2015年03月05日

勇気のための川柳処方箋31 はたらく。

時々は仕事もしてる五七五  間瀬田紋章

  *


アーストロフ  ……そこで私は坐りこんで、こう目をつぶって──こんなことを考えたよ。百年、二百年あとから、この世に生れてくる人たちは、今こうして、せっせと開拓者の仕事をしているわれわれのことを、ありがたいと思ってくれるだろうか、とね。ねえ、ばあやさん。そんなこと、思っちゃくれまいねえ。

マリーナ たとえ人間は忘れても、神さまは覚えていてくださいますよ。

アーストロフ ああそうか、ありがとうよ。いいことを言ってくれたね。

      チェーホフ『ワーニャ伯父さん』


紋章さんの句なんですが、この句の下五に「五七五」があらわれているのがおもしろいですよね。
「仕事」と「五七五」=川柳=表現活動が対立しているようにもみえるし、でもその一方で、「五七五」自体を「仕事」と解釈することも可能な構造の句です。

この句のひとつのおもしろさにそうした仕事と葛藤しつつ、同一化もしているのが「五七五」とあらわされているという点があります。

「五七五」というのは、定型ですよね。

定型と仕事は、案外、似ているところがあるんじゃないかと思ったりするときがあります。

仕事というのはたとえどんなトラブルがあったとしてもこなしていくのが仕事です。
社会のなかで他者と関わりながら、他者からの依頼を引き受け、しかしまた別の他者からの依頼も引き受け、しかしさらにその一方で組織の利益を考えながら遂行するのが仕事ですから、仕事とは〈自己表現〉や〈個性〉だけでは遂行しえない。
むしろ、いろんな人間の意志や意思をききつつ、どこで妥協できるかそれを考え決定し線を引くこと。
それが、仕事です。
たとえばいついつまでにこれをつくってほしいといわれて、でも自分のプライドが許さないから完成品を仕上げるまでにもう少し時間をください、という〈芸術的価値観〉は許されない。どこで妥協できるか。それが大事になってくる。

定型というのも、そうです。
自分ではこうしたいとおもう。こうできれば最上のかたちになる。
でも、定型はそれを許さない。許さないし、かといって定型がプランや代理案を用意してくれるわけではない。
そこは自分で必死に考えないといけない。
けれど、仕事と同じように枠組みはあります。納品の締め切りと同じようにデッドラインがある。
そこにあわせてなら、〈個〉はすこしだけ動くことが、できる。そこのあいだで、個性をだせる。

定型と仕事は、ふしぎと似通っているところがある。

もちろん、五七五=川柳は、表現活動なので、どこかで実際のじぶんの〈仕事〉と対立することも、あります。選ばなければならないときがある。じぶんは表現をしたいのか、仕事をしたいのか。かつて宮崎駿もいっていました。「俺は会社にくいつぶされるわけにはいかないんだ」と。〈生きる〉ことも〈仕事〉なので。
けれども、対立しつつも、定型=表現行為と仕事は似通っているところもある。紋章さんの句が、どちらの解釈もとれるような構造を示しているように。
ガンダムをつくった富野由悠季がこんなことをいっていました。「個性は捨てたほうがよい。個性を捨ててもそれでもかたちとして決定していったものにふしぎと個性がうまれてくる」と。

こうした仕事と生と表現の葛藤を組み込んでいた作家にチェーホフがいます。
チェーホフの人間たちは、どこかで仕事にひきずられ、瀕死の状態で働きながらも、どこかでそこから逆照射できるひかりも、信じている。
定型にひきずられながらも、それでも、みえてくるひかりがある。


ねえ、そうでしょう、まっくらな夜、森の中を歩いてゆく人が、遥か彼方に一点のともしびの瞬くのを見たら、どうでしょう。もう疲れも、暗さも、顔を引っかく小枝のとげも、すっかり忘れてしまうでしょう。
     チェーホフ『ワーニャ伯父さん』




posted by 柳本々々 at 06:11| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする