2015年02月25日

勇気のための川柳処方箋22 恋する語り手。

散歩する水には映らない人と  八上桐子

  *

「第19回杉野十佐一賞「消」」の句だ。

この句が語っているのは、
水に映るひとと映らないひととのちがいだ。

語り手がいっしょに散歩している相手のことを「水には映らない人」と《わざわざ》語ったということは、語り手自身は「水には映る人」ということになる。なぜなら、自分と違わなければ相手のことには気づかないからだ。

でもここで、語っている内容よりも、語り手のさりげないことばづかいに注意してみよう。

「水には」という仮定条件の助詞づかい。

「水には映らない人」は「水には」映らないかもしれないけれど、他の場所には映るひとかもしれないということである。

じゃあ、どこに、映るのか?

それは「水には映らない人と」いま散歩している〈このわたし〉の眼だ。

わたしは水には映らない人と散歩している。
「散歩」という気構えのない、ぶらぶら歩きではあるけれど、語り手であるわたしはこのひとは「水には映らない人」なんだと観察するほどには相手のことを意識している。

散歩と観察がこの句のなかにおいては葛藤しあっている。

だからこんなふうに今回はしめくくってもいいとおもったりもする。

〈わたし〉はたぶん、水には映らないこのひとのことが好きなのかもしれない、と。
なぜなら、その人は、水《には》映らないけれど、このわたしの眼《には》ずっと映りつづけていたから。

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勇気のための川柳処方箋21 犬と短歌と勇気(或いははじめてのおやすみなさい)

夜は具体的に落ちる「オヤスミ」  普川素床

  *

安福望さんが『アパートメント』で連載された絵と短歌とエッセイをめぐる連載のタイトルが「犬と短歌」だったんです。

犬を飼っている友人がいて、その友人が安福さんのエッセイを読んで、胸があたたかくなったり切なくなったり犬をめぐってまるではじめて飼った頃を思い出したようにいろんなきもちを体験したといっていたんですが、私もかつて犬を飼っていたので安福さんのエッセイを読んでいてそんなきもちになったんです。

もちろん、私は安福さんの飼っている犬のマルに会ったことはないけれど、でも私もスズキサンという犬を飼っていた。それは友人もおなじことだとおもうんです。

でもこのとき注意したいのが、安福さんがつけた連載タイトルが「マルと短歌」や「犬の短歌」ではなく、「犬と短歌」だったことです。
そのとき私たちはそれしかありえなかったタイトルとしての「犬と短歌」という具体性としてある場所にむきあっているし、むかっているし、ある初めての場所にめぐりあっていると思うんです。
「犬と短歌」というめいめいがかかえもたざるをえない〈具体〉に。

そのとき、ふっと、おもったのは、具体っていえば、たいていひとはモノを思い浮かべて唯物的になったり、あたかもそれが具体物としてのひとつしかないかのように個別的・唯一的になったりします。
でも実は、〈具体〉こそが、普遍の道に通じているんじゃないかな、とおもったりするんです。

わたしたちは言語的にへこたれて、具体のことばを隠そうとすることがある。
あたかも知っているそぶりを言語的にしてしまうことが、ある。
でもある意味、それはじぶんがどこかに通じていくはずの〈具体〉を隠そうとする言語行為でもあるはずです。

だから、私は、ことばの具体と向き合う勇気が、ひつようなのではないか、とおもうことがあるのです。
ことばにどっぷりつかればつかるほどです。

普川さんの句もそうです。
なんまいかんも繰り返されてる「おやすみなさい」なのに、わたしははじめて〈具体〉を通して、はじめての「オヤスミ」にであってしまった気がするのです。はじめての夜にも。
これは「犬と短歌」にならえば、「夜とオヤスミ」です。
けれども、その〈具体〉を通して、はじめてひとは〈はじめて〉にであうことがある。
そうした〈具体〉は〈勇気〉につながっている。

おそらく安福さんは、画材としての〈具体〉が〈絵〉として昇華する瞬間に毎日たちあっているはずです。
だからこそ、なんどでも〈具体〉とむきあっている。それはマルもそうだし、画材もそうだとおもいます。
マルは○としての記号だけれども、散歩するとちゅういっしょに歩くマルは記号ではなく、いつもはじめてであうマルです。線を引き、色を塗ることによって、たちあがってくる絵もそうだとおもいます。
そこにはことばではたちあげることのできないような〈具体〉がある。
そのときわたしたちは、なんども見知っていたはずのものなのに、〈はじめて〉にであうのです。
はじめては、はじめての場所にあるのではなく、具体にたちかることにある。
それが安福さんと素床さんの句からわたしが教えてもらった〈はじめての勇気〉です。


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2015年02月23日

百万遍死んでも四足歩行なり  飯田良祐

句集『実朝の首』(川柳カード叢書・2015年)より。

目を逸らす、そのことを忘れるくらい迫ってくる句である。
その迫ってくる力感はどこにあるのか、「なり」をきっかけにして、少し考えてみたい。

なぜ、「四足歩行なり」にしたのか。
言うまでもなく「なり」は断定の助動詞だが、「四足歩行」を強調したければ、たとえば、
「四足歩行である」
「四足歩行」
と言い切ることもできたはずだ。
作者が破調を恐れる作家でないことは、この句集の他の句を見ればわかることで、
それがなぜ「四足歩行なり」にしたのか。

当たり前のことを言う。

五七五にするためである。

誤解しないでいただきたい。
単なる字数合わせのために、文語体を使ったのだとか、そんなことを言いたいのではない。
「百万遍死んでも四足歩行」の緊張を漲らせた句が、そんな弛緩した精神を持ち込むわけがない。
ここから先は、僕の妄想になるが、
檻、
に閉じ込めたかったのだ。

川柳は檻である、と昔書いた。
スープレックスのテスト版にもそんな小文を書いたので、いつか機会があれば再掲したい。
それはともかく、僕にとっての川柳は檻だった。
五七五という定型。
それは僕にとって檻であり、その檻の不自由さのなかではじめて自由を夢見ることができる、そんな内容だったと思う。
(だから方哉も山頭火も、ある意味業に似た不自由さから逃れられなかった、という気もするのだが、それはまた別の折に)
そんな僕のアプローチと、この句のアプローチは、どこか違う。

この句は、自ら檻に入ったのだ。
五七五の檻に、自らの獣を閉じ込めるために。

その獣はどうなるか。
檻の中で、鉄格子から溢れるほど躰を充満させ、せつないほどの精気を漲らせ、「外」へ殺気になるほどの叫びさえぶつけて来る。
それが、読み手が感じさせられる迫力の正体だ、と思う。
それは、「生」の力だ。
もう一度この句を読んでいただきたい。
「生」という文字は一字も使われていない。
しかしまぎれもなく、この句は、生きるということの咆吼なのだ。

僕は基本的に、作者の境遇には関心がない。
しかし飯田良祐氏が、望まない死を選んだ人であったとしても、
この句には、僕は、「生」の炸裂を感じる。
たとえ百万遍死んだとしても。
五七五の檻の中であったとしても。

あなたの生は、どうしようもなく、あなたのものなのだ。

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勇気のための川柳処方箋S 勇気について語るときに我々の語ること。

生きてればティッシュを呉れる人がいる  丸山進

  *

『週刊俳句』に始めて感想文を載せていただいたのが、この丸山さんの句の感想文だった。

いきてればいいことあるよ

というクリシェ(決まり文句)がある。
もちろん、そうだけれども、ってわたしはおもう。
でも、いきてればわるいこともあるよね、とも。

でも、生きてればティッシュをくれるひとはいるだろう。確実に。

それは、ティッシュなのだ。たいしたことじゃない。
みんながもってる。街で、じゃんじゃん、くばってる。そこらへんにおちてる。夢のなかでさえ、おちてる。

どこでもてにはいる。

でも、ティッシュには、あなたがくれた心情の厚みがある。
あなたが、なみだやなみだじゃないもので顔がぐしゃぐしゃになっていたときにもらったいちまいのティッシュがどれだけうれしかったか。どれほど救われるか。

それは、使用価値だけの問題なんかではない。
交換価値の、そして交換価値だけれども、使用はするのだろうから、決定的な使用価値の問題でもある。

いつも手にはいるのに、よくなくなるもの。それが、ティッシュだ(交換価値)。

こんな紙切れいちまいなのに、使えたら決定的に救われるもの。それが、ティッシュだ(使用価値)。

「生きていれば」ではなく、「生きてれば」という決していいやすくはないフレーズに注目してみよう。
わたしたちの人生は、そう生きやすくはできていない。
語りやすいものでも、ない。

それでもただたんに「くれる」ではなく、そうでしかありえないような「呉れる」をしてくる人間に、あなたは、にもかかわらず「生きてれば」であうことが、できる。

わたしは、悩んだり寝込んだり電信柱に抱きつきそうになったりしたときは、いつもこの丸山さんの句から、はじめようとおもう。やりなおそうとおもう。生き直そうと、おもう。

生きてればティッシュを呉れる人がいる

ささやかで、ある。
でも、ささやかだけれども、のっぴきならないくらいに、大切なことだ。
『ささやかだけれど役にたつこと(A Small, Good Thing )』を書き、人生はグレイヴィーだと言ったレイモンド・カーヴァーもきっとそんなふうにいって、喜んだんじゃないかな、って、わたしは、おもう。

生きて、ティッシュをもらうこと。それって、スモール・グッド・シングだよね、って。

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2015年02月22日

勇気のための川柳処方箋R 教室で私が持てなかった手をあげる勇気

にんげんになりたいものは手をあげて  月波与生

  *

この月波さんの句、おもしろいのが「にんげんになりたいものは手をあげて」というまさに状況そのものだとおもうんです。

これってもう、にんげんになれるかどうかではなくて、たぶん、にんげんになる手前の状況の活写なんですよ。

さあにんげんになれますよ、じゃあだれがなりたいですか、となったときに、

「にんげんになりたいものは手をあげて」

と、だれかが、きく。
しかも「なりたい」と語られていますから、なりたいひとが・なれる、わけです。

にんげんにむりやりだれかがだれかをならせるわけではない。

なりたいひとが・なる。

でも、この句にはもうひとつスリリングな部分があります。
それが、「手をあげて」です。

「手をあげ」られるなら、もう、にんげんなんですよ。

手をあげて、といわれて(言語的コミュニケーションとしてのにんげん)、手をあげたら(身体的コミュニケーションとしてのにんげん)、それはにんげんなんですよ。

だからあとはもうきがつくかどうかなんです、じぶんが脳をもっているかを、じぶんがハートをもっているかを、じぶんが勇気をもっているかを。

どうするまえにきがつけばいいのか。

もちろん、オズ大魔王に会うまえに、です。



posted by 柳本々々 at 21:56| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする