2015年03月20日

勇気のための川柳処方箋43 既知との遭遇(或いは蟹との遭遇)

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蟹が来たなら身を詰めて帰らせよ  筒井祥文

   *

M (……きこえますか…きこえますか……今… あなたの…川柳の心に…直接… 呼びかけています…)

Y (……な、なんだ……!?……)

M (…『ふらすこてん』38号(2015年3月)から筒井祥文さんの一句です…)

Y (……わ、わたしの心に、直接話しかけられている!?)

M (…この句についてはどうおもいますか?…)

Y (…そ、それに心で話す以外は、いつもとぜんぜん変わらないぞ…!?……そ、そうですね、「身を詰めて帰らせよ」っていうのは蟹の身を詰めて帰らせるってことですよね?)

M (ええ、そうですね)

Y (だけど「蟹が来たなら」とこの句は語ってる。つまり、まず能動主体としての蟹がいる。蟹がなにかこうこちら側にまず歩いてくる句ですよね。それは結語の「帰らせよ」にもでている。蟹はじぶんで帰れる存在でもあるんだ)

M (ええ、そうおもいます)

Y (だけど「身を詰めて」はこちら側から蟹に働きかける行為ですよね。しかも「身を詰めて」ですから、蟹をすかすかの主体、あるいは無機的な主体としてとらえてるわけです。かなり一方的に。それこそ、やってきた蟹に、なにか〈人間観〉を一方的に押しつけて、詰め込むような)

M (ふむ)

Y (だからこの句のおもしろさって、蟹観と人間観の対立にあるんじゃないかなっておもったんです。蟹は蟹で独自の蟹観を形成していて、でもそこに人間観が対立し、拮抗しあっている。そしてそのどちらにも勝負はつかないじょうたいをこの句は提示しているんじゃないかって)

M (なるほどね。そういう拮抗の状態をとらえた句ですね。まるで『未知との遭遇』のような異星人とであったにんげんの状態のような句ですね)

Y (はい。でも蟹だから〈既知〉なわけです)

M (……わかりました…わかりました…… 今… あなたの…川柳の心を…直接…理解しています…)

Y (はい)

M (あの自転車に乗ってお空をサイクリングする映画みたいに、ひとさしゆびとひとさしゆびとかを合わせなくてもだいじょぶそうですか?)

Y (はい。『未知との遭遇』の公務員のようなトリュフォーもここにはいないです)

M (……きこえますか…きこえますか…… 今… あなたの…川柳の心に…直接… 呼びかけています………この記事を終わります……)

Y (…………)

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勇気のための川柳処方箋42 俺、この定型から外れたら結婚するんだ

仏蘭西の熟成しきった地図である  飯島章友

   *

M 『川柳カード6号』から飯島さんの一句です。

Y わたしがはじめて川柳を投句したのが『かばん』で飯島さんが連載されていた「かばんも五七五」のコーナーで、それで飯島さんにはずっと毎月選評をしていただいて、今でもとても感謝しているんですよね。

M あのときはよくへこたれてドトールで川柳つくっていても定型詩にならずに不定型の呻きとともにつっぷして、知らない外国人から声をかけられていましたよね?

Y ええ、ヘイユー霞ヶ関はどこだい? といわれて、ここだ、ここといっても、どうしても理解してもらえず弱りました。「ほかならぬここなんだよ」というのがどうしても英語でいえなくて。いまだに、わかりません。ほかならぬここ。だからいまは外国人のひとを霞ヶ関でみかけると、ほかならぬわたしがほかならぬ柱の蔭に隠れるくせがついてしまって。あのときは大変でした。その霞ヶ関がどこかきいてきた外国人にいくら「ヒア!」といってもですね、「ヒア? ここはドトールだろ? おまえはクレイジーなのかい」なんていわれてですね。また呻いて、非定型で。

M そういえば、この飯島さんの句も定型らしからぬ動きをみせていますよね。

Y あ、そうですね。「熟成しきった」って中8ですよね。7音じゃない。

M ええとつまり、ほんとうに音として〈熟成〉しているわけですよね。8音で。7プラス1の熟成として。だから、意味表現としての定型(8音)が、意味内容としての意味性(熟成)を支えているわけですよね。だとすると、定型の定型性ってもしかしてカタチを遵守するということじゃなくて、句の意味性にいかに定型が呼応できるかということじゃないのでしょうか。

Y えっと、定型は定型を守ることにあるのではなくて、むしろ、句の意味内容にどれだけ共振できるかが定型ってことですか? すごく大胆ですよねそれって。怒られるかもしれないですよね。

M でも定型も句の内容に臨機応変に対応しながら息づいているようにおもうんですよね。俳句に、無季定型ってありますが、わたしには川柳には、有機定型と無機定型があるような気がするんですよね。で、有機的にごそごそと動く定型がある。いきものみたいに。そうゆう定型もありなのではないかとおもうのです。

Y 8音には、8音の意味があるってことですか? でもなあ、ひとは呻くとたしかに定型にならないんだよな。そういう非定型をあらわしたいならば、呻きをあらわしたいのであれば、表象不可能性をあらわしたのであれば、定型の非定型性というのもありなのかもしれないなあ。川柳で、〈呻き〉のような言語化できないものを《どう》言語化するのかって問題があるような気がする。

M そうなんですよね。もちろんかんたんにはひとは呻くことはできない。ふだんきちんとしたことばづかいを行ってるから呻くことができるわけですよね。この飯島さんの句も実はそんなところとも響きあっていて、「地図」って無機的かつ客観的に整理整頓された記号空間なんだけれども、フランスが/フランスで「熟成しき」ることによって有機的かつ主観的な記号空間になっている。考えてみれば、地図は客観的でありながら、実は恣意性のかたまりだったりもするわけです。どこが中心なのか、どこを上に置くのか、どういう縮図にするのか、実は政治的な力学が働いているんだけれども、でもそれをあたかも客観として内面化していくのが地図ですよね。その掩蔽された恣意性を飯島さんの句は暴いているようにもおもうんですよね。その意味でやっぱりすんなりいってはいけないんです。8音じゃないとな。

Y とな、って……。

M でも、そうおもうんだ。8音じゃないとな。な?

Y ええ……。そうおもいます。……。

M (実はあのときの霞ヶ関の外国人はわたしだったのだ。わたしが変装して、おまえの勇気を試していたのだよ。)

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