2015年02月09日

歩いたことないリカちゃんのふくらはぎ   八上桐子

2014年7月に発行された「川柳ねじまき」#1より。

のっけから公式的な話をしてしまうが、川柳の伝統的な三要素はうがち・軽み・おかしみだといわれる。
この中で最も書き手のセンスが出てくるのはうがち≠ナある(ドクター川柳参照)。うがった見方をする、なんて言うときのあのうがちだ。
この川柳のうがちを、こころみに私なりに言い換えてみると、常識という惰性の中で見落とされたり忘れられたりしている事柄を〈再認識〉することである。

掲出句で見てみよう。ここでキモとなる言葉は「歩いたことない」だろう。
この「歩いたことない」という認識、冷静に考えればまことに奇妙である。

もちろん、この句の語り手は、リカちゃん人形のふくらはぎの細さを見て(歩いたことないんだろうな)と感じただけかも知れない。
それじたいは奇妙でも何でもない。
だが、別の観点からいえば、人形が歩いたことないのは当然のことであって、ふだん私たちはわざわざそんなことを認識しなおしたりしない。
そこに私は奇妙さを感じたのである。

掲出句では、リカちゃんは歩いたことがないのだと〈再認識〉することによって、奇しくもリカちゃん人形の「ふくらはぎ」に生命の相を与えている。
くわえて、今までリカちゃん人形に生命がなかったその分の反発力も作用して、何やら生身の人間以上に、人形のふくらはぎを生々しいものにしているように感じられる。

これは、人形は「歩いたことない」という本質を〈再認識〉することで生じた奇妙さであり、これがいわゆる〈詩性〉につながっているのだと思う。
現代川柳のうがち(再認識)は、風刺や人情の機微ばかりでなく詩性をも導き出す要素となっている。

ところで、掲出句を読んだあと、脳裏に浮かび上がってきた小説がある。
江戸川乱歩の『黒蜥蜴』だ。
小説や映画や舞台などでご覧になった方は覚えていると思うが、女賊黒蜥蜴のアジトにある私設博物館には美男美女の剥製が展示されている。
そして黒蜥蜴は誘拐してきた令嬢に、美しい人間を剥製化する理由をとくとくと説くのである。

すばらしくはなくって?若い美しい人間を、そのまま剥製にして、生きていればだんだん失われて行ったにちがいないその美しさを、永遠に保っておくなんて、どんな博物館だって、まねもできなければ、思いつきもしないのだわ。(江戸川乱歩『黒蜥蜴』)


八上の句では、語り手が、リカちゃんは歩いたことがないのだと〈再認識〉することによって、細くシュッとした人形のふくらはぎに生身の美しさが与えられた。
対して『黒蜥蜴』のこのシーンでは、いずれ老化していく生身の人間が剥製という人形になることによって、改めて生身の美しさが与えられた。
その意味で、出発点こそ違うが、両者は似通っているのではないかと思う。

ちなみに『川柳ねじまき』#1の中でなかはられいこは、八上の掲出句について次のように書いている。

ちょっとイジワル目線でありながら、嫌味がない。もしかしたら八上はイジワルだとは認識していないのかもしれない。そうとしか思えないくらい純なまま、悪意のようなものが投げ出されている。正々堂々と。


おそらく作者である八上桐子は、なかはらのいうように純な「イジワル目線」や「悪意」が契機となって作句したのだと推測する。
私はあまりいい読み手とはいえないかも知れないが、読者が違えば句の捉え方も変わってくる例として見ていただければ幸いだ。

さて、「川柳ねじまき」#1は会員のなかはられいこ、丸山進、瀧村小奈生、八上桐子、米山明日歌、青砥和子、ながたまみ、二村鉄子、魚澄秋来、荻原裕幸、計10人の川柳作品が収められている。
さらに、「ねじまき句会を実況する」「ねじまき放談『川柳と俳句』」といった散文の企画も収録されていて、内容はたいへん充実している。

同誌の位置付けとしては、ねじまき句会が川柳結社でないことを考えれば〈同人誌〉となるだろうか。
短歌の世界では、文学フリマなどに行くと、若い書き手による同人誌がいっぱい出店していて、既存の短詩文芸誌と比べるとデザインにおいてポップなものも多い。
しかし、この「川柳ねじまき」#1の表紙、中表紙、裏表紙には、図書館で本に親しむ若い女の人の写真が使われており、かりに短歌同人誌と並べても瑞々しさでまったく引けを取らないだろう。
こういう装丁のセンスじたいに、超然とした川柳界への批評精神が表れている気もする。

なお、「川柳ねじまき」♯1の購入方法はこちらを参照。
http://nezimakiku.exblog.jp/22222520/
posted by 飯島章友 at 22:41| Comment(1) | 飯島章友・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする