2015年04月30日

勇気のための川柳処方箋61 書物のような君の目をみひらこう

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春の光ぼくは眠る君は起きてゐて  佐藤文香

川柳ではなく、また俳句からの一句なんですが、この佐藤文香さんの句集『君に目があり見開かれ』は装幀がひとつ特徴としてあるんです。
「港の人」から発行されている句集なんですが、「港の人」といえば堂園昌彦さんの活字印刷を使った歌集『やがて秋茄子へと至る』や大胆なレイアウトのアンソロジー『胞子文学名作選』などが有名です。

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装幀そのものがメッセージ性をもって読者に問いかけてくる、そういう装幀のありかたを志向しているのが「港の人」だともおもうんです。
「港の人」の発行された本に特徴的なのが、〈てざわり〉だとおもうんですね。
明らかに紙の質感が違う。藁半紙のようにさわっていて、さわさわしている。これは実際、摩擦としてたちどまらせるわけです。なんだろう、と。ゆび、が。
そして眼、も。もしかしたらすりつけてしまった鼻、も。

さいきん出た俳誌『オルガン1号』(2015年4月)で生駒大祐さん、田島健一さん、鴇田智哉さん、宮本佳世乃さんによる「佐藤文香の『君に目があり見開かれ』を読んでみた」という鼎談企画が掲載されています。
その中で生駒さんの「じつは僕まだ、なぜこの句集のことを話すのか、っていうのをそこまで掴み取れてないんですよ」という問いかけに鴇田さんがこんなふうに答えています。


一般的な句集のかたちってあるじゃない。「春・夏・秋・冬」の四章立てとか、年代順とか。それとは違う形だよね。そういう句集を四人で読むことを通して、句集ってなんだろうっていう話にしたかったんだよ。…本の作られ方やあり方。たとえばこの本、目次が終わりの方にあるでしょ。あと、ノンブルがえらく小さい。そういうひとつふたつのことを見ても、他の句集とは違う。それから、表紙に「レンアイ句集」って書いてある。これ、気づかない人は気づかないかもしれない。白いしね。このカタカナの書き具合なんかも含めて、いろいろ考えたうえで作られているという。


こういう句集のありかたを句集自体が問いかけてくる句集にもなっているわけです。
テキストではなく、マテリアルとしてのそういう句集のあり方から句集を読んでみると、どういう〈読み〉ができるのか。句集を〈読む〉ときはおそらくそういったことも〈あわせて〉注意する必要がある。
たとえば川柳でいえば、なかはられいこさんの句集や倉本朝世さんのあざみ書房の句集や東奥文芸叢書や川柳カード叢書などがなぜソフトカバーで、そうしたソフトカバーのてざわりがどのように句の〈読み〉と響きあうのかといったこともいちど考えてみる必要があるようにもおもうのです。句集が〈どうされたがっているか〉ということを。

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さいきん、短詩でいえば、榮猿丸さんの句集『点滅』が〈まっしろ〉な〈なにもない〉装幀でとても印象的でした。〈まっしろ〉で〈なにもない〉装幀といえば、太宰治の『晩年』や斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』などがあります。太宰はプルーストの邦訳書の装幀を参考にしたと語っていましたが、太宰が「きみら読書の手でこの本を汚していってくれ」といったように、それら〈まっしろ〉な装幀の本は読むたびに読者がめいめいの唯一無二の〈汚し方〉で、読むたびに・痕跡として・汚していくわけです。じゃあその〈汚れ〉としての〈痕跡〉が句や歌やテクストと〈どう〉響きあうのか、どのように意味生成していくのか、それら空白と汚れの意味の関係はどうなっていくのかなど、装幀からいろいろ考えられることはあるようにもおもうのです。
そういえば私もよくオルガンを弾くのですが、オルガンだって、白い装幀といえば、白い装幀なのです。そのひとの、弾き方、弾き癖によって、白鍵は変化していくのですか。
本の意味性をコーティングする形態そのものは意味と反射しあいつつ、どこに・どうつながってゆくのか。


最近思うんだけど、感じるだけじゃダメなんじゃないかって。感じたことを使って、その先の考えにつながっていくような。本ってそういうものじゃないかな。読んだ人に影響が出るっていうのは大事な要素だと思う。  田島健一『オルガン1号』



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勇気のための川柳処方箋60 死を与える


記号から生れ括弧の中で死ぬ  大友逸星

   *

『川柳人生60年 大友逸星/川柳人生50年 高田寄生木記念句集』(川柳触光舎、2009年)からの一句です。

かつて『週刊俳句』に載せていただいたもので矢島玖美子さんの句から〈檻〉としての定型について考えてみたことがあるんですが、そもそもこの逸星さんの句にあるように、〈ことば〉を使用すること自体がひとつの〈檻〉ともいえます。

この句で大事なことは「記号」も「括弧」も、ひとつの指示言語であって、触れたり、食べたり、抱いたり、声に出したり、それ以外のもので表象・代行することもできないということです。

〈ことば〉を使ったり、〈定型〉を使用したりするという行為は、それで自由な表現にはばたくということなんかではなくて、むしろありとある可能性の翼をはぎとって、〈できない領域〉をじぶんでかたちづくっていくなかで、それでもその不可能で埋め尽くされていく場所で、少しでもなにかが表象できたり、代行できないかをまさぐる行為なのではないかとおもうのです。

でも、もちろん、この逸星さんの句のように、あらかじめ挫折は宿命づけられている。「括弧の中で死ぬ」しかないのだけれども、でもその「括弧の中で死ぬ」という記号的事態を、もういちどことばにする、再話する〈川柳〉のプロセスのなかで、はじめてそれまで起こりえなかった〈出来事〉が起こる。

たしか柄谷行人がいっていたとおもうんですが、歴史と出来事の違いは、歴史が反復される事象に対して、出来事はそれまで起こりえなかった事象でありこれからも起こりえないであろう事象である、ということです。

わたしたちは川柳を通して再話しつつも、〈歴史〉ではなく、〈出来事〉と立ち会っている。ありえたかもしれなかったのに、しかしはじめての、そしてこれから起こりえそうなのに、しかい起こりえない、イヴェントに。
そしてそれを〈定型〉というコーティングが饒舌な文脈として歴史に接続されないよう守ってくれる。たやすく外部からアクセスできないよう、意味性が剥奪されないような、定型としての自律として、意味を留保しつづけていてくれる。

そうしたかんたんに簒奪されないイヴェント性が川柳にはあるのではないかとおもうのです。

「記号から生れ括弧の中で死ぬ」しかない、〈歴史〉にさえ参入できない川柳としての生を、しかしそのときただいちどきりの〈出来事〉として定型がうけとめてくれるということ。そうしたみずからロックをかける積極的な檻があるということ。

〈振り返る〉歴史ではなく、〈振り向いてしまった〉出来事性を。

振り向けばついては来ない三輪車  大友逸星

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posted by 柳本々々 at 06:00| Comment(1) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月29日

現代川柳ヒストリア+川柳フリマ


イベントのお知らせです。

〈 イベント 〉
現代川柳ヒストリア+川柳フリマ

〈 日時 〉
5月17日 日曜日 13時〜17時

〈 場所 〉
大阪 たかつガーデン 3F カトレア
〒 543-0021 
大阪天王寺区東高津町7-11

〈 タイムテーブル 〉
14時〜14時30分
展示解説「雑誌でたどる現代の歩み」
( パワーポイント )

14時30分〜15時30分
句集紹介・作者サイン会

16時〜17時
対談 「川柳をどう配信するか」
天野慶 氏 × 小池正博 氏

専用サイトURL

倉間しおりも参加させて頂きます。
詳細につきましては専用サイトを御覧下さい。





posted by 飯島章友 at 18:45| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月28日

蛸を嗤うな真剣なものを嗤うな

蛸を嗤うな真剣なものを嗤うな
(  重森恒雄 『 川柳新子座'95  魔術師たち』時実新子  より )

何だか痛いぐらいに「リアル」な句だ、と思った。
この「リアル」というのは、句が読み手にどこまで肉薄するか、つまりどれ程の「切実さ」を持っているか、という事に基づいているように思う。


「嗤うな」という言葉は、声高な命令などではない。先制のための警告や威嚇でもない。
これはきっとほとんど悲鳴や泣き声のような、か細く震えた、それでいて必死の訴えだろう。「笑う」ではなく「嗤う」。そこにははっきりとした嘲笑、軽蔑と憐れみの意が示されている。そうして貶められ、尚かつそれにしっかりと手向かう強さを持たぬ者が、やっとの事で発する一言。それが、「真剣なものを嗤うな」というフレーズだ。
句からこのフレーズだけを切り離してみると、その愚直なまでのストレートさ、ともすればありふれてしまう程の「正しさ」が際立って見えてくる。このフレーズだけでは、おそらく句は句として成立し得ないだろう。
であれば句を根底で支えている核は、導入部の「蛸を嗤うな」の方にあるのではないか。
蛸。暗い水底でゆらゆらと蠢く不定形。何を考えているのかよく分からない眼も、愚鈍に見せかけて時折異常に俊敏な動きも、全てが何となく不気味で、恐怖すら覚える。
そんな蛸に対して「真剣なもの」というイメージを結び付ける人は、ほとんど居ないのではないだろうか。 この句の  蛸=真剣  という図式には、大抵の人が違和感を抱くように思われる。
しかし句の中で提示されているのは、確かに  蛸=真剣  という図式なのだ。私たちから見れば、両者の間には大きな溝があるように思える。けれども作者は、突発的な勢いとも言えるような強引さで、両者を=で繋げてしまった。
私はこの強引さにこそ、句の「切実さ」の源泉があるのではないかと思う。
向けられた嘲笑、他者からの明確な悪意に必死で立ち向かおうとする作者には、通常の 蛸≠真剣 の世界など見えていない。何とかして抗いたい、その思いだけに支配されて、何も考えず、何も考えられず、 思いが頂点に達した時、おそらくはほとんど無意識下で唇から零れ落ちた言葉、それが  蛸=真剣  の図式を持ったこの句だ。
何の脈絡も意味も汲み取れない、熱病に浮かされた者の譫言のように、それは聞こえるだろう。
けれどもこの彼岸の「蛸」から此岸の「真剣」への歪で瞬間的な跳躍、そこには弱い者が見せたただただ純粋な必死さ、ひたむきさだけがある。それがこの句の溢れ出るような「切実さ」となって、「真剣なものを嗤うな」というともすれば上滑りしてしまいそうなフレーズに、確かな重さと一種の説得力を与えているように思われる。

posted by 飯島章友 at 18:44| Comment(0) | 倉間しおり・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋59 きょうから飼えるチェシャ猫入門


チェシャ猫に呼び戻される脱衣場  なかはられいこ

   *

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M こ、これはなんですか。

Y チェシャ猫のBEAMSのTシャツです。むかしこれを着て歩いていたら、道ゆくこどもからゆびをさしてわらわれたことがあります。チェシャ猫はわらいながらきえるのが特徴ですが、わたしはわらわれてきえないじぶんをかんじそのときはじめてじぶんをあれじぶんってもしかしてへんなひ

M はい、きょうはなかはられいこさんのチェシャ猫の一句です。

Y なかはらさんから「弓なりのネパール、そしてひなまつり」において「チェシャ猫の笑わない種を飼っている  柳本々々」のていねいな句評をいただきました。ありがとうございました。

M なかはらさんのこの句には「脱衣場」と書いてあるけれど、この句集のタイトルが『脱衣場のアリス』なんですよね。

Y この句で「呼び戻され」てますよね、アリスは。だから、アリスは脱衣場の〈外〉を志向して、なんとか脱衣場の外部へと出ようとしてるとおもうんですね。その意味で、〈脱衣場(以外の)アリス〉になんとかしてなろうとしてる。でもこの句にあるように、アリスは脱衣場に戻ってきてしまう。そういう外へ外へと運動を展開しながら、でも内部の強い引力にひっぱられてきてしまうちからのようなものがあるとおもうんですよね。あの、なかはらさんの句、

 げんじつはキウイの種に負けている  なかはられいこ

これも、「げんじつ」の外に出ようとして、でも「キウイの種」にさえ負けてしまう。内部に押し込められてしまう、そういう句にもおもうんですね。だから、なかはらさんの句には内と外の拮抗があって、そのどちらかが負けてひっぱりこまれてしまう、そういう運動性があるのではないか。

M 思想家のジジェクがそうした潜勢力としてのチェシャ猫についてこんなふうに指摘していますよ。脱衣場と身体との関わりをかんがえてみても興味深い指摘です。脱衣場っていうのは、服を脱ぐことによって身体になると同時にそれまでとはちがった身体のモードに入る場所なので。


器官なき身体は純粋な〈生成〉の生産的奔流であり、いまだ機能的器官としては構造化されていないあるいは決定されていない身体だが、身体なき器官は、『不思議の国のアリス』でチェシャー・ネコの身体がもはや存在しなくなったにもかかわらず依然として残っている例の微笑みのように、或る身体に埋め込まれている身体なき器官から抽出された純粋な触発−情動の潜勢性ではないのか?  ジジェク『身体なき器官』


Y 構造にできないような、ことばにできないような、非構造の噴出がチェシャ猫の身体なのかあ。そういえば、チェシャ猫は笑いを残しながら消えるから独特の身体をもっていますよね。笑顔だけは残すっていう。身体はないのに。

M だからある意味それは言語上で成立することなんですよね。まさに川柳とおなじです。実は川柳ってちょっとチェシャ猫に似ているんですよね。ありえないことを17音でありえることに〈ふつう〉にしてしまうという。
たとえば宗宮喜代子さんが論理の国としての『不思議の国のアリス』についてこんなふうに述べています。


『不思議の国』の住人たちはことばだけを見つめ、ことばの世界に生きています。だから、胴体のついていないチェシャ猫の首をはねることも可能だと考えます。現実を顧みないからです。ことばの外にある人間関係も、時と場合も考えないのです。アリス本では現実とことばの乖離が極端な形をとっています。論理の国では文が述べる命題以外の要素は眼中にありません。私たちが独りで思考する時にいちいち敬語で考えないのと同じ理由で『不思議の国』では丁寧さや礼儀が欠如していたのです。その代わり、体裁を取り繕うこともウソをつくこともありません。だますことも嫉妬することもありませんでしたね。  宗宮喜代子『アリスの論理』


これをみると、チェシャ猫っていうのは、ことばの存在、言語存在だっていうことがわかりますよね。だからアリスの葛藤っていうのは、純粋な言語存在に向き合ったときに、その言語以外の外部、生身の身体や文化作法などのノイズをいったいどうしたらいいんだという葛藤のようにおもうんです。でもなかはらさんの句では脱衣場だから、そういったノイズも脱いでいってしまうのかもしれない。じっさい、なかはらさんの句でよくみられるひらがな表記はそういった慣習を脱いで、チェシャ猫のように純粋な言語存在になっていくことかもしれない。
ちなみに日本近代文学研究者の前田愛さんはこんなふうにチェシャ猫について述べていました。


日本の近代の作品で申しますと夏目漱石の『吾輩は猫である』に、チェシャ猫的偽論がいたるところに出てきます。そしてこの偽論理は、病んだ精神が外界に対してとる防御の姿勢の現れだ、という考え方もあるのです。  前田愛『文学テクスト入門』


Y そういえば、なかはらさんの句における〈病み〉というテーマについて考えてみたいなとおもうことがあります。たとえば、

 産院の窓の向こうのオズの国  なかはられいこ

これもある意味、アリスが出会っている〈げんじつ〉だとおもうんですね。この句では、「オズの国」はげんじつの彼岸にあるのかもしれないんだけれど、でも「産院」からそれをみているわたしには窓をとおしてみえてしまうくらいには〈地続き〉なものとしてある。

M 安井泉さんが写真家としてのルイス・キャロルを論じた本で、


『不思議の国のアリス』の中で口元だけを残して身体が消えたりまた現れたりする出現消失自在のチェシャネコの仕掛けは、写真の現像作業を思わせます。  安井泉『ルイス・キャロルハンドブック』


といっているので、チェシャ猫にはそうした〈げんじつの明滅〉のようなものもあるかもしれません。
では最後に昭和元年(1926)に『少女の友』に翻訳された和製「不思議の国のアリス」である「お伽奇譚─アリスの不思議國探検」のチェシャ猫をご覧いただいてお別れしましょう。昭和元年のチェシャ猫は生活感ある三毛猫のようなチェシャ猫になっていますよ。このチェシャ猫ならみんな飼えるはずです。

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Y た、たまじゃないですか、これは。

M そう。





posted by 柳本々々 at 06:54| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする