2015年03月03日

勇気のための川柳処方箋30 かえってきたよ…。(春の怪談・後篇)

目覚ましがふいに鳴り出す午前二時  熊谷冬鼓

  *

直前の広瀬ちえみさんの句の記事で書いた川柳は〈だろう〉の世界に近いんじゃないかということにも通じてると思うんですが、〈だろう〉の世界だということは、じぶんの主体がそれほどはっきりとはしてないということでもあるとおもうんです。

わたしが、わたしが、の世界では、ない。

むしろ、世界のほうから、〈むこう〉から、主体がやってくる。
それが、川柳の世界なんじゃないかと。

うえの冬鼓さんの句では、目覚ましが「午前二時」にふいに鳴り出します。
そもそも目覚まし時計というのは、つねに〈むこう側〉からやってくるなにかです。
わたしたちは目覚ましをセットするわけですが、目覚ましをセットするのは、目覚ましに起こしてもらうからです。
つまりそこでわたしたちは主体を放棄して、ねむるわけです。

だから、目覚ましが鳴り出せば、主体は〈あちら側〉からやってくる。

ただそれに加えてこの句ではさらにおもしろいことが起こっています。

目覚まし時計は起きるためにセットする。その時点で主体を放棄する、とさっき述べましたが、この句の語り手は目覚ましをかけたことさえ覚えてない、あるいは知らないわけです。
「ふいに」というたった3音にそのすべてがあらわれています。

いうなれば、この句では、わたしがわたしであったことさえも忘れたわたしに、目覚まし時計と、それをセットしたかつてのわたしが同時にやってくるわけです。

世界でいちばんこわいのは、霊や妖怪やモンスターなどのよそものではありません。
かつてわたしだったはずのわたしが、ふいにわたしとしてよみがえってくるしゅんかんです。

しかも、午前二時です。だれかに電話をしてもたよることのできない時間です。目覚ましをとめなければなりません。でも目覚ましをとめたからといって、やってきたわたし自身をとめられるのでしょうか。

それは、わからない。この句の語り手にも、わたしにも、それは、わかりません。

しかし、それでも、勇気を出さなければ。

いまのわたしはやがて未来のわたしの午前二時にかえっていくはずなのだから。


posted by 柳本々々 at 20:49| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋29 かえれない…。(春の怪談・前篇)

このバスでいいのだろうか雪になる  広瀬ちえみ

   *

川柳の世界っていうのは、ある意味において、究極の〈だろう〉を描く世界なのではないかとおもっているんです。

だから俳句にくらべて口語体が、多い。

これは、身近な助詞や助動詞で、〈だろう〉の世界を構築しているからではないかとおもうんです。

文語体っていうのは世界に対するひとつの態度です。わたしは世界をこうあらわすという確信がある。
だから、文語体はふだんのわたしたちのことばに容易に接続させることはできません。接続させての散文化が、むずかしいわけです。
けれども、川柳の口語は日常のふだんのわたしたちのことばと地続きです。たとえば、

「このバスでいいのだろうか雪になる」

と広瀬さんの句にかぎかっこをつけても違和感がそんなにない。
これは、この句=センテンスがあちこちに接続し、アクセスできる接続過剰を最初からもっているということです。
そしてそんなにもあちこちにアクセスできてしまうということは、これだけではなかなか意味を確定しがたい、〈だろう〉の世界なんだということではないかとおもうんですね。

だから、この句では「このバスでいいのだろうか」と語られていますが、川柳の器自体がそうした「このバスでいいのだろうか」性をもっている。
「この」と自らをこれしかないかたちで指し示しつつも、「いいのだろうか」とあちこちに接続してしまう〈だろう〉性を示してしまう。

でもこの句が「雪になる」で終わるように、そうした〈だろう〉の世界を描く川柳においては、境界線をふみこえることによって意味作用が起こることが大事です。
だから、〈だろう〉の世界、だけではない。

「雪になる」。これは雪が降る前と雪が降った後の境界線を引くことばです。語り手が「このバスでいいのだろうか」とどんなに迷っていたとしても、雪が降っていくことで、時間がたっていく。状況は後戻りできないかたちで、決められていく。
もうかえれないんだ、というかたちで、意味はいつも決まっていく。
でも、その〈だろう〉の世界が後戻りのできないかたちへと入ってゆくところにこそ、意味性がある。

〈だろう〉を描く川柳だとしても、その句をいちど読んでしまったら、もう読む前には戻れない。
これはかんがえてみると、こわいことです。
一度意味を組み立ててしまったら、それは不可逆だということです。
川柳を読んでしまうということは、「雪になる」というような後戻りできない、意味の雪原にむかうことです。
知らなかった、読まなかった前には戻れない。
もどれないけれど、それでもまだ語り手が行き先のわからないバスに乗っているように、〈だろう〉の世界はつづいていく。

わからないままに・それでも・決まっていく世界。
かえることのできない世界。
それが川柳の意味のダイナミズムなのではないかとおもうことがあるのです。

だからこんかいの勇気のはなしはこうです。
勇気については正直わかりません。
でも、こんなふうにここまで書いた以上、わたしもなにかしらのバスには乗ったはずで、どこに向かってるかはわからないままに、勇気とはなにかが勝手に決まっていったはずです。

もう、かえれない。

しかし、それでも、勇気が出ないのであれば。

             (後篇に続く)

posted by 柳本々々 at 20:44| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする