2015年03月07日

勇気のための川柳処方箋33 渡る。

信号が渡りきれたら逢いましょう  池上とき子

   *

『川柳の仲間 旬』198号(2015年3月号)からの一句です。

正確にいうとこの号で、千春さんが前号からの「私の一句推薦」としてあげていた句なのですが、千春さんが句評として「渡れなかったら逢えない」と書かれているように、ここでは「渡れない」可能性も多分に含んでいます。

「信号が渡りきれたら逢いましょう」を《あえて》言語化するということは、ふつうのひとがふつうに渡っている信号が、それだけその語り手にとっては、試練としての〈門〉のような重度のものになっているということです。

大事なことは、それが、「信号」であった点です。

思い出してみてください。わたしたちは信号を赤になれば止まり、青になれば進みます。なぜなら、信号とは文字通り〈信号〉だからです。それは、止まれ・進めのゼロワンなのです。わたしたちは信号を感受し、進むか止まるかするだけです。
いま進みたい気分だからすすもうかなあ! いまはなんだか止まりたくない心持ちだからここらへんで止まっちゃおうかなあ! それは、信号ではありません。

〈気分〉です。

そうなのです。この句では、信号が信号化できずに、気分化しているのです。

それくらいのことが語り手の身に起きたということです。
記号としての信号の意味が変わるくらい〈逢う〉ということに重圧がかかるなにかが。

その意味で、「渡りきれたら」というのは、それはオズの国に飛ばされたドロシーがカンザスに帰るよりも、遠いのです。

ちなみに本号で川合大祐さんが「一月日記(ひとつきにっき)」という文章を書かれているのですが、その文章のなかにも「渡りきれたら」と思うくらいの強い、遙かな距離を、印象的にあらわした一節がありますので、引用して、終わりにしたいとおもいます。

でも、わたしは、おもうな。いつかきっとこの語り手は、勇気なんかなくても、信号を渡りきる日がくるんじゃないかな、ということを。



知ってる? 明治か大正に、超能力者が月の裏側を念写したんだって。わからない、わからないけど、その超能力者はきっと、寂しかったんだと思う。だってそうじゃないか。月にはさわれない。見ることしかできない。まして月の裏側なんて見ることさえできない。寂しかったんだと思う。どうしてそう思うかはわからない。わからない。わからないんだ。
   川合大祐「一月日記」


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posted by 柳本々々 at 05:15| Comment(2) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする