコミという構造があって、そのふたつでひとつの意味作用が出るようになっているが、短歌は、上の句と下の句の構造的なワンセットで意味作用がでるようになっている。

これは言うなれば、上の句がボケで、下の句がツッコミのようなものだ。

  サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい  穂村弘

「サバンナの象のうんこよ聞いてくれ」というボケがあったとする。そこに「だるいせつないこわいさみしい」とでも言うのかとツッコミが入る。このワンセットで意味作用が出る。

この下の句がなくなると現代川柳になる。

現代川柳は芸人でいうとピンのひとに似ている。ボケはボケのまま浮かび上がる。「サバンナの象のうんこよ聞いてくれ」の何を聞いてほしいかは不思議のまま解明されない。

  なにもない部屋に卵を置いてくる  樋口由紀子

なんで置いてくるのかは解明されない。このボケはボケのまま漂いつづける。たとえば無理にこうすると短歌になる。

  なにもない部屋に卵を置いてくるだるいせつないこわいさみしい

なんで置いてきたかはツッコミによって解明される。もし無理にくっつければ。

短歌が構造的漫才なら、現代川柳は未構造的な漂うボケと言ったらいいか。

俳句はどうなるだろう。

小澤實さんが、俳句は謙虚な詩と書かれていたが、俳句は、ボケない。たとえば、ボケようとしても立派なひとがそばにいてなかなかボケられない。立派なひととは季語だが。

そうすると、俳句は、構造外ということになるだろう。構造的でも、未構造的でもない。脱構造的といったらいいか。

『カモメの日の読書』で小津夜景さんは、俳句は質感(テクスチャー)と書いていた。構造じゃないんだ、と。もしこれを無理にバラエティーにあてはめるなら、俳句は、食のレポートに近いかもしれない。食のレポートは、まず食ありき(季語ありき)なので、食を超えてはいけない。謙虚でなくてはならない。質感なのである。構造になってはいけない。

  人参を並べてみればわかるなり  鴇田智哉

  別のかたちだけど生きてゐますから  小津夜景

  ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ  田島健一

ボケているわけでもないし、ツッコミを待っているわけでもない。わける「なり」、だし、ゐます「から」、だし、「ぽ」だから。終わろうと思えば終わりだし、無理にふくらませようとすればふくらませられる。つまり、質感がある。食のレポーターが大切な語り口とする質感が。

漫才師のひとがそのうちトーク番組に出るように、短詩人は散文も書く。でも漫才師のひとが漫才の感性をいかしてトークするように、短詩も短詩定型をいかした散文を書く。

わたしはテレビが好きなのだが、テレビは短詩とよく似ているとおもう。というか、テレビと文学は奇妙な親和性がある。わたしはそのことを森茉莉からおしえてもらった。

『おもしろ荘』をガーゼケットにくるまりながら静かに横になりながら見ていてそんなことをおもった。

下はテレビが大好きだった森茉莉の直筆原稿。壁に貼って勇気をもらっている。やっぱりテレビのことが書いてある。


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posted by 柳本々々 at 20:47| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする