2015年02月16日

勇気のための川柳処方箋I 蜂蜜の国、バターの国のアリス。

生クリームケーキとバタークリームケーキに遭難する  くんじろう

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『川柳北田辺 第52回』(2015年1月25日)から、くんじろうさんの句です。

すごく甘くて、おいしそうで、糖度のジャングルジムのなかでたおれちゃいそうな句ですが、すこしおちついてかんがえてみましょう。

どうして遭難しちゃったのか?

「生クリームケーキとバタークリームケーキ」と書いてありますよね。
この世界では、どうやら、生クリームとバタークリームは「クリーム」とひとまとめにしないで、ちゃんとクリームの差異として認識するらしい。
そんなおいしいクリーム迷宮が、この句なのです。

だから、わたしはおもうんですよ。
この句の語り手は、クリームに対してあまりに厳密にすぎたために、遭難しちゃったんじゃないかと。

でも、それは、おいしい遭難。

ときどき、わたしもあなたも、おいしい迷子に、なる。

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posted by 柳本々々 at 20:30| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋H なんだって、できる。

ショコラ・オ・なんだってできそうな朝    瀧村小奈生

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ときどきつっぷしているひとをみるたびに思い出している句がある。
瀧村さんのうえの句だ。

この句の勇気は、「なんだってできそうな朝」が「ショコラ・オ・〜」にすでに接続が完了され、ひとつのことばとして完成されている点だ。
つまり、これ、文(センテンス)ではないのだ。
名詞、なのである。
だから、「カフェ・オ・レ」とおなじだ。
句の語り手は、「ショコラ・オ・なんだってできそうな朝」という名詞を唱えたのだ。語り手のこころのなかにはもうこのことばが存在していたから。

「チョコレート+なんだってできそうな朝」。
食べ物と希望のふしぎであまい溶接。
この句自体が、なんだってできることをあらわしている。

かつて、フェルナンド・ペソアはチョコレートは哲学だといったが、こんなふうさまざまななにかと結びついていく点においてチョコレートとは、〈希望の錬金術〉なのだ。〈勇気の錬金術〉なのだ。

チョコレートには無限の可能性がある。
そしてさまざまなことばの錬成としての、川柳もまたおなじである。

わたしたちはいつでも勇気の錬金術をはじめることがある。
きょうから、朝から、いまから、だ。
わたしたちは、なんだってできる。
あなたも、なんだってできる。
なんだって、できる。

posted by 柳本々々 at 12:32| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

朝顔の昨日プロレスラー死せり  きゅういち

『ほぼむほん』(川柳カード叢書・2014年)より。

「スープレックス」にちなんで「プロレスラー」の句を選んでみた。
というのは半ば冗談で、半ば本気である。
半ば本気、というのは、「プロレス」というジャンルのあいまいさ、さびしさを思うからだ。
プロレスは格闘技ではない。
八百長、というのも、ショー、というのも少し違う気がする。
最近の新日本プロレスなどは、開き直って、完全なショーに徹しているようだが、まあそれは興味のない人も多いだろうから置いておく。
ただ、「プロレス」というジャンルにこだわって、格闘技とショーのあわいで、迷いつつ、闘いつづけるプロレスラーたちもいる。
彼らはあいまいで、さびしい。
そしてカッコ悪い。
そのカッコ悪さは、僕たちと共通する「あれ」だ。
もうお気づきであろう、「これは川柳なのか俳句なのか」という「あれ」だ。

掲出句、確かに川柳句集に入っている。
僕は俳句には素人以下の知識しかないのだが、この句は、俳句になってしまうのか、川柳として成立しているか、どうなのか。
俳句には「季語」と「切れ」が条件とされる。
ここで考えなければならないのは、「朝顔の昨日」だろう。
朝顔、は秋の季語である。(異論もあるようだが)。
しかし季語と同じ言葉があるからと言って、それが季語の役割を果たしているかどうかは断定できない。
「朝顔の昨日」は、「朝顔や昨日」のように「切れ」てはおらず、その点で川柳的と言えるだろう。
朝顔の昨日。
何というか、川柳の手ざわりを感じる言葉づかいだ。
またしかし、「朝顔の昨日」と「プロレスラー死せり」の間には意味の切断・飛躍があり、「切れ」であり、俳句的と言えないこともない。
だがしかし、しかし……。

やめよう。

定義などやめよう。

迷おう。

「これは川柳であるのか、俳句であるのか」
そうやって迷うことが、迷うジャンルが、迷いそのものが、川柳だと言ってしまえばどうだろう。
その迷いは、僕らが棺桶まで引き摺っていけばいい。

昨年、俳人の西原天気さんにお目にかかったとき、正確には覚えていないのだが、
「最近、三十音字以上の俳句を作った」
と仰っていた。
僕が驚いて「それは、何をもって俳句としているわけですか?」と尋ねると、西原さんは少し考えて、
「スタンス、だな」
と仰った。
自分が俳句だと思って作れば、それが俳句なんだ。
そう語る姿はとても、カッコよかった。
ただ、僕が目指すものは、そういうカッコよさではないな、とおぼろげに思った。

話は脱線する。
昨日の世界の話をする。
ジャイアント馬場、というプロレスラーがいた。
もう知らない世代も多いかと思うが、カッコいい、とはとても思えないプロレスラーだった。
「ショーマンだ」「動きがのろい」「腕が細い」と、散々馬鹿にされていた。
それでも、彼は多くの人に愛されていた。
ある時、「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます」というキャッチコピーを打ったりしていた。
彼がプロレスを独占できたかどうか、僕にはわからない。
ただ、僕は彼を愛した。
彼の「プロレスラー」でしかない、さびしい、カッコ悪いたたずまいが、たまらなく好きだった。
ジャイアント馬場、享年六十一歳。
死ぬまで、現役のプロレスラーだった。

たぶん、そういうことだろうと、思う。
posted by 川合大祐 at 06:33| Comment(0) | 川合大祐・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋G いっしょに、さがそ。

ドラえもんの青を探しにゆきませんか  石田柊馬

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ドラえもんをさがしにいくんじゃないんですよ。
「ドラえもんの青」を探しにゆくんですよ。

「ドラえもんの青」を探しにゆくってことは、
ドラえもんを探すよりも長い旅になるかもしれない。

だって、誰も、ドラえもんを知らないし、ドラえもんの青にもくわしくない。
たぶん、だれひとり、まだ、ドラえもんを見つけていないからです。
でも、ドラえもんさえみつかってないのに、その青をみつけにいこうと、いっている。

けれども、です。

ドラえもんはこの世界にはいないかもしれないけれど、ドラえもんの青ならこの世界にはあるかもしれない。

なぜでしょう?

それはたぶん、色が公約数だからです。
わたしがこれがドラえもんの青だとおもったときに、いっしょに探してくれたあなたが、これがドラえもんの青だと同意してくれる。

それが、生きていくためのカラーになる。

色っていうのは、色が存在するわけではなくて、わたしとあなたがそれを青だと唱えるから、青が存在するわけです。
ドラえもんがいなくてもいい。
あなたのことばがドラえもんのようなマジックワードになるのだから。

posted by 柳本々々 at 00:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする