2015年02月23日

百万遍死んでも四足歩行なり  飯田良祐

句集『実朝の首』(川柳カード叢書・2015年)より。

目を逸らす、そのことを忘れるくらい迫ってくる句である。
その迫ってくる力感はどこにあるのか、「なり」をきっかけにして、少し考えてみたい。

なぜ、「四足歩行なり」にしたのか。
言うまでもなく「なり」は断定の助動詞だが、「四足歩行」を強調したければ、たとえば、
「四足歩行である」
「四足歩行」
と言い切ることもできたはずだ。
作者が破調を恐れる作家でないことは、この句集の他の句を見ればわかることで、
それがなぜ「四足歩行なり」にしたのか。

当たり前のことを言う。

五七五にするためである。

誤解しないでいただきたい。
単なる字数合わせのために、文語体を使ったのだとか、そんなことを言いたいのではない。
「百万遍死んでも四足歩行」の緊張を漲らせた句が、そんな弛緩した精神を持ち込むわけがない。
ここから先は、僕の妄想になるが、
檻、
に閉じ込めたかったのだ。

川柳は檻である、と昔書いた。
スープレックスのテスト版にもそんな小文を書いたので、いつか機会があれば再掲したい。
それはともかく、僕にとっての川柳は檻だった。
五七五という定型。
それは僕にとって檻であり、その檻の不自由さのなかではじめて自由を夢見ることができる、そんな内容だったと思う。
(だから方哉も山頭火も、ある意味業に似た不自由さから逃れられなかった、という気もするのだが、それはまた別の折に)
そんな僕のアプローチと、この句のアプローチは、どこか違う。

この句は、自ら檻に入ったのだ。
五七五の檻に、自らの獣を閉じ込めるために。

その獣はどうなるか。
檻の中で、鉄格子から溢れるほど躰を充満させ、せつないほどの精気を漲らせ、「外」へ殺気になるほどの叫びさえぶつけて来る。
それが、読み手が感じさせられる迫力の正体だ、と思う。
それは、「生」の力だ。
もう一度この句を読んでいただきたい。
「生」という文字は一字も使われていない。
しかしまぎれもなく、この句は、生きるということの咆吼なのだ。

僕は基本的に、作者の境遇には関心がない。
しかし飯田良祐氏が、望まない死を選んだ人であったとしても、
この句には、僕は、「生」の炸裂を感じる。
たとえ百万遍死んだとしても。
五七五の檻の中であったとしても。

あなたの生は、どうしようもなく、あなたのものなのだ。

posted by 川合大祐 at 06:39| Comment(5) | 川合大祐・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋S 勇気について語るときに我々の語ること。

生きてればティッシュを呉れる人がいる  丸山進

  *

『週刊俳句』に始めて感想文を載せていただいたのが、この丸山さんの句の感想文だった。

いきてればいいことあるよ

というクリシェ(決まり文句)がある。
もちろん、そうだけれども、ってわたしはおもう。
でも、いきてればわるいこともあるよね、とも。

でも、生きてればティッシュをくれるひとはいるだろう。確実に。

それは、ティッシュなのだ。たいしたことじゃない。
みんながもってる。街で、じゃんじゃん、くばってる。そこらへんにおちてる。夢のなかでさえ、おちてる。

どこでもてにはいる。

でも、ティッシュには、あなたがくれた心情の厚みがある。
あなたが、なみだやなみだじゃないもので顔がぐしゃぐしゃになっていたときにもらったいちまいのティッシュがどれだけうれしかったか。どれほど救われるか。

それは、使用価値だけの問題なんかではない。
交換価値の、そして交換価値だけれども、使用はするのだろうから、決定的な使用価値の問題でもある。

いつも手にはいるのに、よくなくなるもの。それが、ティッシュだ(交換価値)。

こんな紙切れいちまいなのに、使えたら決定的に救われるもの。それが、ティッシュだ(使用価値)。

「生きていれば」ではなく、「生きてれば」という決していいやすくはないフレーズに注目してみよう。
わたしたちの人生は、そう生きやすくはできていない。
語りやすいものでも、ない。

それでもただたんに「くれる」ではなく、そうでしかありえないような「呉れる」をしてくる人間に、あなたは、にもかかわらず「生きてれば」であうことが、できる。

わたしは、悩んだり寝込んだり電信柱に抱きつきそうになったりしたときは、いつもこの丸山さんの句から、はじめようとおもう。やりなおそうとおもう。生き直そうと、おもう。

生きてればティッシュを呉れる人がいる

ささやかで、ある。
でも、ささやかだけれども、のっぴきならないくらいに、大切なことだ。
『ささやかだけれど役にたつこと(A Small, Good Thing )』を書き、人生はグレイヴィーだと言ったレイモンド・カーヴァーもきっとそんなふうにいって、喜んだんじゃないかな、って、わたしは、おもう。

生きて、ティッシュをもらうこと。それって、スモール・グッド・シングだよね、って。

posted by 柳本々々 at 00:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする