2015年02月20日

勇気のための川柳処方箋Q きょうの日はさようなら。

ともだちになろう小銭が少しある  角田古錐

  *

『東奥文芸叢書川柳14 角田古錐句集 北の変奏曲』から古錐さんの一句です。

ここで俳句からこんな一句を思い出してみたいとおもいます。

ともだちにならう蜜柑を剥いてあげる  喪字男

どちらの句も「ともだちになろう」と呼びかけています。

でもそこからの接続が、どちらもささやかであることに注意してみたいです。

「小銭が少しある」、「蜜柑を剥いてあげる」。

どちらも大したことではありません。
一万円札であるわけでもないし、グレープフルーツやぽんかんでもない。
小銭や蜜柑です。

どういうことなんでしょうか。

こういうことなのではないかとも、おもうのです。

わたしはあなたになにかにしてあげたいきもちはある。
でも、わたしがどんなにそれが大きなことであろうともわたしがあなたにしてあげられることは、〈してあげる〉という意味合いにおいては、ささやかかもしれない。
けれども、そのささやかさにあなたが応答してくれた瞬間、あなたはわたしの「ともだち」になるのではないか。

なにをするか、どれくらいのことをしてあげられるか、が、大事なのではなくて、呼びかけたときに、あなたが応じてくれること。
その形式をふたりでつくること。
それが、ともだちのつくりかたなんじゃないか。

ともだちでいるための、ともだちであるための勇気は、そんなところにあるのではないかともおもうのです。

だから、ともだちは、カウントとしては、たえず、つねに、ゼロでもいい。
数、がもんだいなのではない。

応答された瞬間、明滅し、またたく関係の星座がともだちかもしれないから。

「ともだちでいよう」ではなく、なんどもなんども繰り返される、「ともだちになろう」なのです。

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posted by 柳本々々 at 22:24| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋P 涙の宛名。

追伸のしずくの跡は見ましたか?  奈良一艘

  *

ときどき、泣くということについてかんがえていることがある。

こないだある方が、あの勇気の、あのシリーズ、あの、ゆうきの、あの、なんとかというもの、読んでますよ、といってくださって、そのときそのひとが泣いていたようだったので、あれなにかあったのかな、とおもった。

いそいでわたしは、わたしもときどき、いやけっこう毎日泣いてますから、と声をかけたが、それはなぐさめにはならなかった。

泣くという行為は、私秘的な行為である。

ところが、一艘さんの句がふしぎなのは、
「見ましたか?」とたずねちゃうところである。

しかも、「追伸」で泣いていたらしい。
本文や本丸では、泣かず、追伸で泣き、さらにてがみをだしたのに、あとで声、あるい実際に会って、追伸の涙の所在を確認している。

もしかしたらこの句の語り手にとっては、ことば=手紙よりも、もっと大事なものがあったのかもしれない。

それは、なみだである。
伝達機能を有したことばにならない涙だ。
そして言葉を否定し、論理や理屈を封じる圧倒的な非言語としての涙だ。

わたしはむかし、助手席に座りながらきらくにいろんなことをべらべらしゃべっていたら、運転しながらぼろぼろ泣き出したひとがいたので、すごく驚いて、即座に県道地図を取り出して真剣に熟読するふりをしたことがあったけれど、でも、なみだはいつまでも残る。

その意味で、なみだは、いつまでも追伸である。

で、今回の勇気は? とわたしは聞かれ、わたしは、また、慌てふためいてしまう。

勇気。県道地図。助手席のわたし。ぼろぼろ泣く運転席の友人。あわてるわたし。

あ、そうだ!

こんなふうに、それでも追伸として、なみだはなんどでもやってくる。

だから、なみだこそが、追伸としての勇気である。なみだのとなりの県道地図も。

そうなのだ。
ロラン・バルトも、いっていたではないか。

ええと、

なみだは、おてがみであり、わたしは、ええと、……

いや、ちがうな。

あ、そうだ!

これほどいろいろの泣き方があるというのも、おそらくは、わたしが常に誰かに向って泣いているからであり、わたしのこぼす涙の宛名が、常に同じ人物ではないからであろう。  ロラン・バルト『恋愛のディスクール』

posted by 柳本々々 at 12:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋O おいここはぼくの場所でもない。

まなうらにいくにんひとをためている  渡辺和尾

  *

「まなうら」っていうのは、目の奥っていう意味なんですが、瞳でも、こころでも、脳でも、思い出もなく、「まなうら」に「ひと」がたまっている状態がこの句で大事なことですよね。

「まなうら」って、奇妙な場所です。とても。

なぜ、か。

目の奥って、相手からはみえませんよね。
相手がいくら眼の奥をみようとしても、目の奥ですから、相手は目の表面しかみえない。

ところが、じぶんでも目の奥はみえません。
目くらいはみえるかもしれないけれど、目の奥はみえません。むしろ、みようとしているその部分が、目の奥です。
みようとしてるまさにその部分、絶対的な誰にもみられない視線の真空空間のなかにたまっていくひとたち。

なんにんいるかはわかりません。
それでもそこにはわたしもあなたもわからないような、であったひとたちが、ベンチに座る野球選手のように、たまっている。わたしやあなたに呼び出され、ひっぱりされるのを待ちながら。だれにも知られずに。それでもまなうらですから、ときどきはわたしやあなたに働きかけるようにごそごそと。

ホワイトブランクのひかりのなかに、わたしやあなたを待ち続けているひとびと。それは死者たちの乗る宮沢賢治の〈銀河鉄道〉のような場所かもしれないけれど。

でも、わたしはわたしからだけで構成されるわけではない。奇しくも宮沢賢治の作品にも通底する主題になってしまいましたが、勇気とは、わたしがわたしでなくなる瞬間に、わたしからあふれでたひとびとのことです。

「そしてみんながカムパネルラだ。おまへがあふどんなひとでも、みんな何べんもおまえといつしよに苹果をたべたり汽車に乗つたりしたのだ。」
   宮沢賢治『銀河鉄道の夜』
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勇気のための川柳処方箋N 穴と勇気。

世界にも妻にも穴があいている  山田露結

  *

『川柳カード7号』誌上大会の句だ。

ひとの穴といえば、関悦史さんにこんな句がある。

昼寝せる身に九穴や美少年  関悦史

関さんの句に端的にあらわれているように、
ひとを〈穴〉ととらえる視線には、どこかでそのひとのセクシュアリティと関わろうとする語り手の位相が持ち上がってくる。

穴というのは、端的にいえば、出たり・入ったりするところだ。

出たり・入ったりという運動態をひとことでいいあらわせば、それは〈関係〉である。
いちどでも、あなたの穴に出たり入ったりしてしまえば、わたしはあなたと関係をもってしまったということになる。

これはセクシュアリティだけに関わらず、象徴的にもそうだ。心にも、穴はあるかもしれないから。

露結さんの句では、世界にも、出たり・入ったりすることのできる穴を見出している。

この語り手にとって、世界もまたひととおなじような身体なのだ。
しかも、「あいている」と現在時制で語り手はみずからの認識を語っている。
つまり、気がついたのだ。語り手は。
ああ、世界にも穴があいているんだなって。

わたしたちは、世界はときどきわたしたちに対立するものとして、もしくはわたしのどこにもいけない閉鎖されたセカイとしてとらえることがあるけれど、一枚岩としての世界ではなく、穴として出たり入ったりする世界として認識することもできる。
それは「妻」のようにものすごく近くて、「妻」のようにものすごく遠い場所でもある。

でも、世界も妻もひとも他人も恋人も友人も、この〈きづき〉の認識からはじまる。「あいていた」でも「あけてみる」でもなく、「あいている」ときづく認識。

ささやかな勇気の認識だ。
でも、そのささやかさがこれからの勇気をたちあげることも、あるんじゃないかな。あな。

posted by 柳本々々 at 00:04| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月19日

勇気のための川柳処方箋M やさしい必殺技入門。

母屋まで必殺技をとりにゆく  荻原裕幸

  *

『川柳ねじまき#1』から荻原さんの句です。

これまで川柳で「必殺技」を軸に句を構成したひとがいたのだろうかってちょっと考えてみるんです。
いたかもしれないし、いないかもしれない。
でも、たぶん、いないかもしれない。

この句のポイントは「母屋まで」です。

必殺技は母屋にある。
必殺技って、暴力的だったり、殺傷的だったりするんじゃなくて、「母屋」のような〈あたたかい〉場所にある。
家の中心に、ある。文字通り、「母」のような場所にいる。
いったんそうした母性的な中心点まで回帰したあとに、
でも「必殺技」をとりにきたのだから、その「殺」という字を抱きしめて、敵のところに向かわなくちゃならない。
「母屋」には敵はいません。
母屋じゃない場所に、敵はいる。
必殺すべきあいては母屋にはいないけれど、
必殺技は、母屋にある。

いちばん生をはぐくんだ場所への回帰と、
そこから必殺技が遂行されなければならない場所への特攻。

大事なのは、そうした運動が、どこかひとつのポイントで行われるのではなくて、ふたつの対極的な場所として往還したうえで、行われようとしているということなのではないかとおもうのです。
だれしも、着地点は、ふたつもっているわけです。
やってしまったことと、やってしまったことをもってきた場所と。
だから、やってしまったことだけでは判断できないし、やってしまったことが育まれた場所だけでも、判断はできない。
運動のなかで、なにかは行われる。
ひとつの場所だけで行われるのではなくて、
なにかがなにかをとりにゆく循環の過程のなかで、
エネルギーはうまれてくる。

必殺技は、いちがいに英雄性をもつとはいえません。
特撮番組のポイントは、(最近はそうでもないですが基本的には)善の側からしか描写しないということです。
必殺技とは、理屈なしに、相手を封じる点で、非倫理的であり、非言語的です。単線的で、直情的で、一方的です。
でも、その単線性としての必殺技に、この句は、複線性を与えようとしている。
善悪の「母屋」をかんがえようとしている。

どんな現象でも、運動があるかもしれないし、複線としてみるべきかもしれない。
そうした補助線がときに勇気になるかもしれないということ。言語的な勇気に。

それがこの句の言語的な必殺技かもしれないともおもうのです。ライダーキックは、一方向的ではなく、言語のうえでは、双方向に向かう。

飛び蹴りを誰かにきめてやりたくて光のなかへ出でてゆきたり  田村元

光のなかへ。
光に、ベクトルはありません。
光は空間なのだから、全方位的ライダーキック。

posted by 柳本々々 at 00:11| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする