2015年03月01日

部屋で逢いましょう  柳本々々



こないだ部屋のなかで遭難したんだよね、と言われて、ああそういうことあるよね、ってあたしは言う。あたしも昔あるひとと森にいってかえってこられなくなったことがあるよ、と。それはとても小さなせまい森だったけれど、でもそのときはもうかえってこられなかったんだよ。あなたは、どうやって帰ってきたの。

うん。実はね、ぼくの部屋にぼく以外にも遭難していたひとがいたんだよ。そのひとにであったんだ。びっくりしたよ。だってそのひと、ぼくがふつうに生活してたときでもぼくの部屋にいたんだろ、遭難してそこにいたんだぜ。ぼく、びっくりしちゃってさ、なんだか他人のような気がしなかったよ。手をとりあってさ、抱き合って、しばらくこれまでの人生の話をしたよ。人生でやりそこねたこととか、今でもふっと思い出すひとのこととかね。あとは小さかったころに押し入れに入ったときのあの闇の感触とかさ、そんな話までしちゃった。なんていうのかな、なかよくなっちゃったんだ。

うん、そうだよね。いっしょにいるとね、なかよくなっちゃうんだよね。そのひとのことがよくわからなくても。それでなかよくなっちゃうのに、ある日とつぜんへたくそな別れ方とかしちゃうんだよね。

まあ、どうなのかな。ぼくはそんなそこまでのひととまだ出会えてないかもしれないからよくわからないけどね。でさ、ぼくはぼくの部屋で遭難したわけだけど、もういちどぼくの部屋にかえりましょうよ、ってそのひとにいったの。でもじぶんはここでいいっていうわけよ。この場所はこの場所で好きだし、遭難がね、いまやなんだかじぶんにとっては帰還におもえたんだって。じぶんは遭難したんじゃなくてね、帰ってきたんだなって、そんなふうにおもったんだって。

それで、どうしたの?

うん、じゃあ、手紙書きます、っていったよ。シールとかたくさん貼りますよ、って。たのしいシールとかね。それで、手をふって、別れたよ。そのひとは、すごくきれいな発音で、さようなら、っていったよ。なんだかそのさようならをいまでも寝る前にふっと思い出すよ。なんでもなくさ。さようなら、って。ああこれはあのときのさようならだな、って。

さようなら、っていろんなレベルがあるもんね、とあたしはいう。

それから月のひかりを浴びながら、ふたりでサイクリングをする。彼を後ろにのせながら、あたしが漕ぎつづける。

そう、さようならっていろんなレベルがあるよね。そのひともそんなふうにいってたよ。いろんな遭難のレベルがあるけれど、じぶんはこれはましなほうだって。村上春樹風の比喩でいえば、これはクリームのレベルの違いなんだ、みたいにいってた。生クリームとバタークリームのちがいみたいなものなんだよ、って。

そう。

うん、村上春樹を読まないからよくはわからなかったけれど、そのひとは自分の人生を村上春樹風にいうならば、生クリームケーキとバタークリームケーキに遭難する人生なんだって、いってた。よくわからないけれど、そのひとは場所じゃなくて、そうした意味のエアポケットみたいなところで遭難してたのかなってちょっとおもったな。そのひとはでも、君に逢えてよかった、ともいってた。いまはどうおもってるかわからないけど。でもそのとき、そのひとは遭難をすこしだけ受け止められたのかもしれないよね。そもそもクリームってなんにしてもいいものじゃない。悪いクリームなんてないような気もするし。たとえクリームのなかで遭難してたとしても、それはクリームだったからよいことなんだってぼくはおもうんだけど。

そうなんだ、とあたしはいう。どんな場所にだって抜け道はあるからね。非常口だってさ、といって、あたしは自転車をおもいきり、漕ぐ。その非常口からどこかへとでていくことは可能なんだろうね! そういって、もっと、強く、漕ぐ。

どさんと後ろでおおきな音が、する。

落ちたの、とあたしがいうと、落ちた、と声がする。

あたりは刺さるような月の光でいっぱいで、ときどき、じょうずな声で、さようなら、ときこえたりも、する。

  *

【文中で引用させていただいた句】

生クリームケーキとバタークリームケーキに遭難する  くんじろう


posted by 柳本々々 at 20:27| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ブラウスと二の腕干してある深夜   榊陽子

ブラウスと二の腕干してある深夜   榊陽子

陽子さんと先日顔をあわせた折り、「陽子さんの二の腕の句、なんやったっけ」とお聞きしたら、あとからメールで教えてくださった。「なんやったっけ」というお尋ねの仕方もずいぶんなものだが、干された二の腕のイメージが鮮烈で、あとの言葉が抜け落ちてしまい、きになっていたのだった。
そうか、ブラウスだったか。

このブラウスはもちろん、魅力的な二の腕をきわだたせるものだから、短い袖丈のものだ。生地はやわらかで夜気に震えていることだろう。そしてかたわらには二の腕。ブラウスはハンガーに、二の腕は注意深く皺をのばされ、ぱんぱんっ、とたたかれなんぞして、ピンチハンガーに干されているのだろうか。
身体の部位に言及した作品が好きである。
手も足も目もふだんはあたりまえに自分のものだと思って暮らしているけれど、ふっと手指が遠いと感じたり、誰かがわたしのかわりに見ていたのだという感覚をおぼえることがある。
二の腕を干すという。からだの部位が代替可能とする感覚がおもしろい。
意思をさずかってしまった球体関節人形の、ひそやかな日常なのだろうか。血の通っていないふうであるのがおもしろく。
なんだか岸本佐知子さん訳の『変愛小説集』の収められた一篇に出てきそうな眺めである。
http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%89%E6%84%9B%E5%B0%8F%E8%AA%AC%E9%9B%86-%E5%B2%B8%E6%9C%AC-%E4%BD%90%E7%9F%A5%E5%AD%90/dp/4062145448
代替可能な部位が「二の腕」であること、「ブラウス」であることは、女性らしさ(やわらかさ、やさしさ)という概念へのからかいもふくんでいるのだろうか。
干すひとは女性らしさを装着して帰宅、脱ぎ捨てて夜干したあとは、アリスの筋肉質で眠るのかもしれない。
ちなみに二の腕の語源は、上腕二頭筋に由来するそうである。

「その句のあと、陽子さん、また干してたよね」
「そうそう、白鳥干したわぁ」
は先日の会話。
陽子さんには次の句もある。

白鳥をたった一人で干している  榊陽子

「たったひとりで」というところに白鳥の重量感がある。二の腕とは違う怖さがあり、美しさがある。
怖いこと、毒あることが美しい。
陽子さんは怖いこと、悪いこと、毒あることこそ言いたいひとだと平素感じている。とはいえ、そこをつき極めるほうへは向かわず、軽く「深夜」と結び、「干している」と過度な表現を避けてかわしているところが、陽子さんらしさだと思う。
posted by 飯島章友 at 13:43| Comment(1) | 江口ちかる・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋26 逢える。

目の前に水晶玉がある逢える  時実新子

   *

時実新子さんの句集は、それは市場とかちあうためにしょうがなかったのかもしれないけれど、あえて〈スキャンダラス〉に読み解かれるようにつくられているところがあったともおもうんですね。
それは時実新子さんの〈ことば〉の機構をこえて、どこかで時実新子さん自身とことばを〈答え合わせ〉してしまうような力学が働いてしまうことになった。
たとえば『有夫恋』というタイトルがそうです。

でも、八上桐子さんや妹尾凛さん、石川街子さんが編んだ時実さんのアンソロジー『So』を読んで、いやそればかりじゃなくて、時実さんはむしろ〈ことばの機構〉をじぶんなりに組み立てていたひとだったんじゃないかと思い直したんです。

それは時実さんを〈私小説〉的に読み解くのではなくて、〈ことば〉の構築者として読んでみるということです。

もちろん〈答え合わせ〉はしてもいいんです。
これはほんとうにあったことですか、どうなんですか、と。
でもその〈答え合わせ〉は必ずしも絶対的なものではなく、いつもそれは偶然的なものでしかないということです。
だから、もう一方で、どうしてこの句はこうしたことばの組み立て方になっているんだろうと考えてみることがけっこう大事なことではないかと思うんです。

ひとにも意識や無意識があるように、句にも意識や無意識があるのではないかとおもうんです。句がもっている無意識です。
その句の無意識は、作者にもわからない。
わからないけれど、ことばの組み立て方としてそこにあらわれてくる。だから読み手も無意識で反応し、共鳴してしまう。
そういうものではないかとおもうんです。

たとえば上の時実さんの句を、言葉の組み立て方としてみてみるとどうなるか。

目の前に水晶玉がある逢える

すぐに気が付くのは、句で連続される「る」止めです。
この句は、「る」で終わる〈現在〉のたたみかけるような時間のなかにあるということです。繰り返されているということは、たいへん重要なポイントです。句があらわしてしまった句の無意識です。

「る」止めというのは、〈いま〉の時間だけをあらわすのではなくて、語り手が信じている過去・現在・未来の伸縮する時間をもあらわしています。

たとえば、「わたしは朝食を食べる」というセンテンスには〈いま〉食べていると同時に〈習性〉として、きのうも食べるし、きょうも食べるし、あしたも食べるという伸縮する時間があります。

これを仮に「あった逢えた」にしてしまうと時間は点のように、その時限りの決め打ちになってしまいます。これでは一回限りの点のなかでしか逢えない。
過去や現在はわからない。逢えない。

でも「る」止めには一瞬にして過去・現在・未来にひろなる時間の幅がある。
「る」止めをたたみかけたことで、語り手は、過去・現在・未来のなかで「逢える」ことになる。

言葉に注意してみてみると時実さんの句はこうした時間に注意を払っている句だということがわかってできます。

伸縮する時間のなかで逢いたいひとに逢っている句だと。

とすると、「水晶玉」がマジカルなのではないです。
時実新子にとってマジカルだったのはなによりも、ことばの組み立て方であり、川柳そのものだったのです。

ことばの組み立て方によって、その句の無意識をとおして、逢いたいひとに、逢う。

それが、ことばの魔法です。

「目の前に水晶玉」を置いても逢いたいひとには逢えません。「目」も「水晶玉」も魔法じゃない。
でも、ことばは、川柳は、ちょっとした、しかし抜き差しならない魔法です。

ひとは〈わたし〉や〈時間〉をことばの組み立て方によってつくりあげる。もちろん、〈勇気〉もです。

こんなことをいうのは少し勇気が要りますが、やっぱり時実さんをとおしてこんなふうにも、おもいます。

川柳は、魔法だと。


posted by 柳本々々 at 01:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋25 どいて。

わたしのことはわたしが祈る どいて  矢島玖美子

   *

『句集 矢島家』からの一句です。
〈他者〉をあらわすことばってたくさんあるとおもうんです。
いろいろあるし、そしてそのあらわし《かた》も、いろんなやりかたがあるとおもう。

この句が凄いのは、「どいて」というみっつの音で他者をあらわしている点にあるとおもうんですよ。

「わたしのことはわたしが祈る」には、むしろ〈わたし〉しかいないんです。
わたしからわたしへ向かうわたしのお城のようなフレーズです。
このフレーズには〈わたし〉しかいない。
〈わたし〉だけの世界です。

ところが結語に、「どいて」と入る。
これも、わたしの世界の延長です。わたしの世界の暴力的発現とさえいっていいかもしれない。
でも、ここで「どいて」が力に感じられたのが重要です。
「どいて」とは、「どかす」行為です。
「どかす」からには、対象と向き合い・向かい合う必要があります。
そうでなくては、暴力もふるえません。
「どいて」はどかそうとする点で、わたしの世界のハイパー化です。
しかし、どかした点で、わたしの世界が他者の世界へと触れていく接点にもなるまったく逆の意味もふくんでいるんです。

ここで「どいて」と、《だれ》にいっているのか。

もちろん、目の前で勝手にわたしのことを祈ろうとしている人間です。
おまえが勝手にいのるな、と語り手はおもう。

でも、わたしのことを勝手にわたしだけで祈ろうとしたのも語り手のわたし自身です。
どこかで語り手はそれを知っている。

だから、わたしは最後にわたし自身にさえ「どいて」といったのだとおもいます。

最後にわたしがわたしを「どける」可能性さえ、ここにおいたのだとおもいます。

そしてそれはいま祈ろうとするわたしの前で饒舌に語っている読み手の〈このわたし〉へのことばでもある。

語り手は、わたし(柳本)にもいっています。
この句をべらべら語るな。もちあげるな。ここには勇気なんてない。おまえは、去れ。どいて。

みんなの勇気のない場所にこそ、このわたしの勇気があることを描いていたのが、岡崎京子マンガでした。
矢島さんの句の温度は、すこし岡崎マンガにも似ています。
わたしのことはわたしが祈る。わたしが排除するのもこのわたし自身だ。だから、どけ、と。
でもそういうかたちでの、他者との向き合い方もある。
どけ、ということは、たえまない他者への意識です。
だから、岡崎マンガの主人公たちはどこかで自滅していく。
わたしがわたしさえもどかそうとする。    
でもそれでも、わたしはサヴァイヴしていくためにはっきりとみんなにいうひつようが、ある。

どいて


posted by 柳本々々 at 00:01| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする