2015年03月31日

「川柳カード」第8号

川柳カード第8号
発行人 樋口由紀子
編集人 小池正博

【同人作品】
格納庫猫が前夜を舐めている    石田柊馬
おぼろ月やがて水汲む人になる    畑美樹
分度器はもっと遠くに飛んでいく    樋口由紀子
退屈の果ての溶けないミズクラゲ    平賀胤壽
茶葉として姦通罪を言い渡す    榊陽子
速やかに鯵の開きを秘匿する    飯島章友
舌伸ばしあんどろめだを舐めている    野沢省悟
茶バネ這うポストモダンの硝子窓    山田ゆみ葉
緑青をぽたりぽたりと虹彩へ    くんじろう
美少女図鑑美坊主図鑑涅槃風    きゅういち
電柱の痒さが少しだけ解る    草地豊子
離れない善玉菌のふりをして    浪越靖政
湯船にはふやけた指が落ちている    一戸涼子
自意識の劇場鉈をぶらさげて    小池正博
割箸で添乗員を裏返す    筒井祥文
闘魂や埋蔵文化研究所    井上一筒
愛してますと 薬缶が滾る    松永千秋
ワイシャツの下はあられもない無法    丸山進
テロリズムこの人混みに白い息    湊圭史
用心棒に芋羊羹を連れてゆく    広瀬ちえみ
夕暮れにクロヤギさんを問いただす    兵頭全郎
聖句読むゆらぎの中の天牛虫    清水かおり
トンネルの灯り胃袋で考える    前田一石

【会員作品】
やりきれない夜はスネ夫になってやる    本間かもせり
哲学的に何のためなの食制限    斉藤幸男
まばたきをするたび殖えてゆくキャベツ    西田雅子
喃語から鳥語に変わる日暮れです    いなだ豆乃助
二月の瓶にルシファー誕生    内田真理子



「川柳カード」はわたしが同人として参加している柳誌である。
同人欄は10句、会員欄は選を受けるが8句まで投句できる。

ご覧のとおり、言葉と言葉の関係性は予定調和からずれている。
社会で共有されている(はずの)気分、日常のトリビアリズム、私小説的なドラマなどを575定型で表現したい人からすれば、相当距離のある川柳がそろっていることと思う。

わたし自身、川柳をはじめた当初はこういうスタイルに少々戸惑いをおぼえた。
それでも、いまこうして川柳カードに参加している。
なぜだろうか。
それはたぶん、意味は取れないけれども何かがひたひたと沁みこんでくる作品だとか、散文ではおよそ関係し合わない言葉と言葉が出会うことで理を超えた妙味が感じられる作品に巡り合いたいからだと思う。
あるいは短歌の上の句575だけの世界に読み手として下の句77を補い、二次創作的に世界をひろげていくのが楽しいからなのかも知れない。

もちろん、予定調和に着地するよう作句されてはいないので、こういう書き方にはかならず空振りも出る。
だが、かりに10回の中に1回でも特大ホームランが飛び出すのなら、小さくまとまった打撃10回を見るよりも得した気分にならないだろうか。
少なくともわたしはそう考えてバックストロークや川柳カードに参加した。

さて、「川柳カード」8号の特集は石田柊馬による「冨二考」。
25ページにもおよぶ中村冨二にかんする論考だ。
冨二という川柳人は生前どのように川柳を捉え、また現在から見てどのような歴史的位置にあるのか。
この論考を参考に考えていきたい。

なお、中村冨二『千句集』は、なかはられいこさんのブログで閲覧できる。
そらとぶうさぎ

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posted by 飯島章友 at 23:25| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋48 スキップでするさようなら

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去るときにスキップしないようにする  いわさき楊子

   *

M 『川柳 裸木2』(2014年11月)のいわさき楊子さんの「2センチ」からの一句です。

Y そ、そういえばMさんて、わたしとの話が終わるといつもスキップして帰っていきますよね。あれは。

M いやあ、うれしくて。いつも。スキップしちゃうんです。

Y しかもあのスキップ、いつもすごく全力でスキップしているようにみえるんですけど。

M うれしいんですよ、話が終わったのが(あなたとさよならするのが)。うれしくてたまらないんだ。

Y そうですか……。この楊子さんの句の語り手も、全力でうれしくて、でも、そのうれしさをがまんしたのかな。だから、Mさんよりも《相手に思いやりがある》語り手ということになるんでしょうか。

M そうですね。これってだから自分に対する自分をめぐる句という、ちょっと込み入った構造をもった自意識の句ともいえるんですよ。〈思わず去るときにうれしくスキップしそうになる自分〉←〈あ、相手に失礼になるからスキップしちゃだめだよ自分、と呼びかける自分〉←〈よしわかった、じゃあスキップしないようにいま脳からちゃんとスキップ禁止令だすね、と指令をだす理性的な自分〉。そんなふうな自分の多重構造になっている。アルチュセール風にいえば、重層的決定がなされているわけです。

Y でもそれが複雑さを吹き払うような「スキップ」というなんだか遊戯的で児戯的な身体行為をめぐっているところにこの句のおもしろさもまたあるんですね。

M そういえば、楊子さんにこんな句もあるんですよ。

黙っていると点線で囲まれる  いわさき楊子

Y うああ! どうしよう。わたしはいつも春の新学期の教室にいくと黙っておびえているから、点線で囲まれてしまう。

M だいじょうぶです、だいじょうぶです、もうあなたの小学生時代は終わってしまっていますから。あとですね、こんな句もありますよ。

2センチの壁にぶつかるときもある  いわさき楊子

Y うわあ! どうしよう、わたしも壁にぶつかってばかりなんだ。春の新学期にやたらと壁にぶつかってしまう。壁ばかりなんだ。どうしよう……。

M (たしかにそれは今でも否定はできないな……)

  Y、うずくまる。M、スキップで帰る。


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posted by 柳本々々 at 20:53| Comment(2) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月30日

勇気のための川柳処方箋47 つまり、別にはっきりしたことじゃない。一つの希望、漠然とした、嘆願のような……

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殴りたくて抱きしめたくて草原に  佐藤みさ子

   *

M 『川柳杜人』題245号(2015年3月)の佐藤みさ子さんの「こんなもの」からの一句です。

Y 「草原」についてよくかんがえているんですが、「草原」ってそもそもなんなんでしょうか。そろそろ草原に決着をつけたいところです。

M まず誰のものでもない場所、という意味性がありますよね。草原に棲んでいるひとはいないし、草原が所有化されたら〈庭〉という呼び名がつくわけです。つまり、記号としてはあまりにも不分明な記号不毛地帯が「草原」ということになるんじゃないでしょうか。だって草原って境界線さえもよくわからないでしょう?

Y たしかに待ち合わせとかで、「じゃあ三時に草原でね」っていわれても困りますよね。「じゃあ三時にTSUTAYAの前でね」っていわれたらほっと胸をなでおろせるけど、草原でねっていわれたら、もうグーグルアースしかたよりにならないですから。あてどなくさがしつづける、待ち合わせがひとつの旅みたいになっちゃいますから。

M ですから「草原」はある種の記号の無法地帯にもなっているわけです。そこでは勃発的な記号のゲリラが隆起する。たとえばこの句の「殴りたくて抱きしめたくて」もこれらもゲリラ的に勃発してきた記号行為かもしれません。

Y 〈殴る〉と〈抱きしめる〉は相反する行為ですよね。

M そうなんです。でも語り手は「て」という連接の助詞でつなげている。それもけっこう大事な点だとおもいます。つまり語り手にとってはどこかで〈殴る〉ことも〈抱きしめる〉ことも同じだと感じられている。

Y じゃあここでのミソはなんですか?

M 相手へ働きかけたい行為の〈強度〉だと思います。ともかく語り手は相手への強い感情を行為として昇華しようとしている。〈殴る〉も〈抱きしめる〉も強い行為ですよね。そしてそれができるのが〈草原〉なんです。

Y 草原じゃなきゃだめなんですね。

M たぶんなんですが、草原だと行為がどこにも私有化されえないからなんじゃないかとおもうんですね。殴るや抱きしめるが意味づけられない場所。それが草原なんじゃないかって。たとえば、わたしが自宅でYさんを抱きしめたとしますよね。

Y (いやだなあ、昼間から)

M そうすると、Yさんはわたしの行為を意味づけてしまうかもしれない、即座に、決定的に。

Y 草原だとしたら変わってくるんですね。

M 風が吹く草原みたいに、意味づけのベクトルは錯綜するとおもうんですよね。

Y そうか、そうか、わかりましたよ! わたしたちはこんな風の吹く草原でいつもひとつの句をめぐって対話を交わしつづけていて、だからもう50回目をこえようとしているのに、いまだに勇気の「ゆ」の字にさえたどりつけていないんだ!

  ふたり、風の吹く草原にいる。木だけが、生きている。

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posted by 柳本々々 at 13:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月26日

作品欄の開設

4月より川柳作品欄を開設します。
主にゲストの方々の新作を掲載していく予定です。
月1回の更新、どうぞよろしくお願いします!
posted by 飯島章友 at 21:51| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋46 転べ穴を掘れ失敗しろ最悪を選べ見ちがえ言いちがえにもかかわらず通れすごくなれ


音たてて転べ誰かが見てくれる  定金冬二

   *

M 倉本朝世編『定金冬二句集 一老人』から定金さんの一句です。

Y 倉本さんが編集されて、巻末に「編集後記」も書かれているんですが、そこで定金さんの句を「穴の底にある本当の俗の深さ・強さ・豊かさが書けている川柳」と解説されています。これはいいかえれば、〈個の穴の底にある普遍性〉という言い方をしてみてもいいかもしれません。

M 〈転ぶ〉っていう挙措についてすこしかんがえてみると、ひとつはそれまでの自分がつちかっていた身体のコードやルールを崩すという意味合いがあります。Yさん、ちょっと転んでみてもらえますか。

Y こ、ここでですか? わかりました。……痛いっ!

M どうでしたか?

Y まず転んだことによってふだん見えないはずの風景がみえました。青空がひっくりかえったような感じになって。ふだんみえなかった床もよくみえたりして。あとはなんだろう、理性や言語ではくくれないような奇妙な倒錯感がありました。

M 実はけっこう身体が〈きちん〉としているからこそ、〈きちん〉と考えられていることが多いのではないかと思うんです。だからその〈きちん〉に穴はない。たとえば、デカルトだって、わたしは考える。だからわたしはここにいる、ということを寝ころんで足をばたばたさせたままでは思いつかなかったかもしれない。ところが定金的主体はちがう。われころぶ、ゆえにわれあり、なんですよ。ころぶところにわたしはいる。わたしがゆらいだそのときに、わたしが発現してくる。それはもう〈わたし〉というはっきりした主体じゃないかもしれない。〈一老人〉という someone かもしれません。

Y そしてそこから「誰かが見てくれる」という他者につながっていくのもおもしろいですね。

M そうなんです、転ぶということは、他者への呼びかけにもなっている。しかも〈声〉ではないんですよね。〈音〉、〈ノイズ〉です。どんな〈音〉がでるかなんて、転んでみなければわからないですから。でも、そのノイズによって、思いがけないひとが振り返る、ふりむく。だれかは、わからない。だからそれはつねにやはり someone なんです。

Y そうか、転ぶ勇気が必要なんだ。むかし、文学散歩の最中に、あははははと笑いながら歩いていたら、ダイナミックにすっころんでめちゃくちゃ恥ずかしかった記憶があります。そのとき、全員が、このひとどうしようもないな、という顔でわたしをみて、わたしは文学危機を感じました。

K でもそれでも可能性なわけです。ベケットも『いざ最悪の方へ』でこんなふうに言っていました。「もういちど失敗しろ、こんどはもう少しうまく失敗しろ」と。

Y 最悪を《あえて》えらんだときに訪れる可能性が、ひとには、あるのかもしれませんね。ときどき、かんがえるんです。ねころびながら、足をばたばたさせながら、あえて最悪を選びながら、可能性に身をゆだねていくことの、みずからの倫理的実践について。

M じゃあ最後に定金冬二さんのこんな句を。

  わたくしの通ったあとのすごい闇  定金冬二

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posted by 柳本々々 at 12:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする