2015年03月12日

勇気のための川柳処方箋37 乗る。

ほとんどが降りてしまった汽車に乗る  笹田かなえ

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M 『東奥文芸叢書 川柳15 笹田かなえ句集 お味はいかが?』(2015年3月)からのかなえさんの一句です。「ほとんどが降りてしまった汽車に乗る」ってとてもふしぎで、さびしくて、こわくて、でもどこかたくましいかんじもするんですけど、どうですか?

Y ふしぎですよね。わたしもよくほとんどが降りてしまった電車に乗ることがあるんですけど、それはただの回送電車に間違って乗ってるだけですからね。すぐに駅員さんにえりくびをつかまれて、外にだされてしまいます。

M はい。この句の語り手は、みんなとは行き先がちがう場所にいくことになるかもしれない、だけれども乗らなければならないってことでしょうか。みんな降りてしまうけれど、それでもわたしにはゆく場所がある。だからこの汽車に乗らなければならない。たとえ、ひとりだとしても。

Y 鉄郎と別れたばかりのメーテルのようなきもちですか?

M はい。でもこの句でちょっと注意したいのが「ほとんど」といっている点です。つまり、ほとんどが降りてしまってはいるけれど、でも残っているひともいる。それは、みんな、ではない。語り手とともに行こうとするひとがいる。語り手はけっしてひとりではありません。

Y わたしは、ひとりかもしれません。こないだも終電に乗ってるときに気が付いたらじぶんの駅を通り過ぎていて、みんなだれもいなくて……

M はい。私はこの句の勇気は、それでもわたしは汽車に乗らなければならないという句の結語にすべてが詰まっているようにおもいます。この「乗る」にはためらいがない。たとえほとんどが降りてしまっても語り手はこの汽車に乗らなくてはならない。この・汽車でなくてはならないんです。乗客の多寡が、問題なのではない。すこし孤独であっても、ゆかなければならない道がある。そしてその道をえらぶこと。それが勇気だとおもいます。

Y 終点ですか?

M いいえ、始点です。

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2015年03月11日

勇気のための川柳処方箋36 生きる。

春風が耳打ち「ヒトハイキカエル」  金原まさ子

    *

まずお詫びしなければならないのは、あえて最初から間違ってしまっているということです。
金原まさ子さんは、俳句の方であり、川柳を詠まれている方ではありません。
だからこれは「勇気のための川柳処方箋36 生きる。」です。
ですが、わたしは一時期までずっと金原さんの句集を川柳の句集として拝読していました。

どうしてそんなことが起きたのでしょうか。

それは金原さんの句のリミットの設定の仕方にあります。
たとえばうえの句のように金原さんの句は〈俳句らしさ〉があまりありません。

〈俳句らしくない〉。すごくアバウトないいかたです。ここでは〈こうじゃない〉というネガティヴな観点から金原さんの俳句性/川柳性のようなものをみてみたいとおもいます。

誰かがいっている「」で終わる俳句。これは、たぶん、〈俳句らしくない〉と思います。
また、「耳打ち」「イキ/カエル」など動詞にあふれています。句が「る」で終わる用法なんかも川柳っぽいです。聴覚的で、現時的です。これもおそらくは〈俳句らしくない〉とおもいます。
また〈これが季語なんだよ〉という指示性があまりありません。たとえばこの句でいえば「春風」よりも「ヒトハイキカエル」のインパクトが強烈です。なにか「春風」よりも「ヒトハイキカエル」の方が絶対的に入るべきであったことばのような気さえしてきます。これもおそらくは〈俳句らしくない〉とおもいます。

でも、金原さんは俳句の方です。これは間違いない。
じゃあ、なぜわたしは〈あえて〉間違うことを続けているのか。

ひとは〈間違える〉ことでもう一度境界線を問い直すことがあるからです。

この金原さんの句では「ヒトハイキカエル」と語り手が春風から耳打ちされています。耳打ちなので、ほんとうに生きるかどうか怪しい感じです。しかもそう言っているのは春風です。春風にほんとうに人間のことがわかるのかどうかわかりません。「ヒトハイキカエル」もカタカナ語です。もしかしたら春風から耳打ちされた春風語を語り手が翻訳して「ヒトハイキカエル」と書いたのかもしれません。だから、誤訳の場合もある。

わたしはこんなふうに思うのです。
この句ではあえてたくさんの〈怪しさ〉が仕掛けられているんじゃないかと。
ことばを語る春風、耳打ちというコミュニケーション、カタカナ語で語られることば、「イキカエル」という言説、それを俳句化する語り手。
この句には読み手に対してたくさんの〈怪しさ〉を運んできます。

でも、それとともに、こんなふうにも問いかけているようにも、おもいます。

あなたはなぜもっと間違わないのかと。

ことばは間違えることで別の意味を運んできます。
生も、そうです。ふとした誤りの選択が、思いがけない選択肢を運んでくることもあります。
そして間違えることによって、形式を問い直すことさえ、はじめるのです。表現の形式においても、生の様式においても。

その意味での、「イキカエル」なのではないかとおもうのです。
「イキカエル(生き返る)」はひとつは死者に向けられています。これは生者からの死者へのことばです。ひとはいきかえりはしないけれど、それでもわたしたちはそれが間違いだとわかっていても、呼びかけ、ことばにすることがある。
そのときもうひとつの「イキカエル」があらわれてきます。「生き変える」です。
わたしたちがどれだけ間違った選択や呼びかけをしても、それでもわたしたちは「生き変える」ことができる。これはむしろ死者から生者へのことばだとおもいます(正確にいうと、生者から呼びかけた死者を通してもういちど生者にカエってきたことばです)。

「生き変えられる」のは、「生き変えられない」ものをわたしたちがすでに知っていて、でもそれらも含めながら、それでも生きていこうとするからじゃないかと思います。多くの行為や意味は、差異からなりたっています。「生き変えられない」ことをたくさん教えてくれるひとびとがいる/いたからこそ、「生き変える」という行為でもって応答することができます。
そしてそのとき、じっさい、「生き返る」でさえ、機能しているようにさえおもいます。生者だけでなく、死者もなんどもわたしたちに呼びかけてくる。

だからこの金原さんの句の「ヒト」は、生者も死者もふくむとおもうのです。
そしてそれらの往還関係を春風だけが知っている。でも、ふつうにコミュニケーションしたのでは、すっと流されてしまうかもしれないから、あえて「耳打ち」をした。たちどまってくれるように、また、間違ってくれるように。

正しい春ではなく、なんども悩み、ためらい、それでもむかえる間違った春のなかで、なんどもわたしたちは「イキカエル」ようにおもうのです。


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2015年03月09日

勇気のための川柳処方箋35 つながる。

回線はつながりました 夜空です  なかはられいこ

   *
 
直前の記事で飯島さんが助詞「は」について言及されていたので、わたしもすこし助詞から川柳をかんがえてみたい。

助詞の「は」と「が」の違いについては、実は誰もが幼少の頃に誰もが知っている物語で端的かつ体感的に学んでいたりする。

むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさん《が》住んでいました。
おじいさん《は》山へ芝刈りにおばあさん《は》川へ洗濯に行きました。

桃太郎である。
この桃太郎の始まりに端的にあらわれているように、「が」は、初めての話題を提示するときに使い(おじいさん・おばあさんの登場)、「は」は既出の話題を再提示するときに使う(おじいさん・おばあさんの説明)。

だから、なかはらさんの「回線は」の「は」が、「回線が」の「が」じゃなかったことに注意しよう。

それはみんなが知っていた「回線」なのだ。
ずっと「夜空」につながることを期待していた「回線」なのだ。

だからなかはらさんの句では助詞「は」が使われたことによって、この句のまえにある巨大な回線をめぐる物語が提示されたことになる。
みんなは、回線をめぐって、なんとか夜空にアクセスできるよう、四苦八苦していた。アポロを月に飛ばしたみたいに。
そして、ようやく、つながったのだ。

だから、この句の、ロケットは、助詞の「は」にある。
たった一音の助詞だけが、かれらの広大な夜空のごとき努力を知っているのだ。


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取りはずす目玉はあって小劇場    一戸涼子

2011年の「バックストローク」33号より。

以前、角川の「短歌」2011年7月号に「助詞力を磨く!」という特集があったのだが、上掲句には助詞力がある。
「目玉は」の「は」に、わたしの川柳アンテナがピーン!と反応したのだ。
辞書によれば、助詞の「は」には、〈他と区別して取り出していう意を表す〉という用法がある。
たとえば「僕が帰るから、君〈は〉いなさい」「辛く〈は〉あるが頑張る」みたいな感じ。

かりに、「取りはずす目玉があって小劇場」としたらどうだろう。
ああ小劇場のアングラ演劇ならあるかも知れませんねえ、と妙に納得してしまい、〈あるある川柳〉の域でおわってしまう可能性がある。

だが、「取りはずす目玉はあって小劇場」としたばあいはどうか。
取りはずす髭や耳や指はないけれど「目玉ならあるよ」、という趣やニュアンスが出てくるのではないだろうか。
いろいろな物の中から「目玉はある」と表現したことで、目玉に妙な現実感や生々しささえ出た気もする。

まあ助詞の「は」と「が」のニュアンスは人のセンスによる部分が大きいので一概にはいえないけれど、「取りはずす目玉があって小劇場」では言葉の流れがよすぎて、少なくともわたしの川柳アンテナには引っかからなかったと思う。

もし不思議で怖い川柳ばかりを集めた本が出版されるなら、ぜひ収録してほしい作品である。
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2015年03月08日

勇気のための川柳処方箋34 漕ぐ。

自転車をこいで命に会いにいく  千春

   *

『旬』198号(2015/3)からの一句です。
夏目漱石が「自転車日記」というイギリスで自転車に乗る練習をしているエッセイを書いているんです。


自転車に御乗んなさい
ああ悲いかなこの自転車事件たるや、余はついに婆さんの命に従って自転車に乗るべく否自転車より落るべく「ラヴェンダー・ヒル」へと参らざるべからざる不運に際会せり
  夏目漱石「自転車日記」


いやがってますよねえ。自転車に乗るの。
しかも自分から乗ろうとしたわけじゃなくて、婆さんからいわれて、千春さんの句では「命に会いにいく」んだけれども、漱石はひとの「命」令で自転車に乗ることになった。
でもたぶん自分自転車から落ちるよね、とも思っている。

そうかんがえると、自転車にふつうに乗れるということが、近代的な身体であることの条件ともつながっていくようにおもいます。
自転車は落ちないように機械的にこぐことが大事です。
それは近代的な軍隊で要請される、自律的な身体をもった人間が推奨されるのです。

機械的な、メカニカルな身体。

千春さんの句で、なぜ、「自転車をこいで命に会いにいく」のそれが答えになるかもしれません。

わたしたちは生きようとするときに、ふだんの生活の機械的な所作にあえて乗りながら、軌道修正をすることがある。それは仕事でも、読書でも、皿洗いでも、自転車でも、なんでもいい。
メカニカルな生活のなかで、もういちど、じぶんの自律したシステムを再起動すること。
それが千春さんの「自転車をこいで」の大事な意味なんじゃないかとおもう。


忘月忘日 数日来の手痛き経験と精緻なる思索とによって余は下の結論に到着した

自転車の鞍とペダルとは何も世間体を繕うために漫然と附着しているものではない、鞍は尻をかけるための鞍にしてペダルは足を載せかつ踏みつけると回転するためのペダルなり
  夏目漱石「自転車日記」


漱石は自転車からなんども落ち続けます。
でも、なんども落ち続けたということは、漱石もまた自転車をこぎつづけてはいたんだ、ということです。
『それから』の代助や、『こころ』の先生や、『行人』の一郎、漱石の主人公たちみんなが、ビューティフルサンデーなんかを口ずさみながらサイクリングをしていたら、笑って生き抜けられたかも、と思い浮かべながら、ときどき自転車でわたしも坂を駆け抜けます。


posted by 柳本々々 at 14:08| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする