2015年03月26日

【川柳インタビュー】川合大祐さんに聴く〜豚とブウウーーーーーンをめぐって〜(聴き手:柳本々々)


…早送り…二人は……豚になり終  川合大祐

   *

柳本々々(以下、Y) こんにちは。きょうは、川合大祐さんに上記の句についておうかがいしようと思っているのですが、もしできたらそこから川合さんの川柳観についてもおうかがいできならいいなともおもっております。

川合大祐(以下、K) あのー、すみません。こういうのはじめてで、緊張してるというか、舞い上がってるというか。で、いろいろ辻褄の合わないこととか、偉そうなこととかだらだら言うと思いますが、それは僕、川合大祐の考えなんで。柳本さんにはなんの責任もないって、ご理解いただけるとうれしいです。

Y はい。ありがとうございます(笑)。ですが、質問者としての責任はまっとうしたいと思っています。あの質問のしかたはなんだ、おまえの質問のやりかたはまちがっている、もっと身振り手振りを交えて大胆に! など質問へのご批判はやぎもとまでお寄せいただけたらおもいます。
さて、さっそく川合さんの句についてお聞きしたいと思うんですが、この「…」というのは川柳ではほとんど使われない記号だと思うんですがたとえば句のなかに使う際にためらいみたいなものはなかったですか?

K なかったです。即答ですが。というか、ためらうほど新しいことをしているという意識はなくて、短歌なんかだと、たとえば塚本邦雄が「仮死の蠅蒼蒼と酢の空壜に溜め de profundis……domine」とかいろいろ、もう半世紀くらい前にやっているわけですね。塚本だけじゃなくて、言ってしまえば「短歌」というものが最初から過激な前衛だったんじゃないかと思ってます。

Y あ、そうか。川合さんは『かばん』にも所属されておられて、短歌もつくられていますから、そういう短歌の表記感覚みたいなものがあったということですね。そういうジャンル横断の視点でかんがえると、そんなに不自然ではないかも知れませんね。

K そうですね。というか、本格的にはじめているのは川柳のほうが先なんですけれど、途中で、ごたぶんにもれず穂村弘さんにかぶれてしまって。あのぶっとんだ世界の切り取り方を川柳に移植したい、と思うようになって、それで大迷走したんですが(笑)。あと、ジャンル横断ということを言えば、萩原恭次郎とか、あのへんの人たちが好きで、そのあたりも影響してますね。

Y なるほど、発想がどれだけ宇宙的に飛躍しても、定型のなかで意味の芯がいっぽん通るというのが穂村さんの短歌のひとつの魅力ではないかと思っているんですが、この句でも意味の芯がいっぽん通っていますよね。

K で、川柳なんですが、川柳はもう、何でもありだというのが基本的な考えにあって、それは自分の育った「旬」という結社が、これがまた「過激な前衛」なところで、だから「…」というのが特別新奇なことだと思っていません。川柳の歴史をたどれば、もっと凄いことをやってる方たちが、きっと既にいたはずで、それは僕も不勉強で知らないのですが(笑)。でも自分がやってることなんて、ぜったい先人がもういるって、思ってます。

Y たしかにわたしが、よしやってみよう! と思うことは、ほとんどすでに川合さんがなされていたんだなということをさいきんあらためて思ったりしていました。だいたい思いつくことっていうのはすでになされている場合が多いからそこらへんは意識的に過去の歴史を学ぶ必要性があるかもしれませんね。

K 蛇足で、質問からは、ずれているかもしれませんが、これ、『川柳カード』の誌上大会に投句するときに、メールで送ったのですが、最初は「早送り二人は豚になり終」だったんです。パソコン見ながら、なんか足りないなあ、と思って。それで、あ、「…」つけよう、と。だから、ためらってる暇もなかった、というのが正直なところですね。なんていい加減なんだろう(笑)。

Y あ、でも、デジタル・メディアが川柳における表記の感性を変えている場合があるということですよね。〈感性の変革〉ってそういうメディアから起こる場合があるかもしれませんね。加藤治郎さんもたしかそうしたメディアによって表記のありかたが変わる短歌のありかたについて指摘されていたとおもいます。
そこで表記についてもう少し細かくおうかがいしてみようとおもうんですが、この川合さんの句では、「…」と「……」という違いがありますが、これらは使い分けのうえで意識されていたこととかってありますか?

K それはありますね。大学の卒論で『ドグラ・マグラ』をやって、例の「…………ブウウーーーーーン」ではじまるあれなんですが、終わりの「……ブウウウ……………ンン」と「…」や「−」の使い方が違う、ということを発見して。みんな自明に気付いてるのかもしれないけど(笑)。ただ、自分の中で、「…」の長さは結構重要だな、という意識はずっと持ってます。じゃあこの句の中でどういう思いを込めていたかというと、それはどのように取ってくださっても構いません(笑)。ただ、この「…」と「……」は違う、という意識は込めました。それが効果を上げているかは、また別の話ですが。

Y たぶん、意味っていうのは、差異ですから、「…」と「……」が相互作用を起こしながら、それぞれの意味生成を行っているように感じました。そうか、江戸川乱歩もそうですが、推理小説というジャンルが、表記に対してむしろ実践的だったというのは、推理小説がとりわけてメディアに対して敏感だったことを思い浮かべても興味深いですね。
さて次はちょっと視点を変えて、この句の「豚」というのがけっこう印象的だとおもうんですが、「豚」というイメージに関してはなにか川合さん自身でふだん考えられていることなどありますか?

K うわ、鋭いところ突いてきますね。あの、非常に言いにくいというか、恥ずかしい話なんですが、子供のころ、肥満児だったわけです。大人になってからダイエットしましたが(笑)。で、周りから「豚、豚」とかいっていじめられてたわけです。で、「豚」っていうのが凄いきつい、禁忌の言葉になっちゃったんです。「豚」はもちろん、「ぶた」という音がだめだから、「第三舞台」「外人部隊」「瞼の母」「割れ鍋に綴じ蓋」っていうのも、全部だめで。「のぶたかさん」って人は、よく耐えてらっしゃるなあ、とか。「ぶた」っていう音を聞くだけで、自分が本当に豚に変貌しちゃうんじゃないか、っていう恐怖にとらわれていて。それに「豚」っていう漢字、なんかこう、まがまがしい字面じゃないですか? 僕だけか(笑)。

Y たしかに意味のゲシュタルトを壊してみると、魔法陣みたいにみえなくもないですね、「豚」っていう字って。なんだろう、線がざくざくしてるからかな。「BU・TA」という音も、独特のひっかかりがある音ですね。まがまがしいかも(笑)

K ええ。でもそうやって忌避しているうちに、いろいろ考えちゃうわけです。よく肉屋さんなんかで、豚さんがコック姿している看板ありますけど、あれって凄い怖いことじゃないか。確か穂村弘さんもエッセイで同じようなこと書かれてましたね。そのうちに、食べられるためだけに生まれて、殺されて、それで侮蔑されてる「豚」ってなんなんだろう。

Y そういう奇妙な豚の哀しみを、豚を語り手にして宮沢賢治が「フランドン農学校の豚」で描いてましたね。

K 人間に作られたのに、人間に忌避されている存在って、可哀相とか、そういう次元を超えて、ある意味神に一番近い動物なんじゃないかと。もう病気ですね(笑)。そういえば中島らもさんにも『ガダラの豚』ってありましたね。

Y あれも、まがまがしさというか、らもさんの好きな呪術や文化人類学が関係した小説でした。

K だから、そういう忌避の感情も含めて、特別な動物なわけです。自分の一番ざわざわする動物というか。初めて川柳を作ったときも、連作の一番冒頭が「豚喰えば愛は口先上滑り」だったりして。今でも「豚」っていう言葉はかなりこわいし、だからこそ凄く思いをこめちゃうんですが、カツ丼とか「おいしいなあ」と思って食べているわけで、つまんない大人になりましたね(笑)。

Y まい泉のカツサンドとかおいしいですもんね。なるほど、そういうご自身のなかでの〈豚のイメージの系譜〉みたいなものがあったわけですね。豚というのは、『聖書』でもおびただしい数の豚が出てくるシーンがあって、それが漱石の『夢八夜』にもつながっているんだという指摘もありますが、…

K (あれ? 「漱石の『夢八夜』」って言ってるけど、『夢十夜』じゃない? 虚構の現実への侵犯が起きちゃってないか。ちょっとボルヘスっぽいことになってないか、このひと。まだ『夢八夜』から帰ってきてないんじゃないか)

Y …『豚の文化史―ユダヤ人とキリスト教徒』という本もあるように、豚のイメージが歴史的に変遷していくというのは、けっこう表現史においても大事なのかなあと思います。ゲームなんかでも糸井重里さんの『Mother3』が豚の帝国を描いていたりしました。
ここで少し大きな視点にうつって、定型の話をお聞きしたいとおもいます。川合さんは定型に関してかなり保守的というか、以前お話させていただいたときに、もう絶対に中8の句はつくらないというようなことをお話されていたんですが、そこらへんの中8観や定型観について少しお話していただけますか。

K うーん、保守的、なのかな。川柳を始めたころ、時実新子さんの入門書とか読んで、「中八は絶対駄目。それだけで下手に見える」っていうようなところが、どうしても、実感として納得できなくて。

Y 時実さんのあのことばは私も覚えてるんですが、とても印象的でしたね。

K 拍がどうのこうのとか、いろいろ自分なりに知ろうとしたけれど、「中八が駄目」って、どうしても、思えなかったんです。これは僕のセンスの悪さなのかもしれないけれど、中八というだけで、無条件に「下手」とは思えなかったし、そもそも、下手なことって、そんなに悪いことかな、って。

Y なるほど。

K 伝えるって、上手い下手の問題じゃないよな、どうしても伝えたいことがあるときに、七も八もないよな、って。「川柳は自由な文芸です」って謳っていながら、これは欺瞞で、定型って、檻じゃないかと。今考えると、だから川柳が下手なまんまで、もう、滅茶苦茶やりましたよ。「ばかをばかにするな」とか。はっきり言って、すさんでました。ずーっと、低迷してました。で、「中八がそんなに憎いかさあ殺せ」みたいな句を作って、それが一部の方々に、ありがたいことですが、評価していただいたのです。

Y 丸山進さんがたしかとられたんですよね。私は丸山進さんのブログ記事で川合さんの句について知りました。丸山進さんの解説もとても考えさせられる内容で印象的でした。

K でもその句を作ってから、ああ、これでもう中八は作れないよな、と思っちゃって。

Y 反動みたいなものがきたんですね?

K 何だろう、褒められたいのに、褒められると穴掘って埋まってしまいたくなるというか。でもたぶん、ふたつの思いがあって。ひとつが、定型だ中七だって多くの人は言うけど、じゃあ自分は、その中七でどこまで滅茶苦茶がやれるか、行けるところまで行ってみよう、試してみようと。そう思ったのは実は去年からなんですが。変な意地で、虚勢ですね。もうひとつの思いは、これはビビりなとこなんですが、自分には詩的センスが欠落しているって、わかっていて。だから五七五を外して、作るのが怖くなってしまった、っていうのもあります。「定型って檻だ」とか言っておきながら、実際には檻に頼って、外に出るのが怖いというか。だから、もともとさんの言葉をもじって、「勇気定型」って造語をしたんですが、

Y あのわたしが以前、「有機定型」と申したことばですね。定型は生命のようなもので有機的にうごめいているといったようなことを書いたことがあります。

K 勇気ができれば、そして本当に伝えたい何かができたら、中八でも九でも十でも、やります。話しながらいま思ったんだけれど、正直なところ、定型だ定型じゃないなんて、どうでもいいです。ただ、今はそのどうでもいいことにこだわりたいというか。まあ、かなり性格が歪んでますね(笑)。

Y いまは中七ではいるけれど、でもそれを〈踏み越える〉必然的な理由が出れば、中七でも、中八でも、中百でも、されるということですね。定型にかんするみずからの関わり方の問題ですよねそれはきっと。たぶんだれもが抱えざるをえないような。
また少し話題を変えまして、川合さんは夢野久作の『ドグラ・マグラ』で卒論を書かれているとのことですが、さきほどお話されていましたが、夢野久作の表記の使い方って印象的ですよね。表記の「…」に関しては夢野久作の『ドグラ・マグラ』との関係はありますか?

K ああ、それは表面では意識していなかったですね。だけど、夢野久作の影響は、確実にあります。『ドグラ・マグラ』は中学の時にはじめて読んで、当然なんにもわからなかったけれど、雰囲気だけは「すげー」って感じて、だからこそ刷り込みは行われたのかもしれない。『ドグラ・マグラ』だけじゃなくて、いろんな短編も、がっついて読みました。だから直接の関係はないんだけれど、いつもどこかで血肉になっている感じは、します。僕も、精神病院入ってたことありますしね(笑)。

Y そういう精神のモードというか、精神の枠組み、精神のコードも表記や定型と実は関係が深いのかもしれませんね。以前、鬱病とブログっていうのは親和性が高いのかなあとかんがえていたことがあるんですが、その日記っていうのが、日付によって毎日分節される定型表現なんじゃないかとおもったりして、その定型という意識が鬱という分節化しがたい病の形式と響きあうんじゃないかと思ったりしたことがありました。
ひとつの句からさまざまなテーマをお話していただいたとおもいます。
ありがとうございました!

o0480064012599078678.jpg

posted by 柳本々々 at 06:00| Comment(0) | 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月24日

勇気のための川柳処方箋45 昔から自転車のうしろに乗せてもらうのが夢だった。


チャリンコをゆっくり押せば恋になる  河合正秀

   *

M きのうに続いて、なかはられいこさんの朝日東海柳壇からの一句です。

Y わたしも失恋で歩けなくなって道ばたで倒れふしたり、全力で無力になってしまって気がついたら手押し車で運ばれていたり、夢のなかで体力がうしなってしまってバナナボートに乗せられて夢からこちらの世界へともどっときたことがあるんですが、そうゆうことですか?

M ええと……まあちがいますけど、でもちかいかもしれないです。

Y ええっ!?

M たとえば、恋をして苦しくて、くずおれそうで、もうチャリンコを押す気力さえなくて、それで「ゆっくり押せば」になっているかもしれないから。

Y でも「ゆっくり押せば」って、なんかすこし〈ひとごと感〉がありますよね。仮定的・条件的なことばづかいだし、主体がはっきりしない。

M そこもこの句の、恋心のありようなんじゃないかっておもうんですよね。恋をすると主体がゆらいだり、もしくはがっちりした主体が奪われちゃうじゃないですか。『男はつらいよ』とかみてみてくださいよ、毎回、渥美清が迫真のへろへろの演技してますから。あんなに、へろへろになることがうまかったひともいないとおもうんですが、恋をするってへろへろの主体になることなんじゃないかな。

Y たしかにそうかんがえるとへろへろだから自転車に乗ることさえできてないってかんがえることもできるのかな。

M 自転車ってへろへろで乗れないんですよ。たまにやる気ないかんじでつっぷしながら自転車に乗ってるおじさんも商店街とかでみかけるけれど、でも自転車って足でこがなきゃいけないわけだから、へろへろでは乗れない。恋をすると、自転車に乗ることができない。

Y だからよくバナナボートに乗せられるのかあ。

M そうゆうことになります。

1331101731627.jpg

posted by 柳本々々 at 06:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月23日

勇気のための川柳処方箋44 こうやってこうやって、ここをこんなふうにして、こういうふうに裏返してみる。


しかたなくわたしをぜんぶ裏返す  長谷川維乃理

   *

M なかはられいこさんが選者をされている東海柳壇から維乃理さんの一句です。

Y この東海柳壇って丸山進さんがよくブログで紹介されているんですが、おもしろいんですよね。そういえば、なかはらさんは名古屋の短詩シンポジウムでもこの東海柳壇に触れ、これまで川柳をされてこられなかった方もホームランを飛ばす場合が多くておもしろいとおっしゃっていたのが印象的でした。

M この句、うらがえしてしまっちゃってますがどうでしょうか。

Y 「裏返す」でとつぜん漢字表記になっているのがおもしろいですよね。ああ裏返ってるなってわかりますものね。

M 「ぜんぶ裏返す」ってそうなるんでしょうね。表記も変わらざるをえないような。

Y 「しかたなく」っていうのもおもしろくないですか? ほんとは本意じゃないんですよね。しかたなく、だから。できるならそんなことはしたくない。やらないですむなら裏返さないにこしたことはなかった。しかしやむをえない事情があった。だからわたしをぜんぶうらがえすことになった。わりと濃厚な事情がこのたった17音からわかりますね(笑)

M しかもこの句って、発話ではないですよね。心内語のような形式ですから、あいてには、「いいよいいよ、しかたないじゃんね」ってライトなかんじで裏返りつつ、こころのなかで「しかたなし! せんかたなし! やるせなし!」って思ってる場合ありますよね。

Y 17音ってそうかんがえると饒舌ですよね。定型っておしゃべり抑制装置だとおもってるんですが、でも長い長い冒険のようなきもしてきた。遙かなる山脈をのぼってゆくような。

M だから、わたしたちがしてることは、17音で終わっていることをさらにそこにことばをつけたすんですから、野暮ですよね。とても。こういう行為は。

Y そう、おもいます。野暮だって。

M こないだ、ふを投げつけられましたもん。去ね!っていわれて。

Y ふ? 食べる麩(ふ)? 去(い)ねっていわれたんですか。

M ええ。おしゃべりは去ね! と。そして、ふを投げつけられた。

Y (この話、どうやって裏返して終わりにしたらいいんだ……維乃理さんの句のように……ぜんぶうらがえすには……かみさま…)

IMG_0353.jpg


posted by 柳本々々 at 14:02| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月21日

かばん新人特集号vol.6

歌人集団かばんの会が数年に一度発行している「かばん新人特集号vol.6」が出来上がりました。

・・・・・・

かばんの熱気あふれる新人23名による連作30首をおたのしみください。
ゲスト&かばん会員からの評を掲載。
さらに有志による小説やエッセイも。(以下、敬称略・各五十音順)

●かばん新人
雨宮真由、伊藤綾乃、川合大祐、川村有史、桐谷麻ゆき、後藤葉菜、酒井真帆、凌山清彦、嶋田恵一、鈴木智子、谷川電話、柊森比呂、とみいえひろこ、ながや宏高、那由多、福島直広、ふらみらり、堀静香、前田宏、ミカヅキカゲリ、水野佳美、睦月都、米村尚子

●ゲスト評者
石川美南、糸田ともよ、江戸雪、奥村晃作、加藤治郎、木下龍也、栗木京子、黒瀬珂瀾、小島なお、小島ゆかり、笹公人、辰巳泰子、田中槐、堂園昌彦、永井祐、西崎憲、野口あや子、服部真里子、林和清、松野志保、松村正直、光森裕樹、米川千嘉子

●かばん評者
(総合評)井辻朱美、佐藤弓生
(各評)雨谷忠彦、あまねそう、飯島章友、飯田有子、伊波真人、入谷いずみ、久保芳美、久真八志、佐藤元紀、陣崎草子、高柳蕗子、田中ましろ、千葉聡、辻井竜一、伴風花、東直子、藤島優実、穂村弘、三澤達世、柳谷あゆみ、山下一路、山田航、若草のみち

●自由作品
後藤葉菜、那由多、福島直広、ふらみらり、ミカヅキカゲリ


かばん新人特集号vol.6
価格:650円(送料込)
お申し込み:tokubetsu◎kaban-tanka.jp(◎をアットマークに替えてください)まで
件名:新人特集号vol.6購入について
本文に
・お名前
・郵便番号
・ご住所
・お電話番号
・希望冊数
をご記入のうえお申込みください。
※かばん新人特集号に関するお問い合わせもこのアドレスでお願いします。

・・・・・・
新人と申しましても第60回角川短歌賞を受賞した谷川電話をはじめ、新人賞の常連や同人誌を発行している者もおります。
そして当ブログのメンバー川合大祐も参加しています!
みなさま、ぜひご覧になってください。

DSC_0480 - 1.JPG

posted by 飯島章友 at 20:30| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

びいどろに金魚の命すき通り


びいどろに金魚の命すき通り
(『俳諧武玉川』 より )

金魚の美しさは、「生物」としての美しさというよりも「物(オブジェ)」としてのそれに近いのかもしれません。
長い歴史の中で、人間の欲望や執念のままに何度も品種改良を重ねて創り上げられた、人の手なくしては生み出されず、人の手なくしては生き永らえない、そんな生物が金魚です。
その事を踏まえた上で読むと、やはりこの句の核は「命」という一語にあるのではないでしょうか。
前述の通り、金魚の美しさは自然から乖離した極めて人工的なものです。しかしそれでいて、金魚は決して「物」ではありません。周囲を取り巻くびいどろや日光や水とは全く異質の、「命」を持った「生物」なのです。そしておそらく、金魚はそれゆえに「美しい」のです。
「物」としての美しさをその身に宿しながら、その一方で金魚は確かに「生物」である。この句の「命」という一語には、その二律背反的な、ほとんど奇蹟のような金魚の存在性と美しさの理とが凝縮されているように思います。

絵だの彫刻だの建築だのと違って、とにかく、生きものという生命を材料にして、恍惚とした美麗な創造を水の中へ生み出そうとする事はいかに素晴らしい芸術的な神技であろう。
(『金魚繚乱』岡本かの子 より )



私 倉間しおり は、今回がほとんど初の投稿となります。
今後は毎月20日前後あたりに記事を更新していく予定です。
テーマは私にとって「弱点の言葉」である「動物」です。この記事ではその一つ目として、金魚の句を取り上げてみました。

よろしくお願い致します。


posted by 飯島章友 at 20:19| Comment(0) | 倉間しおり・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする