2015年05月31日

勇気のための川柳処方箋94 ママンは死なない

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ウィリアム・フォークナーに紹介された折、アルベール・カミュは言った。彼は私に単語三つも話しかけなかったよ。  マークソン『これは小説ではない』

今日ママンが死んだ 迂回路をさがす  内田真理子


内田真理子さんの句集『ゆくりなく』(あざみエージェント、2010年)からの一句です。

わたしが川柳を好きな理由のひとつに、川柳は文学に〈絡んで〉いくっていうところがあるんです。

川柳はどういうわけか文学の〈もういっぽうのかたち〉を思考しようとしている。

「今日ママンが死んだ」っていうのはカミュ『異邦人』の書き出しです。ちなみに野崎歓さんはこれを『よそもの』と訳していました。


今日、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私には分からない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。  カミュ『異邦人』


ここで大事なことは、主人公のムルソーが母の死を〈出来事〉として感受できていないということです。
「昨日かも知れない」ということはかれには出来事を出来事性として成立させる時間感覚が、ない。

たとえばですよ、誕生日って〈きょう〉だってわかるから〈出来事〉なんです。時間はとりかえしがきかないから、誕生日や記念日をわすれると恋人から怒られるんです。

でも、ムルソーには、それがない。

出来事として受け止められないということは、〈自分がこれからどのように行動すればいいのか〉が「わからない」ということです。

でも内田さんの句のムルソーは、ちがいます。「迂回路をさが」しはじめる。意志的決断を、ムルソーが小説という言説を、太陽がまぶしかったのを根拠にした殺人をとおりすぎて、みずから死を前にして、やっとたどりついた〈意志的決断〉を、「ママンの死」のつぎのしゅんかん、手にいれている。

これが、川柳がかんがえるもうひとつの思考の形態です。

なぜ、こんな別枠の思考が可能なのか。

それはやっぱり川柳の出来事性が定型によって支えられているからではないかとおもうんです。

カミュのムルソーにはフィクションが、小説が、ロマンが、出来事性を支えていた。

けれど、内田版ムルソーは川柳ですから、ラストはもう〈すぐ〉なんですよ。定型がささえる出来事性だから。ムルソーがじぶんの存在をじぶんでひきうける〈実存〉のチャンスは17音のうちにしかない。

だから、「迂回路をさがす」しかない。

文学の惑星の、もうひとつちがったかたちの別の惑星を思考=志向すること。そこにわたしが感じている川柳の〈勇気の思考〉があるように、おもうのです。


ほんとに久し振りで,私はママンのことを思った。一つの生涯の終わりに、なぜママンが「許婚」を持ったのか、また、生涯をやり直す振りをしたのか、それが今わかるような気がした。あそこ、幾つもの生命が消えてゆくあの養老院のまわりでもまた、夕暮れは憂愁に満ちた休息のひとときだった。死に近づいて、ママンはあそこで解放を感じ、全く生き返るのを感じたに違いなかった。何人も、何人といえども、ママンのことを泣く権利はない。そして、私もまた、全く生き返ったような思いがしている。あの大きな憤怒が、私の罪を洗い清め、希望をすべて空にしてしまったかのように、このしるしと星ぼしとに満ちた夜を前にして、私ははじめて、世界の優しい無関心に、心をひらいた。これほど世界を自分に近いものと感じ、自分の兄弟のように感じると、私は、自分が幸福だったし、今もなお幸福であることを悟った。一切がはたされ、私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。
  カミュ『異邦人』


だが、肝心なのは生きることだ。  アルベール・カミュ

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2015年05月30日

勇気のための川柳処方箋93 ティム・オブライエンではないけれど、山を食う話をしよう。

山を食う話をしたよあまりにも悲しみすぎてついにそこまで  正岡豊

先日、川柳フリマで正岡豊さんにご挨拶させていただいたのですが、正岡さん(@haikuzara)がTwitterで次のように書いてくださいました。正岡さん、ありがとうございました!
わたしの『やさしい夢八夜』の小池正博さんの回に書いたあとがきから始まって連続ツイートで長く書いてくださったんですが、部分的に少し引用させていただこうとおもいます。


川柳に関してはある年齢より上の世代の詩歌の人は、大きな意味での「詩歌」や「文芸」のジャンルとしては語らない、という感触を私は持っていますが、そういうことに大きく拘泥しない、という形での川柳の作り手、というのが、今の一番若い川柳の「世代」かな、と思ったりします。


〈川柳〉のわたしが魅力を感じている点に、めいめいの立場からそのジャンルに向かうことができるのかな、と感じることがあります。
これはある意味、以前小津夜景さんが川柳は〈雑食的〉〈SF的〉というようなことをおっしゃっていた感覚にちかいとおもうんですが、たとえば〈SF〉ってほんとうにいろんな作品があるんですよね。
観念的なものもあるし、即物的なものもある(ガンダムに哲学的なものやメカニカルなものやボーイズラブなものやスピリチュアルなものやジュブナイル(少年もの)や教養小説的なものや格闘もの、恋愛もの、ギャグものなどいろいろあるように)。関数のようなもので、各自がどのような〈立場〉をとるかで、SFの枠組みにおける〈内実〉が変わってくる。ところがこれがふしぎなんですが、〈内実〉が変わることによってすこしずつ枠組みも変化していく。
そういう〈バネ〉のようなところがある。
〈雑食〉ってそういうことなんじゃないかとおもうんです。かんたんな話、なにを食べるかで、体質が変わってくるっていう。

だからまとめてみると、〈川柳〉という確たるジャンルはないんだけれども、そのジャンルのなかで〈川柳をそれぞれの立場でやっているひと〉がたしかなかたちでいる、っていうことになるんじゃないかとおもうんです。

で、わたしはまったく川柳の外部にいたのに、それでもとつぜん事故みたいに川柳がおもしろいなとおもえたから、川柳を勉強したいとおもうようになった。だからたぶんわたしにとっての川柳はそういった外部とつねにコネクトしているものとしてあるとおもうんです。
ただそれはあくまでひとつの〈立場〉でしかないとおもうんですね。「おまえそれちがうよ」っていわれたら〈ちがうかも〉という可能性はいつも持っていたい。まったく別の立場だったらどんなふうにかんがえていたのか、そういう〈もうひとつの思考〉みたいのはもっていたい。
それを許してくれるのもまた〈川柳〉だとおもうんですよね。

うえで正岡さんの短歌を引用させていただいたんですが、この

山を食う話をしたよあまりにも悲しみすぎてついにそこまで  正岡豊

という歌はある意味で〈話〉の相対化だともおもうんです。「山を食う話」を喜びにあふれていたらしなかったかもしれない、でも「あまりにも悲しみすぎてついにそこまで」してしまった、してしまったんだけれど、でも「あまりにも」な〈わたし〉がしたことで、実際は語り手は本意ではなかったかもしれない。そういう〈話の相対化〉がこの短歌なんじゃないかとおもうんですね。

たぶん〈川柳〉っていうのもいろんなカラーがあるんだけれども、わたしが魅力に感じているのは、ある立場を選び取ったときに、〈でもおまえそうじゃない(かもしれない)よね〉ということでつねにもう一方の立場が潜伏している、それがいいなっておもうんです。

でもこれはわりとあらゆるジャンルにいえるかもしれないけれど、川柳はその辺がカオスなほどにパワフルなんじゃないかとおもうんですよ。ものすごく理解不能なひとや言辞がでてきても川柳はそれをうけいれるきがする。

それはたぶん〈川柳〉が〈よくわからないもの〉で、うれしくてもかなしくても「山を食う話」ができちゃうフィールドだからだともおもっているんですが、プレーンな、すました顔で「山を食う話」ができる〈川柳〉って魅力におもえることが多いんですよ。すました顔でとんでもないことをかんがえていることだってひとは多いかもしれないので。「だれにもみえないせんそう」はあるから。

きみが首にかけてる赤いホイッスル 誰にもみえない戦争もある  正岡豊


あることはたとえ実際に起こったとしても、なおかつまったくの嘘っぱちでありうるのだ。あることは実際に起こっていないかもしれない。でもそれは真実以上の真実でありうる。
たとえばこういう話だ。四人の兵隊が道を歩いている。手榴弾が飛んでくる。一人がそれに飛びついて身を挺して三人の仲間を救おうとする。でもそれは大量殺傷用大型手榴弾で、結局みんな死んでしまう。
死ぬ前に一人がこう言う。「お前なんでまたあんなことしたんだ?」飛びついた男がこう言う。「一世一代ってやつだ、戦友」と。相手の男は微笑みかけたところで死んでしまう。
これは作り話だ。でも本当の話だ。

結局のところ、言うまでもないことだが、本当の戦争の話というのは戦争についての話ではない。絶対に。

それは太陽の光についての話である。それは君がこれからその河を渡って山岳部に向かい、そこでぞっとするようなことをしなくてはならないという朝の、河の水面に朝日が照り映える特別な様子についての話である。それは愛と記憶についての話である。それは悲しみについての話である。それは手紙の返事を寄越さない妹についての話であり、何に対してもきちんと耳を傾けて聴こうとしない人々についての話である。

ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』



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勇気のための川柳処方箋92 読んでいない本について堂々と語る方法

身も蓋もあって書籍店迷路  一戸涼子

M 田口麦彦さん編の『現代川柳鑑賞事典』から一戸さんの一句です。

Y ロラン・バルトにいわせれば、図書館っていうのは〈不可能性〉の表象ですよね。あ、わたしが生きているあいだにこれだけの本を読むことは不可能なんだ、って気づくのが図書館なわけですから。

M あの、だからムージル『特性のない男』ですべての書物を知っている司書がでてくるけれど、あの司書は一冊も読んでないですよね。一冊も読まないことによってぎゃくにすべての書物を知ることができるという。読んだら終わり、ですから。時間がなくなっちゃうんで。

Y ボルヘスの「バベルの図書館」も実は本なんて一冊も読むことなんてだれにもできなくて、〈読む〉って行為はそもそも完結できる行為じゃないんだよって短編だったとおもうんですけど。

M だから「書籍店」って迷路なんですよ。しかも〈有限〉だから迷宮化するんです。ボルヘスの短編みたいに〈無限〉なら、むしろバベルの図書館みたいにきちんと六角形の秩序ある図書館になるとおもうんですよ。でも「書籍店」はカオスです。

Y ああ、だから「身も蓋もあって」と〈有限〉化されてますよね。おのれが。おのれが〈有限〉化されて、「書籍店」という無限にたちあって「迷路」化していくという。

M だからどうして人間は図書館や書籍店という装置をみつけちゃったんだろうっておもいますよね。そこには絶望しかないのに。すべての本を知るためにはムージルの示した司書のように〈本を読まない人間〉になるしかないんですよ。逆説的ですか。本を知るってそういうことなんですよ。読んでるひまなんてないんだから。

Y 一戸さんのほかにこんな句がおもしろかったですよ。

ピザ一枚青い嵐が吹いている  一戸涼子

M ロラン・バルトにいわせれば、ピザっていうのは……

Y バルトはピザについても言及してるんですか。あのひと、なんでも言及してましたからね。プロレスにも、衣服にも、俳句にも、箸にも、すきやきにも、パチンコにも、眉毛にも、写真にも、おかあさんにも、雲にも、恋にも、涙にも。で、ピザについてなんていってたんですか。

M わかりません。

Y !?


少しでも希望があるのならおまえは行動する。希望はまったくないけれど、それでもなおわたしは……あるいはまた、わたしは断固として選ばぬことを選ぶ。漂流を選ぶ。どこまでも続けるのだ。

       ロラン・バルト「行動」


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posted by 柳本々々 at 09:32| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

学習漫文・川柳のひみつ 序(かもしれない)

僕は勉強が昔から嫌いで、それは、のちのちに、祟ります。

これから述べることは、論、にも何にもなっておりません。
単なる思いつきであります。

川柳、のはじまりって何なんだろう?
歴史をひもとけば、『誹風柳多留』がはじまり、とどこの本にも書いてあります。
そう一口に言っちゃうのは簡単だけど、それって、凄いことじゃないですか?

全国から投稿して、それが出版されるという〈システム〉が出来ているわけですから。
江戸時代については(他のことにもだけど)、暗いのですが、投稿−出版−購入という流れが確立していなければ、〈川柳〉ってものはありえなかったわけですよね。
(郵便−デリダの視点から考えることもできるかもしれないけど、僕の手には余ります)

で、それって、江戸期の人びとにとっては、〈ニュー・メディア〉だったんじゃないでしょうか。

たとえばツイッターにつぶやく、という中心のない世界である、2010年代のいま、とはまた違うかもしれませんが。
雑誌に、あるいはラジオに投稿するハガキ職人さんたちの姿がだぶります。(古いですね)
サラ川に、あるいはオタク川柳などに投稿するひとたちも、そういうことですよね。
それって、偏見なんですが、いわゆる「暗い」、孤独な作業という気がするんです。
ひとりぼっちの、いとなみ。
だから、江戸期の話に戻りますが、川柳の発生は、〈個人〉の発生と関わりを持っているのじゃないかと。
(メディアが個人をつくる? あるいは個人がメディアをつくる?)
物理的・精神的に離ればなれの人びとが、〈個〉として作品を発表する、という構造は、もしかしたら川柳が発生から抱えてしまっている宿命なのかもしれませんね。
(古川柳と現代川柳と、その断絶を無視して言ってますが)

だから、仮説、と言うほどのものでもないですが、思っていることがふたつ、あります。

 ・川柳は、メディアとわかちがたく結びついているのではないか。
 ・川柳は、〈個〉の文芸なのではないか。

「いや、そんなことは前提だよ」と言われるかもしれませんが。
ちょっと、このテーマについて、皆さんと一緒に考えてみたいのです。
……しっかし、僕は、不勉強だなあ。
あああ、勉強しないと。(江戸期のメディアについて、そもそもメディアって何だろう? ってことについてなど。それに、そもそも川柳のことについて)
日暮れて道遠し(いま、朝ですが)。
どこまで・いつできるかわかりませんが、何かご意見ありましたら、教えてください。
あ、僕はひとりじゃないや。
では、今日はここまで。

(つづく、かもしれない)
posted by 川合大祐 at 06:38| Comment(0) | 川柳論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋91 なかゆびの詩学

枝豆で角度がリリー・フランキー  榊陽子

M こないだ大阪でひらかれた川柳フリマの川柳投票企画でいちばんだった句です。投句された句、どの句もおもしろいのでぜひリンク先ごらんください。今回はこないだの川柳フリマで投句された句からいくつかを任意でみてみましょう。

Y 榊さんの句。こういわれてみるとリリーさんと枝豆ってちょっと似ていますよね。石田柊馬さんの食べ物の句でもよくおもうんだけれど、川柳の詩学のひとつに〈類似の発見〉というのがあるかもしれませんね。なにかそういうのはフーコーの『言葉と物』からも考えられそうな気もする。かつて占星術がそのまま世界の運命だったように〈類似の原理〉が世界を支配していたんだけれど、セルバンテス『ドン・キホーテ』の時代になると〈類似の原理〉が効かなくなってしまうというあれです。風車=ドラゴンではなくなってしまう。

M 柊馬さんの句もありました。

うるわしき豚バラ肉や五月来る  石田柊馬

Y 食べ物で切れ字が入ってくるっておもしろいですね。「うるわしき豚バラ肉」といわれ、そこでとつぜ切れられて、読み手はほうりだされるわけですが、そのダイナミクスがおもしろい。うるわしいと豚バラ肉の組み合わせもおもしろいですね。類似といえば蟹口さんのこんな句もおもしろかったです。

台所の床はすなわちヘブライ語  蟹口和枝

「すなわち」っていわれちゃうと有無をいえないから、こまっちゃいますよね。でもいわれてみるとそんなきもしてきます。類似の発見です。

M こないだの川柳フリマは短歌の方も参加されていました。たとえば、じゃこさんの句。

アザラシを踏んだらちょっと餡子出た  じゃこ

Y これ最初わたし餃子(ぎょうざ)かとおもったら、あんこだったんですね。そういう〈ゆれ〉もいいなとおもいました。アザラシを踏む、という質感がこわいですよね。川柳の詩学のひとつに、いままでだれもやってこなかったことを〈やってみる〉という、〈やってみる詩学〉があるかもしれませんよね。

M 青森・秋田などの東北から『おかじょうき』の方々も投句されていました。

それよりさ裏口の靴隠したよ  一帆

怪談を聞きたくないか夏みかん  徳田ひろ子

天国と春の違いを考える  月波与生

幸せの取説くらい読めたのに  三浦ひとは

神様に一番遠い蟻である  三浦蒼鬼

Y 一帆さんの「それよりさ」って、「それよりさ」ってくだけた口調のひとはたしかに「裏口の靴」を隠してしまう気がしますね。「それよりさ」って話をずらしてしまってるのが気になります。しかもずらしたわりに大胆な告白をしてますね。ひろ子さんの句もたぶん夏みかんは怪談をきくのをいやがってるかんじがしておもしろいですよね。

M ねじまき句会の方々も投句されていました。

反対の電車 出る気のない電話  八上桐子

まあいいかどんどん青くなっていく  妹尾凛

Y ねじまきの方からピクトさんのシールとテープをいただきました。帰りの飛行機で、わおみどりのひとだ! とおどろいてしまいました。ありがとうございました。またひとつ非常口をいただいてしまいました。

M 八上さんと妹尾さんの句の〈まあいいか加減〉がいいですよね。「出る気のない電話」や「まあいいか」といいながら「青くなっていく」かんじ。ねじまきの〈まあいいか〉から始まる詩学を感じます。なかはられいこさんの緑のひとと森にいく句も、〈まあ行ってもいいか〉という感じがしましたもん。

Y 紹介できなかった句でおもしろい句たくさんあるんですが、ずっとこうやって現代川柳みていると、もうどんどんじぶんが解体されていくかんじありますよね。こないだちょっとおもったんですけど、表現ってなにかをいうためにやっているんじゃなくて、ともかくじぶんが解体されていくために、つかまっているねばねばした概念をhきはがしていくためにやっていくんじゃないのかなってちょっとおもったりもしたんですけれど。

M 川柳の詩学のひとつにたぶん〈解体〉がありますよね。じゃあ〈解体〉の句でおわりにしましょう。

解体をされる 中指一本で  藤田めぐみ


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posted by 柳本々々 at 01:43| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする