2015年02月16日

朝顔の昨日プロレスラー死せり  きゅういち

『ほぼむほん』(川柳カード叢書・2014年)より。

「スープレックス」にちなんで「プロレスラー」の句を選んでみた。
というのは半ば冗談で、半ば本気である。
半ば本気、というのは、「プロレス」というジャンルのあいまいさ、さびしさを思うからだ。
プロレスは格闘技ではない。
八百長、というのも、ショー、というのも少し違う気がする。
最近の新日本プロレスなどは、開き直って、完全なショーに徹しているようだが、まあそれは興味のない人も多いだろうから置いておく。
ただ、「プロレス」というジャンルにこだわって、格闘技とショーのあわいで、迷いつつ、闘いつづけるプロレスラーたちもいる。
彼らはあいまいで、さびしい。
そしてカッコ悪い。
そのカッコ悪さは、僕たちと共通する「あれ」だ。
もうお気づきであろう、「これは川柳なのか俳句なのか」という「あれ」だ。

掲出句、確かに川柳句集に入っている。
僕は俳句には素人以下の知識しかないのだが、この句は、俳句になってしまうのか、川柳として成立しているか、どうなのか。
俳句には「季語」と「切れ」が条件とされる。
ここで考えなければならないのは、「朝顔の昨日」だろう。
朝顔、は秋の季語である。(異論もあるようだが)。
しかし季語と同じ言葉があるからと言って、それが季語の役割を果たしているかどうかは断定できない。
「朝顔の昨日」は、「朝顔や昨日」のように「切れ」てはおらず、その点で川柳的と言えるだろう。
朝顔の昨日。
何というか、川柳の手ざわりを感じる言葉づかいだ。
またしかし、「朝顔の昨日」と「プロレスラー死せり」の間には意味の切断・飛躍があり、「切れ」であり、俳句的と言えないこともない。
だがしかし、しかし……。

やめよう。

定義などやめよう。

迷おう。

「これは川柳であるのか、俳句であるのか」
そうやって迷うことが、迷うジャンルが、迷いそのものが、川柳だと言ってしまえばどうだろう。
その迷いは、僕らが棺桶まで引き摺っていけばいい。

昨年、俳人の西原天気さんにお目にかかったとき、正確には覚えていないのだが、
「最近、三十音字以上の俳句を作った」
と仰っていた。
僕が驚いて「それは、何をもって俳句としているわけですか?」と尋ねると、西原さんは少し考えて、
「スタンス、だな」
と仰った。
自分が俳句だと思って作れば、それが俳句なんだ。
そう語る姿はとても、カッコよかった。
ただ、僕が目指すものは、そういうカッコよさではないな、とおぼろげに思った。

話は脱線する。
昨日の世界の話をする。
ジャイアント馬場、というプロレスラーがいた。
もう知らない世代も多いかと思うが、カッコいい、とはとても思えないプロレスラーだった。
「ショーマンだ」「動きがのろい」「腕が細い」と、散々馬鹿にされていた。
それでも、彼は多くの人に愛されていた。
ある時、「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます」というキャッチコピーを打ったりしていた。
彼がプロレスを独占できたかどうか、僕にはわからない。
ただ、僕は彼を愛した。
彼の「プロレスラー」でしかない、さびしい、カッコ悪いたたずまいが、たまらなく好きだった。
ジャイアント馬場、享年六十一歳。
死ぬまで、現役のプロレスラーだった。

たぶん、そういうことだろうと、思う。
posted by 川合大祐 at 06:33| Comment(0) | 川合大祐・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋G いっしょに、さがそ。

ドラえもんの青を探しにゆきませんか  石田柊馬

  *

ドラえもんをさがしにいくんじゃないんですよ。
「ドラえもんの青」を探しにゆくんですよ。

「ドラえもんの青」を探しにゆくってことは、
ドラえもんを探すよりも長い旅になるかもしれない。

だって、誰も、ドラえもんを知らないし、ドラえもんの青にもくわしくない。
たぶん、だれひとり、まだ、ドラえもんを見つけていないからです。
でも、ドラえもんさえみつかってないのに、その青をみつけにいこうと、いっている。

けれども、です。

ドラえもんはこの世界にはいないかもしれないけれど、ドラえもんの青ならこの世界にはあるかもしれない。

なぜでしょう?

それはたぶん、色が公約数だからです。
わたしがこれがドラえもんの青だとおもったときに、いっしょに探してくれたあなたが、これがドラえもんの青だと同意してくれる。

それが、生きていくためのカラーになる。

色っていうのは、色が存在するわけではなくて、わたしとあなたがそれを青だと唱えるから、青が存在するわけです。
ドラえもんがいなくてもいい。
あなたのことばがドラえもんのようなマジックワードになるのだから。

posted by 柳本々々 at 00:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年02月15日

火事ですねでは朗読を続けます  きゅういち

火事ですねでは朗読を続けます  きゅういち
川柳カード叢書の第一巻『ほぼむほん』収録。

発語のみでつくられた句である。
ダイアローグだろうか。モノローグだろうか。
朗読の場で、火事ですね / では朗読を続けます/ と交わされる会話もこわくてどきっとするが、その場合はカギ括弧で発言者が複数だと示されるだろうから、これは朗読者ひとりの発語だということになる。

短詩型に発語が入れ込んである、となると、まず思い浮かぶのは次の一首だ。
「酔ってるの? あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」 穂村弘
「ブーフーウーのウー」だなんて。酔っているのは少々いじわるな恋人らしい。あまり見分けのつかない三匹の子豚の末っ子とまちがえるなんて。しっかりものの末っ子。(声は黒柳徹子)でも恋愛中であれば、そんな恋人を「カワイイ」とおもえるのかもしれない。しっかりものらしく、恋人の世話を焼くのかもしれない。
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ   穂村弘
「奇麗なものにみえてくるのよメチャクチャに骨の突き出たビニール傘が」   穂村弘

こんなふうに、短詩型のなかに配せられた発語(台詞)は、日常を切り取り、漠とした気分、空気をあらわす演出に使われるものだとおもう。

そうおもうとき、きゅういち氏の
火事ですねでは朗読を続けます
は、特異である。
ともかく日常ではないのである。
耳傾ける者を持たない朗読者のモノローグかと思う。
無表情に淡々と発せられたものか。回り舞台上の絶叫なのか。

発出は『バックストローク』第23号で、一読して、わわわ!となった。わわわ!というにもいい加減な言葉だが、この句を得たときの、作者自身の手応えが感じられるようで、読んだこちらも爽快な気分になったのである。

石部明は同号で次のように書いている。

「火事ですね」「朗読を・・」と、なんの因果関係も持たない言葉が、常識をばらばらに解体した後に組み立てられた世界として、「火事ですね」・・「では」と、なにやら正当性を得たように立ち上がってくる。

わたしは「では」は火事と朗読の続行の因果関係を示す接続詞ではなくて、火事から朗読へ意識を移す前置きの言葉だと思った。朗読が、火事に気づいて、束の間滞る。再び通常の朗読へ戻るときの一呼吸分の「では」だと考える。
クレイジーである。
火事だと知ったとき、通常であれば、ヒトは怖れを抱くだろう。あるいは好奇心を満たそうと物見高く騒ぐかもしれない。だが発言者は朗読を優先する。
読み手は立ちどまらずにいられない。合理的に理解できないからだ。にもかかわらず、魅惑的だからだ。
いったいこの朗読とは何なんだろう。なにやらいけないものとすれちがったという感覚がうれしい。

そしてまた考える。
火事は対岸のそれなのか。であればおもしろさが削がれるのである。
やはりこれは、本能寺の信長の朗読がよろしいかと思われるのである。



posted by 飯島章友 at 22:13| Comment(0) | 江口ちかる・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋F 依存する無限の可能性。

ライナスの行進 海をひきずって  江口ちかる

  *

スヌーピーにライナスというもうふをひきずって歩くシニカルな男の子がいるんですが、かれの場合、おそらくもうふアディクションというか、もうふ中毒、もうふ依存だとおもうんですね。

あなたがいないと生きられない、という状態を、もうふにそのままたくして・ひきずって生きている。

でもこの句は、それを読み替えているところに、川柳としての生きていこうとするたくましさがあります。

ライナスがもうふをひきずって歩くことを、「行進」といいかえ、「もうふ」を「海」といいかえた。

ひきずる、というもうふへとうしろへと→に引かれるベクトルは、行進によってまえへまえへともうふの逆ベクトルとして←として直進することになり、かつそれでいて依存の対象の「もうふ」が「海」になったことで、もうふというモノへのフェティシズム(からの共依存)はうしなわれ、「海」というモノに還元しえない無限の領域がひらかれていくことになる。海には、依存も執着もできない。それはモノではないし、つねに変数状態にあり、境界づけられない場所だからです。
もうふとちがってじぶんをやさしく抱擁するだけのための場所でもない。ときにそれはシリアスでハードな場所であり、命さえ奪う死の場所です。

そんなふうにこの江口さんの川柳は、ライナスを、そしてすべてのライナスとしてのわたしたちを、読み替えてゆく。
川柳は、既存の文化をよみかえることがある。
そしてその読み換えのさきに、生きていく勇気がうまれることもある。
可能性はつきない。可能性がつきない場所だけが、海だと呼ばれる。


posted by 柳本々々 at 13:23| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

おっぱい × n二乗(セカイ系)  柳本々々

『川柳カード7号』2014年11月号より。(「第一回川柳カード誌上大会・題「世界」樋口由紀子 選・入選)

何だこれは、と驚く。
そして何だこれは、と考える。
立ち止まる。
たとえば次のような句であれば、立ち止まりもしなかっただろう。

(改悪例) おっぱいがいっぱいあってセカイ系

これでは「普通」の「川柳」である。
しかし、意味は何となく、通りやすい。
これで見えてくるのは、掲出句が「ノイズ」で出来た句だと言うこと。

「季語は、ノイズだと思うんです」
この前お会いしたとき、柳本さんは言った。
「ノイズって、他者の言葉じゃないですか」
それがとても面白い言葉だと思って、その言葉にヒントを得てこの文章を書いている。

「おっぱい」というのは、他者のモノだと思う。
中城ふみ子『乳房喪失』のように、乳房をわがものとして引き受ける表現もあるが
(しかしそれも「喪失」を経てなのだが、その点については、いつか)、
それはあくまで「乳房」だからだ。
「おっぱい」はあくまで自分の外部、どこまで行っても他者のモノなのだ。
(母のおっぱい、妹のおっぱい、アイドルのおっぱい、アニメのあの子のおっぱい……)
他者のファルス、などと書けばラカンっぽいが、詳しくないので書けない。
話を戻せば、「おっぱい」はノイズなのだ。

それが、さらに「 × n二乗」だという。
「おっぱいがいっぱい」ではない。
(しかし、こんなにおっぱいおっぱい書いたのは久しぶりだ)
計算式というのも、いわゆる「文芸」からすればノイズだ。

柳本さんの言葉を借りれば、「ノイズは、他者の言葉」ということになる。
「セカイ系」について、私は表面的な知識しか持たないが、「世界」と「私」が直に接続されてしまう、そういう現象だと理解している。
そこに「他者」はあるのだろうか。
そこにノイズはあるのだろうか。
逆に言えば、そこには他者しかないのかもしれず、ノイズしかないのかもしれない。
そんな「世界」を表現するのに、掲出句は(セカイ系)と、()でそっとくくった。
  おっぱい × n二乗(セカイ系)
このフォルムには、これでしか有り得ない、必然性がある。
掲出句は、まぎれもない世界を表現した。

いや、世界をつくった、のかもしれない。

川柳は世界だ。
世界は川柳だ。
そのノイズを引き受けること。
この句は、ひりひりするほど、リアルだ。
posted by 川合大祐 at 12:59| Comment(3) | 川合大祐・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする