2015年02月27日

たとえ1グラムでも。  川合大祐

秤には乗らぬ 不意の泪  小池孝一

 僕には想像力がない。だから本当の事だけを書いて置こうと思う。

 友達を大切にしなさい。と小学校に入学した日、先生は言った。友達を思いやる心を大切にしなさい。そんなお説教に関係なく、その日から僕らはずっと友達だった。タカノリ君が、ダイちゃん、いっしょに帰ろうよ、と言ってくれたのだった。その道は学校指定の通学路とは違うから、悪いことをしているんじゃないか、怒られるんじゃないかとびくびくしながら、二人で歩いた。ずっと、二人で歩いて、笑った。
「どこまで本気? ユカワの珍発明」とニュースでやっていた。

 僕らはよくケンカをした。たいてい僕がわがままを言って、泣き出すのだった。タカノリ君のばか。タカノリ君なんてきらいだ。そして家に帰ってからしばらくすると、タカノリ君が訪ねてくるのだった。ダイちゃーん、宿題教えて。僕はうん、いいよ、と言って、いつも宿題なんかせずに、フキノトウを採ったりしていた。タカノリ君が味噌で炒めてくれて、それはおいしい、と思った。

 せんそーごっこをした。これ、銃にしようよ。とタカノリ君は木切れを持ってきて、二人で撃ち合うのだった。だけど途中から、エイリアンやら祟り神さまなどが攻めてきて、二人は共同戦線を張るうちに、何が何だかわからなくなってしまうのだった。たのしいなあ、とタカノリ君は言った。楽しいね、と僕は言った。
「湯川氏の発明、新時代を拓くか」とニュースでやっていた。

 友達を思いやりなさい。友達を思いやる想像力が大切です。と先生は言った。その日、タカノリ君と最後のケンカをした。僕がいつものように、タカノリ君のばか。と泣き叫ぶと、タカノリ君はすこし考えて、そうか、おれはやっぱり、ばかなんだな。と呟いた。僕が私立中学への進学を決めた日だった。それから、二人で帰ることはなくなった。

 中学では「想像力」のテストがあった。どれだけ他人のことを思いやれるか、想像力に点数が付けられて、評価を下されるのだった。僕は学年中最下位だった。当然だと思った。タカノリ君の気持ちを、まったく思いやることができなかったのだから。僕はそのまま、落ちこぼれた。
 タカノリ君とはいちど会った。駅前で、こわい愛郷服を着て、同じような格好の集団と、地面にしゃがんでいた。僕は、あ、タカノリ君。と声をかけた。リーダー格らしい男が、何だてめえ、と凄んできた。おいタカノリ。こいつ殴れ。タカノリ君は、僕の顔を殴った。とてもかなしそうな顔をして。僕にはタカノリ君の気持ちがわからない。僕には想像力がやっぱりないんだ、と思った。僕はいつか、泣くことができなくなっていた。
「湯川博士の発明、いよいよ実現へ」とニュースでやっていた。

 厭な時代になっていた。戦争をしているような戦争をしていないような、そもそも戦争というものが何だかわからなくなってしまっていた。僕らのせんそーごっこのほうが、ずっとすっきりしていた。愛郷集団があちこちにできて、大きくなったり、消えたりした。誰もが荒廃していた。荒廃していたから、「愛」が叫ばれるようになった。人が人を思う、想像力が必要とされていた。

「人間の想像力は地球より重い」と、〈偉大なる湯川科学委員長様〉がテレビで言っていた。「今こそ、必要なのは想像力なのです。想像力のない人間には生きている資格がない。私は、人間の想像力と、地球の重さを比べる天秤を発明しました。われわれに必要なのは、想像力が地球よりも重い人間だけです。むろん、人間の自由は尊重されるべきです。秤に乗るのも乗らないのも、自由です。但し、天秤に乗ることを拒否した人間、そして当然ながら、地球より軽い人間は、今後一切、すべての人権を剥奪します」

 公民館で、天秤に測られるのだった。同じ十八歳の若者で、建物はごった返していた。タカノリ君の顔も見たが、声はお互いかけなかった。天秤は清潔すぎる医療器具のようで、人ひとり乗れる皿が、白く鈍く丸みを帯びていた。それを見ているうちに、ああ駄目だ、と思った。僕には想像力がどうせない。僕は逃げた。人波に逆らって、僕は逃げた。学校指定の通学路ではない道を歩いていた。いつの間にか、タカノリ君が隣を歩いていた。
 秤、乗らなかったの? と僕は訊いた。うん、とタカノリ君は答えた。何で。タカノリ君の想像力は地球よりきっと重いよ。あんなにせんそーごっこが上手かったじゃん。僕の気持ちを、誰よりもわかってくれたじゃん。
 おれ、ばかだからよくわかんねえよ、とタカノリ君は照れくさそうに言った。
「でも、ダイちゃんがはかりに乗らないなら、おれも乗らないよ」
 何で? タカノリ君のばか。僕にはタカノリ君の気持ちが、やっぱりわからないよ。僕には想像力がないから、やっぱりわからないよと言った。そして泪を一滴、こぼした。
 ああ、これで僕はこの泪のぶんだけ、また地球より軽くなったな、とだけ思った。

(小池孝一さんの句は『川柳の仲間 旬』197号より)
posted by 川合大祐 at 22:59| Comment(1) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋24 狂気と勇気。

少し狂って少し毀れてラジオ体操  加藤久子

  *

たしかデリダがいってたと思うんですけど、決断の瞬間はいつも少し狂気の瞬間なんですよ。
なにかを決めるとき、ひとはどこか狂っている。

これはなにかをえいやっ!て決めるときのことを思い出してみてもらうとニュアンスがわかるとおもうんですけど、なにかを決めるときって実は決定的な理由がなかったりする。でも、ないからこそ、決めることができる。たとえば、駆け落ちしようといわれたときに、そこで理由をかんがえると、駆け落ちはできない。やろう、と(根拠もなく)思えたときに手をとりあって駆け落ちができる(だから漱石の『それから』で代助は姦通する理由や理屈を考えてしまっているので、親友の妻である三千代からの「わたしはあなたとともに生きます」に対して「はい!」と返事ができず決断もできずにうじうじしている。けれども最後は〈狂気〉の状態になるため、そうだ職探ししよう!と〈決断〉することができる。ちなみに有名なコピー「そうだ京都行こう。」も少し狂気の瞬間に近いと思います)。
なにか理由があっても後付けになるとおもうんですよ。私はきっとこう思ってたからこうしたに違いないって。
でもそれはあくまであとからの意味付けであって、決断の瞬間は、いつも無根拠だと思うんですよ。
逆にいえば、無根拠だからこそ、ひとは決断ができる。
それは、決めたから、決めたわけです。たとえどんな理由や意図があったとしても。
決断を支えることばや言説や理屈なんてないとおもうんです。
ことばがたちむかえない状態のなかで、ことばの真空のなかでひとは決断する。
好きとか、愛とかも、そうだとおもうんです。
どうしてこのひとを好きなのか、愛するのか、にもかかわらず愛そうとするのか、わからないけれども、そうすることを決断する。
これはある意味、狂ってるんですけど、狂ってるからこそ、決断できる。そしてことばは後からやってくる。

加藤久子さんの句。
ラジオ体操っていうのは決められたことを繰り返す体操です。しかもこれは第一・第二と定められているものなので、たぶん何万年後も、地球が滅びても、このやりかたで体操しないといけない。
だからそれ自体、なんだかちょっと狂ってるんだけれども、ほんとうに狂ってるのはそこじゃない。
その決められたラジオ体操のやりかたにひとつひとつの身体の挙措をシンクロさせ、一致させ、身体の決断を遂行していく。
それが、ラジオ体操の狂っている部分だとおもう。
ラジオ体操っていうのは、実は、ひとつひとつの決断の所作なのではないかとおもうのです。
だからラジオ体操はいつもすこしくるってるし、すこしこわれている。
でも、そういうものなんです。これは善悪の彼岸です。
狂気というのは善いとか悪いとかの問題ではない。
それはひとつひとつ根拠もなく決断される場所のことです。

そして今回じゃあやぎもとなにが勇気なのかってわたしが聞かれたとします。狂気の話はわかったけれど、まだおまえ勇気の話はしていないよ、と。どうするの、と。

でもそれは、決めたんです。理由もなく。
決断の瞬間はいつも狂気であり、だからこそそれは勇気にほかならないと。
それが、やぎもとの決断と狂気です。

posted by 柳本々々 at 01:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋23 勇気と乳房。

病むときも乳房は東向くように  徳田ひろ子

  *

ときどき思うのが、わたしたちの意思や意志と身体は別物だよね、っていうことです。

たとえばわたしが寝込んでいたとします。もっと寝込みたいなとおもったとする。もっとふとんの奥へといこうとします。ふとんの国ともう呼んでもさしつかえはないくらいに奥にいって、もうこっちの世界にもどってこないことにしようかな、とおもうことも、ある。

でもからだが、ふいに、あらがうときがある。

わたしが歩こうとおもっても、からだが走り出してることもある。
逆もそうです。
わたしがどんなに太陽のようにあははあははとわらっても、からだのほうがへたってしまう場合もある。やはりそんなときはふとんの国です。

大事なことは、わたしたちの内面がどんなにへたっても、とつぜん身体にパワーがみなぎって、走り出してしまうことが、ある。
だから、わたしがわたしに対していい意味でそんなに忠実になる必要はないということです。

たとえわたしが落ち込んでいたとしても、わたしはめげる必要はない。
きっとおなかは空くし(おなか!)、だれかと話したくなるかもしれないし(くちびる!)、こどものころに好きだった絵本を読みたくなるかもしれないし(め!)、風の吹く草原に寝ころびたくなるかもしれない(からだ!)。

からだは、やすやすと、わたしを裏切っていきます。
ひろ子さんの句のように、わたしがどんなに病んでも、寝込んでも、したへしたへと落ち込んでも、乳房はある一定の方角を指し示そうとする。
わたしたちの身体は勇気の羅針盤になります(ゆうき!)。

posted by 柳本々々 at 00:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする