2015年02月18日

勇気のための川柳処方箋L あなたのことを二度と探さない。

地下道と銀河は二度と探さない  兵頭全郎

  *

『川柳木馬 第143号』(2015・冬)から全郎さんの一句です。

「二度と探さない」と言い切った語り手。
ここには強い意志がみられます。

意志とは、なにか。

意志とは決していいきることではありません。
「二度と」と強調することでも、ない。

意志=意思とは、おそらく、定型をもちいて語ることにあるのです。

語り手は、みずからの決意を定型に託すことに決心した。

定型に託されたことばである以上、それは川柳というかたちをとり、定型詩という記憶のメディアとして、さまざまなくちびるに伝播し、記憶されてゆく。

川柳とは、あるひとりのにんげんが決めた決意と意志と記憶を、定型というメディアを介して、瓶詰めの手紙のように流してゆくこころみなのです。

地下道と銀河というあらゆる場所に通じてしまう〈通路〉を
みずからシャットダウンした語り手。
にもかかわらず、川柳という〈通路〉は封じなかった語り手。

だから、語り手がもしこんご、地下道と銀河をさがしはじめてしまうようなことがあったとしても、定型はゆらがない。定型で記憶したひともゆらがない。

川柳とは、ひとつの意志を貫徹させようとする、つよい勇気なのです。

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posted by 柳本々々 at 17:50| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋K たったひとりを選ぶ勇気。

たったひとりを選ぶ 運動場は雨  倉本朝世

  *

たびたび引用させていただいてそのたびにあらためて考え直している句です。
たぶん、川柳の575って語り尽くせないことが魅力のような気がするんですよね。

語っても、語っても、語り〈落とし〉てしまう。
語り〈そこね〉てしまう。

だからもういちど句にかえってくる。かえってくることができる。
わたしにはまだわからない、といいながら、なんどもかえってくる場所。
だいすきだけれども、わからないままだということ。
ことばが、解釈が、理解がたちむかえない場所。
それが、川柳なんじゃないかとおもうんですね。

ひとは、図書室で遭難することもあるし、水たまりで溺れることもあるし、一句の深みにはまったままそれっきり帰ってこないこともあるわけです。
それくらい、17音の一句には、深度があるように、わたしは、おもう。
そのような川柳は、ひとつの深い運動場として機能している。

で、朝世さんの句です。
いままでじぶんでは考えてこなかった視点で、みてみようとおもいます。
「運動場」と書いてあります。

どうして運動場で、選択なんてしないといけないんでしょう。

部屋や、放課後の教室や、青空の下や、ホテルや、レストランや、星のみえる浴室で、選択をしたいものです。

なんで、なのか。

運動場は、選ばれる場所で、選ぶ場所ではないはずです。
優勝者として選ばれたひとの陸続とした歴史がそこにはあるかもしれない。
でも、運動場にいたひとたちは、選ばれたのであって、だれかが選んだわけではありません。
じぶんで、選ばれることを、勝ち取ったのです。

つまり、《そこ》なのではないかとおもうのです。

選ばれることしかなかった場所において、選ばれることが特権化された場所で、選び返すということ。
だれひとり、選ぶという行為をしなかったその場所で、それでも選ぶ行為をしなければならなかったこと。
それが、この句の、勇気だったのではないかとおもうのです。

運動場は雨、です。
だから、運動場はもう、だれかが選ばれる競技をする場所では、ありません。
〈この・わたし〉が〈選ぶ〉ことによってつくる場所です。
競技は、ありません。わたしの、選択があるだけです。
そしていちど、選んだら、ひきうけなければなりません。選んだじぶんを、そのとき、わたしは、選び、ひきうけたのですから。

選ぶということは、じつは、このわたしを選ぶということでもあるのです。
だから、勇気がひつような作業です。
勇気が要る行為です。
にもかかわらず、勇気をださなければならないしゅんかんが、じんせいにはあります。
そのたびにわたしはこの句にもどってきて、たった、17音のなかで、遭難し、溺れ、かえってこられなくなります。
でも、この句は、この句であることを、選びました。
だからわたしも、そんなわたしを、選びたいとおもうのです。
そんなわたしを、ひきうけたいと。
これが、この句からもらう、わたしの勇気です。

posted by 柳本々々 at 01:30| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする