2015年03月26日

作品欄の開設

4月より川柳作品欄を開設します。
主にゲストの方々の新作を掲載していく予定です。
月1回の更新、どうぞよろしくお願いします!
posted by 飯島章友 at 21:51| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋46 転べ穴を掘れ失敗しろ最悪を選べ見ちがえ言いちがえにもかかわらず通れすごくなれ


音たてて転べ誰かが見てくれる  定金冬二

   *

M 倉本朝世編『定金冬二句集 一老人』から定金さんの一句です。

Y 倉本さんが編集されて、巻末に「編集後記」も書かれているんですが、そこで定金さんの句を「穴の底にある本当の俗の深さ・強さ・豊かさが書けている川柳」と解説されています。これはいいかえれば、〈個の穴の底にある普遍性〉という言い方をしてみてもいいかもしれません。

M 〈転ぶ〉っていう挙措についてすこしかんがえてみると、ひとつはそれまでの自分がつちかっていた身体のコードやルールを崩すという意味合いがあります。Yさん、ちょっと転んでみてもらえますか。

Y こ、ここでですか? わかりました。……痛いっ!

M どうでしたか?

Y まず転んだことによってふだん見えないはずの風景がみえました。青空がひっくりかえったような感じになって。ふだんみえなかった床もよくみえたりして。あとはなんだろう、理性や言語ではくくれないような奇妙な倒錯感がありました。

M 実はけっこう身体が〈きちん〉としているからこそ、〈きちん〉と考えられていることが多いのではないかと思うんです。だからその〈きちん〉に穴はない。たとえば、デカルトだって、わたしは考える。だからわたしはここにいる、ということを寝ころんで足をばたばたさせたままでは思いつかなかったかもしれない。ところが定金的主体はちがう。われころぶ、ゆえにわれあり、なんですよ。ころぶところにわたしはいる。わたしがゆらいだそのときに、わたしが発現してくる。それはもう〈わたし〉というはっきりした主体じゃないかもしれない。〈一老人〉という someone かもしれません。

Y そしてそこから「誰かが見てくれる」という他者につながっていくのもおもしろいですね。

M そうなんです、転ぶということは、他者への呼びかけにもなっている。しかも〈声〉ではないんですよね。〈音〉、〈ノイズ〉です。どんな〈音〉がでるかなんて、転んでみなければわからないですから。でも、そのノイズによって、思いがけないひとが振り返る、ふりむく。だれかは、わからない。だからそれはつねにやはり someone なんです。

Y そうか、転ぶ勇気が必要なんだ。むかし、文学散歩の最中に、あははははと笑いながら歩いていたら、ダイナミックにすっころんでめちゃくちゃ恥ずかしかった記憶があります。そのとき、全員が、このひとどうしようもないな、という顔でわたしをみて、わたしは文学危機を感じました。

K でもそれでも可能性なわけです。ベケットも『いざ最悪の方へ』でこんなふうに言っていました。「もういちど失敗しろ、こんどはもう少しうまく失敗しろ」と。

Y 最悪を《あえて》えらんだときに訪れる可能性が、ひとには、あるのかもしれませんね。ときどき、かんがえるんです。ねころびながら、足をばたばたさせながら、あえて最悪を選びながら、可能性に身をゆだねていくことの、みずからの倫理的実践について。

M じゃあ最後に定金冬二さんのこんな句を。

  わたくしの通ったあとのすごい闇  定金冬二

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posted by 柳本々々 at 12:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【川柳インタビュー】川合大祐さんに聴く〜豚とブウウーーーーーンをめぐって〜(聴き手:柳本々々)


…早送り…二人は……豚になり終  川合大祐

   *

柳本々々(以下、Y) こんにちは。きょうは、川合大祐さんに上記の句についておうかがいしようと思っているのですが、もしできたらそこから川合さんの川柳観についてもおうかがいできならいいなともおもっております。

川合大祐(以下、K) あのー、すみません。こういうのはじめてで、緊張してるというか、舞い上がってるというか。で、いろいろ辻褄の合わないこととか、偉そうなこととかだらだら言うと思いますが、それは僕、川合大祐の考えなんで。柳本さんにはなんの責任もないって、ご理解いただけるとうれしいです。

Y はい。ありがとうございます(笑)。ですが、質問者としての責任はまっとうしたいと思っています。あの質問のしかたはなんだ、おまえの質問のやりかたはまちがっている、もっと身振り手振りを交えて大胆に! など質問へのご批判はやぎもとまでお寄せいただけたらおもいます。
さて、さっそく川合さんの句についてお聞きしたいと思うんですが、この「…」というのは川柳ではほとんど使われない記号だと思うんですがたとえば句のなかに使う際にためらいみたいなものはなかったですか?

K なかったです。即答ですが。というか、ためらうほど新しいことをしているという意識はなくて、短歌なんかだと、たとえば塚本邦雄が「仮死の蠅蒼蒼と酢の空壜に溜め de profundis……domine」とかいろいろ、もう半世紀くらい前にやっているわけですね。塚本だけじゃなくて、言ってしまえば「短歌」というものが最初から過激な前衛だったんじゃないかと思ってます。

Y あ、そうか。川合さんは『かばん』にも所属されておられて、短歌もつくられていますから、そういう短歌の表記感覚みたいなものがあったということですね。そういうジャンル横断の視点でかんがえると、そんなに不自然ではないかも知れませんね。

K そうですね。というか、本格的にはじめているのは川柳のほうが先なんですけれど、途中で、ごたぶんにもれず穂村弘さんにかぶれてしまって。あのぶっとんだ世界の切り取り方を川柳に移植したい、と思うようになって、それで大迷走したんですが(笑)。あと、ジャンル横断ということを言えば、萩原恭次郎とか、あのへんの人たちが好きで、そのあたりも影響してますね。

Y なるほど、発想がどれだけ宇宙的に飛躍しても、定型のなかで意味の芯がいっぽん通るというのが穂村さんの短歌のひとつの魅力ではないかと思っているんですが、この句でも意味の芯がいっぽん通っていますよね。

K で、川柳なんですが、川柳はもう、何でもありだというのが基本的な考えにあって、それは自分の育った「旬」という結社が、これがまた「過激な前衛」なところで、だから「…」というのが特別新奇なことだと思っていません。川柳の歴史をたどれば、もっと凄いことをやってる方たちが、きっと既にいたはずで、それは僕も不勉強で知らないのですが(笑)。でも自分がやってることなんて、ぜったい先人がもういるって、思ってます。

Y たしかにわたしが、よしやってみよう! と思うことは、ほとんどすでに川合さんがなされていたんだなということをさいきんあらためて思ったりしていました。だいたい思いつくことっていうのはすでになされている場合が多いからそこらへんは意識的に過去の歴史を学ぶ必要性があるかもしれませんね。

K 蛇足で、質問からは、ずれているかもしれませんが、これ、『川柳カード』の誌上大会に投句するときに、メールで送ったのですが、最初は「早送り二人は豚になり終」だったんです。パソコン見ながら、なんか足りないなあ、と思って。それで、あ、「…」つけよう、と。だから、ためらってる暇もなかった、というのが正直なところですね。なんていい加減なんだろう(笑)。

Y あ、でも、デジタル・メディアが川柳における表記の感性を変えている場合があるということですよね。〈感性の変革〉ってそういうメディアから起こる場合があるかもしれませんね。加藤治郎さんもたしかそうしたメディアによって表記のありかたが変わる短歌のありかたについて指摘されていたとおもいます。
そこで表記についてもう少し細かくおうかがいしてみようとおもうんですが、この川合さんの句では、「…」と「……」という違いがありますが、これらは使い分けのうえで意識されていたこととかってありますか?

K それはありますね。大学の卒論で『ドグラ・マグラ』をやって、例の「…………ブウウーーーーーン」ではじまるあれなんですが、終わりの「……ブウウウ……………ンン」と「…」や「−」の使い方が違う、ということを発見して。みんな自明に気付いてるのかもしれないけど(笑)。ただ、自分の中で、「…」の長さは結構重要だな、という意識はずっと持ってます。じゃあこの句の中でどういう思いを込めていたかというと、それはどのように取ってくださっても構いません(笑)。ただ、この「…」と「……」は違う、という意識は込めました。それが効果を上げているかは、また別の話ですが。

Y たぶん、意味っていうのは、差異ですから、「…」と「……」が相互作用を起こしながら、それぞれの意味生成を行っているように感じました。そうか、江戸川乱歩もそうですが、推理小説というジャンルが、表記に対してむしろ実践的だったというのは、推理小説がとりわけてメディアに対して敏感だったことを思い浮かべても興味深いですね。
さて次はちょっと視点を変えて、この句の「豚」というのがけっこう印象的だとおもうんですが、「豚」というイメージに関してはなにか川合さん自身でふだん考えられていることなどありますか?

K うわ、鋭いところ突いてきますね。あの、非常に言いにくいというか、恥ずかしい話なんですが、子供のころ、肥満児だったわけです。大人になってからダイエットしましたが(笑)。で、周りから「豚、豚」とかいっていじめられてたわけです。で、「豚」っていうのが凄いきつい、禁忌の言葉になっちゃったんです。「豚」はもちろん、「ぶた」という音がだめだから、「第三舞台」「外人部隊」「瞼の母」「割れ鍋に綴じ蓋」っていうのも、全部だめで。「のぶたかさん」って人は、よく耐えてらっしゃるなあ、とか。「ぶた」っていう音を聞くだけで、自分が本当に豚に変貌しちゃうんじゃないか、っていう恐怖にとらわれていて。それに「豚」っていう漢字、なんかこう、まがまがしい字面じゃないですか? 僕だけか(笑)。

Y たしかに意味のゲシュタルトを壊してみると、魔法陣みたいにみえなくもないですね、「豚」っていう字って。なんだろう、線がざくざくしてるからかな。「BU・TA」という音も、独特のひっかかりがある音ですね。まがまがしいかも(笑)

K ええ。でもそうやって忌避しているうちに、いろいろ考えちゃうわけです。よく肉屋さんなんかで、豚さんがコック姿している看板ありますけど、あれって凄い怖いことじゃないか。確か穂村弘さんもエッセイで同じようなこと書かれてましたね。そのうちに、食べられるためだけに生まれて、殺されて、それで侮蔑されてる「豚」ってなんなんだろう。

Y そういう奇妙な豚の哀しみを、豚を語り手にして宮沢賢治が「フランドン農学校の豚」で描いてましたね。

K 人間に作られたのに、人間に忌避されている存在って、可哀相とか、そういう次元を超えて、ある意味神に一番近い動物なんじゃないかと。もう病気ですね(笑)。そういえば中島らもさんにも『ガダラの豚』ってありましたね。

Y あれも、まがまがしさというか、らもさんの好きな呪術や文化人類学が関係した小説でした。

K だから、そういう忌避の感情も含めて、特別な動物なわけです。自分の一番ざわざわする動物というか。初めて川柳を作ったときも、連作の一番冒頭が「豚喰えば愛は口先上滑り」だったりして。今でも「豚」っていう言葉はかなりこわいし、だからこそ凄く思いをこめちゃうんですが、カツ丼とか「おいしいなあ」と思って食べているわけで、つまんない大人になりましたね(笑)。

Y まい泉のカツサンドとかおいしいですもんね。なるほど、そういうご自身のなかでの〈豚のイメージの系譜〉みたいなものがあったわけですね。豚というのは、『聖書』でもおびただしい数の豚が出てくるシーンがあって、それが漱石の『夢八夜』にもつながっているんだという指摘もありますが、…

K (あれ? 「漱石の『夢八夜』」って言ってるけど、『夢十夜』じゃない? 虚構の現実への侵犯が起きちゃってないか。ちょっとボルヘスっぽいことになってないか、このひと。まだ『夢八夜』から帰ってきてないんじゃないか)

Y …『豚の文化史―ユダヤ人とキリスト教徒』という本もあるように、豚のイメージが歴史的に変遷していくというのは、けっこう表現史においても大事なのかなあと思います。ゲームなんかでも糸井重里さんの『Mother3』が豚の帝国を描いていたりしました。
ここで少し大きな視点にうつって、定型の話をお聞きしたいとおもいます。川合さんは定型に関してかなり保守的というか、以前お話させていただいたときに、もう絶対に中8の句はつくらないというようなことをお話されていたんですが、そこらへんの中8観や定型観について少しお話していただけますか。

K うーん、保守的、なのかな。川柳を始めたころ、時実新子さんの入門書とか読んで、「中八は絶対駄目。それだけで下手に見える」っていうようなところが、どうしても、実感として納得できなくて。

Y 時実さんのあのことばは私も覚えてるんですが、とても印象的でしたね。

K 拍がどうのこうのとか、いろいろ自分なりに知ろうとしたけれど、「中八が駄目」って、どうしても、思えなかったんです。これは僕のセンスの悪さなのかもしれないけれど、中八というだけで、無条件に「下手」とは思えなかったし、そもそも、下手なことって、そんなに悪いことかな、って。

Y なるほど。

K 伝えるって、上手い下手の問題じゃないよな、どうしても伝えたいことがあるときに、七も八もないよな、って。「川柳は自由な文芸です」って謳っていながら、これは欺瞞で、定型って、檻じゃないかと。今考えると、だから川柳が下手なまんまで、もう、滅茶苦茶やりましたよ。「ばかをばかにするな」とか。はっきり言って、すさんでました。ずーっと、低迷してました。で、「中八がそんなに憎いかさあ殺せ」みたいな句を作って、それが一部の方々に、ありがたいことですが、評価していただいたのです。

Y 丸山進さんがたしかとられたんですよね。私は丸山進さんのブログ記事で川合さんの句について知りました。丸山進さんの解説もとても考えさせられる内容で印象的でした。

K でもその句を作ってから、ああ、これでもう中八は作れないよな、と思っちゃって。

Y 反動みたいなものがきたんですね?

K 何だろう、褒められたいのに、褒められると穴掘って埋まってしまいたくなるというか。でもたぶん、ふたつの思いがあって。ひとつが、定型だ中七だって多くの人は言うけど、じゃあ自分は、その中七でどこまで滅茶苦茶がやれるか、行けるところまで行ってみよう、試してみようと。そう思ったのは実は去年からなんですが。変な意地で、虚勢ですね。もうひとつの思いは、これはビビりなとこなんですが、自分には詩的センスが欠落しているって、わかっていて。だから五七五を外して、作るのが怖くなってしまった、っていうのもあります。「定型って檻だ」とか言っておきながら、実際には檻に頼って、外に出るのが怖いというか。だから、もともとさんの言葉をもじって、「勇気定型」って造語をしたんですが、

Y あのわたしが以前、「有機定型」と申したことばですね。定型は生命のようなもので有機的にうごめいているといったようなことを書いたことがあります。

K 勇気ができれば、そして本当に伝えたい何かができたら、中八でも九でも十でも、やります。話しながらいま思ったんだけれど、正直なところ、定型だ定型じゃないなんて、どうでもいいです。ただ、今はそのどうでもいいことにこだわりたいというか。まあ、かなり性格が歪んでますね(笑)。

Y いまは中七ではいるけれど、でもそれを〈踏み越える〉必然的な理由が出れば、中七でも、中八でも、中百でも、されるということですね。定型にかんするみずからの関わり方の問題ですよねそれはきっと。たぶんだれもが抱えざるをえないような。
また少し話題を変えまして、川合さんは夢野久作の『ドグラ・マグラ』で卒論を書かれているとのことですが、さきほどお話されていましたが、夢野久作の表記の使い方って印象的ですよね。表記の「…」に関しては夢野久作の『ドグラ・マグラ』との関係はありますか?

K ああ、それは表面では意識していなかったですね。だけど、夢野久作の影響は、確実にあります。『ドグラ・マグラ』は中学の時にはじめて読んで、当然なんにもわからなかったけれど、雰囲気だけは「すげー」って感じて、だからこそ刷り込みは行われたのかもしれない。『ドグラ・マグラ』だけじゃなくて、いろんな短編も、がっついて読みました。だから直接の関係はないんだけれど、いつもどこかで血肉になっている感じは、します。僕も、精神病院入ってたことありますしね(笑)。

Y そういう精神のモードというか、精神の枠組み、精神のコードも表記や定型と実は関係が深いのかもしれませんね。以前、鬱病とブログっていうのは親和性が高いのかなあとかんがえていたことがあるんですが、その日記っていうのが、日付によって毎日分節される定型表現なんじゃないかとおもったりして、その定型という意識が鬱という分節化しがたい病の形式と響きあうんじゃないかと思ったりしたことがありました。
ひとつの句からさまざまなテーマをお話していただいたとおもいます。
ありがとうございました!

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posted by 柳本々々 at 06:00| Comment(0) | 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする