2015年06月18日

木曜日の・ことのは蒐集帖@ 肺をふくらます

笑う 怒る 悲しむ えとせとら。
感情の動きを、感情の言葉ではなく表現できたら・・・・と思う。
たとえば

目を細める 小躍りする 肩をすくめる 舌打ちする 目を剥く 指を鳴らす 眉根にシワ 

ざんねんながら、ほとんどは常套句の範囲におさまるのである。だが

からかって男の肺をふくらます    八上桐子 (Senryu SO Vol.05 より)

を一読して、虚を衝かれた。
きれいだ、と思った。

肺がふくらむのは、息を吸ったからである。
息を吸って、吐き出す準備段階である。
吐き出されるのは怒りだろうか。それとも
あらあらしい愛の言葉だろうか。

感情の動きを不可視のところにとらえる。

からかうひとの冷静。
ひととひとがいれば自ずから生じるパワーゲーム。

ゲームではあるが、せつないのである。


posted by 飯島章友 at 23:32| Comment(0) | 木曜日のことのは蒐集帖 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月15日

ぶれーどらんなー:200字川柳小説  川合大祐

雨は止まない。高層ビルの窓に寄りかかって、夢を見る。わずかの時間、夢を見る。目覚めれば街。目覚めずも街。人間達が見捨て、動物たちが闊歩する街。動物たちを狩るのがハンターの仕事。思う。俺は何のために狩りをしているのか?いったいこの衰退した人間達が動物を殺戮して、それでどんな優越を感じられるというのだろう?足許のライフルを見る。あれは良くなかった。あのマンモスは、電気仕掛けだった。雨はまだ、止まない。     
  雨あがりマンモス狩りに行ってくる  小池正博

posted by 川合大祐 at 08:02| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月13日

詩・歌・句・美の共同誌「鹿首」第7号

詩・歌・句・美の共同誌「鹿首」。
編集人は研生英午(みがき・えいご)。
編集委員のひとりは「かばんの会」の高柳蕗子がつとめている。
また、去年発行された「鹿首」第5号には川柳人の樋口由紀子が登場している。
同誌の視野には川柳も入っている。
というか、今後も川柳人への依頼はしていくと、せんじつ高柳蕗子から直接聞いた。
その意味でひじょうに楽しみな共同誌である。

さて「鹿首」には、「鹿首招待席」というコーナーがある。
今回取り上げる「鹿首」第7号には、川柳人なかはられいこの「ははとははのはは」20句が掲載されている。
以下、なかはらの作品を5句だけ見てみよう。

 ひっぱればほどけるははとははのはは
 いもうとのため息パプアニューギニア
 ワイパーの稼働領域内家族
 母笑う汽笛や鳩をこぼしつつ
 あいさつか冬の花火かわからない


一句目、こういう言葉遊びの作品は大好きだ。
「ひっぱれ〜 ひっぱれ〜 は〜は〜をひっぱれ〜♪」という歌が聞こえてきそうだ。
二句目、「ため息」→「ぱぷあ」という一種の音喩的な契機から「パプアニューギニア」がみちびかれたのかも知れない。
でも、この句の「パプアニューギニア」は、単なるナンセンスな音喩というだけでなく、言葉としての屹立感も併せもっている気がする。
「いもうとのため息」との取合せで読む方法もあるだろう。
あるいは、パプアニューギニアに関する実際のデータから「ため息」に意味を与える読み方もあるだろう。
ちなみにわたしは、音喩と取合せで楽しんだ。
三句目、もしかしたらわりと深刻な事態を書いている可能性もあるけど、「ワイパーの稼働領域内」というのだからユーモラスで可笑しい。
四句目、「汽笛」と「鳩」との落差がいい。
単に言葉のギャップをつくるだけならコンピューターでも出来るけれど、そこにセンス≠ェにじみ出るのは人間の感性だけだと思う。
五句目、戦後の小津安二郎の映画にも似た感慨をおぼえた。
「花火」というのは色彩豊かで明るいものだけど、なぜかわたしにとってこの句は白黒。
笠智衆の「やあ」という挨拶が脳内に再現される。
「あいさつ」「冬の花火」「わからない」が一種の化学変化をすると、わたしのばあい小津映画的イメージになるのかも知れない。
ちなみにわたしは、小津映画をリアルタイムで観た世代ではない。


さて「鹿首招待席」にはなかはらの他に、高塚謙太郎の詩「おはようはじまり」と、嶋田恵一の短歌「かしゃ」20首が掲載されている。
嶋田恵一は、高柳やわたしと同じく「かばんの会」のメンバーだ。
今年3月に発行された「かばん新人特集号vol.6」にも参加している。
かばん風≠フイメージを裏切る写実・写生、文語、歴史的仮名遣いの完全武装には驚きの声も上がっている。

 天空にのこる光はあはあはと山の端にきて不意に鋭し
 ゆくりなく餅がふくれる寒き夜も時計の砂はこぼれつづける
 あたたかき雨降る街を駈けゆきぬ形態安定シャツのかがやき
 透明な定規をたててマストとすわが乱脈の机の船の
 法要に自転車のりてきし僧侶法衣の下は白きTシャツ


一首目、日没直前の空の明暗をみる眼が「不意に鋭し」の実感性につながった。
「不意に」は使い方が難しい言葉だが、ここでは非常に効果的だと思う。
二首目、合理的に整備された時間という制度と、勝手気ままにふくれる餅。
その対比だけでも作品になるが、掲出歌に流れる時間はおそらく〈砂時計〉の時間。
「こぼれつづける」という表現に作者が出ている。
三首目、日照り雨といわずに「あたたかき雨」と描くことで詩情が生れた。
下の句、「形態安定シャツ」に「かがやき」をみる眼。
四首目、乱脈な机の船だがマストだけは「透明」。
「乱脈」が経理や運営とともに使われる言葉なのを思ったとき、「透明」が活きてくる。
五首目、景気が良かった時代の邦画を見ると、外車に乗った成金趣味の僧侶が出てくることもあるが、最近はお寺の経営も慎ましいものになってきたのだろうか。
そういえば織田無道って今どうしているのだろう。

最後に、第7号の「特集 壊れる」に寄稿されていた高柳蕗子の短歌論考「トマトぐっちょんベイベー! ──潰れトマトの百年」から、わたしが特に共感した章を引用してしめようと思う。

2  みんなの手柄≠ニいう視点

 ところで、意外に知られていなくて、歌人でさえ必ずしも自覚していないことだが、今まで言葉で表されていない事象を初めて言葉で表す、ということは、けっこう難しいことである。
 言葉で表すというのは、直接体験した事象に、あらためて言葉で触れなおすことである。宴会ではじめて見る食べものが出たとしよう。食べ物とわかっているだけで、皮を剥くのか、タレをつけるのか、そもそもどこからどうつまんでいいのか、場の全員がわからない。誰か一人が箸をつけ、その様子を参考にして他の人たちも箸をつけるという、笑い話みたいなことをしながら、しばらくすると、食感は何に似ているとか、醤油をつけないほうがいいとか、それぞれの食べ方をして、口々に感想を述べ、話がはずんでくる。
 短歌の評は、作者という個人の手柄を論じる話になりやすい。だが、世界は、見事な個人技、独自な能力だけでは歯がたたない。みんなで共有して、はずむ話のなかで攻略が進む面もある。その個々人の成果は小さくとも(見よう見まねで箸をつけてみたようなのも含めて)、総力としてのみんなの手柄≠ニいうものがある。
 本稿は、「トマト」を歌に詠んだ先人たち個人の手柄を見ると同時に、みんなの手柄≠も見る視点に立って、「潰れトマト」の歌を読んでみようと思う。

 

「鹿首」ブログ

posted by 飯島章友 at 10:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月06日

こわい川柳F 夜が掴む

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人生の道の半ばで正道を踏みはずした私が目をさましたときは暗い森の中にいた
         ダンテ『神曲』



『雨月物語』の統一的な主題は、情念と執着である。主人公たちは、復讐の情念に取りつかれ、信義に執着し、愛欲に身をさいなまれる。しかも、いずれも常識をはるかに飛び越え、やがてこの世の境界をも越えてしまう。
     長島弘明『日本文学史事典 近世編』



やがて少女をわしづかみする池の声  倉本朝世


O 倉本さんの一句です。倉本さんの川柳は実はけっこうこわくてふしぎな川柳が多いです。

A 前回話し合った記事ともつながってきますが、この川柳でも「声」が〈物質化〉して「少女をわしづかみ」してますね。

O この〈触感〉も実は川柳的詩法として特徴的なんじゃないかとおもうんですね。こういうのを〈触質化〉って呼んでみたいんですが。

A なにか〈さわれる感じ〉をかもしだす感じですね。

O とくにこの句では「やがて」という時間のアバウトな流れや「少女」というアバウトな名称に対して、「わしづかみ」ととつぜんアクションがビビッドに具体化されるのがこわいとおもうんですね。あのよく怪談で「いまおまえの家のまえにいるよ」「いま階段をあがっているよ」「いま階段をのぼりきったよ」「いま玄関だよ」「いまおまえのうしろにいるよ」ってだんだん〈プロセスが具体化〉されているパターンってあるじゃないですか。あれにちょっと近いのかなともおもうんですよ。

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A この〈声〉の〈触質化〉って、たとえば漫画なんかではつげ義春さんの「夜が掴む」を思い出しますよね。夜が物質化し、触質化し、こちらをわしづかみしてくるという。考えてみると、つげさんも〈なにもない〉ことに抒情をずっと見いだしていたひとですよね。「無能のひと」という漫画もあるけれど、「無」だからこそ抒情がわいてくる。でもその抒情はほんとうに抒情なの? という主人公によく付き添っている妻の発話と視線によってたえず抒情が相対化されていくのもつげさんの漫画の特徴だと思うんですが。

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O 触質化といえば、

駅をめくればうっすら雨月物語  内田真理子

という内田さんの句もあります。「駅」が〈めくる〉ことができる点において、声の触質化、夜の触質化と通底しています。駅っていうのは近代になって敷設され、鉄道が国土の隅々まで行き渡ることによって空間を均質化していく近代装置なんですが、それがめくられて近世文芸の『雨月物語』に結びついてしまう。でもどこかでそういった均質化する鉄道が抑圧してきた空間の権力をこの句は告発しているようにも思いますよね。『雨月物語』のなかの「浅茅が宿」もある意味〈空間喪失〉の物語ですよね。生きていると思っていたはずの妻が実は死んでいた。あると思っていた空間はとつぜんめくられて喪失してしまう。

Y つげ義春さんの「無能の人」のなかで「この世界にあたしたちだけみたい」「いいじゃねえか、俺たち三人だけでも」ってセリフがあるけれど、『雨月物語』をある意味、反転したセリフですよね。「浅芽が宿」もたとえば「蛇性の淫」なんかも〈おれたちだけでも〉が貫徹できなかった世界ですからね。

O たぶん上田秋成の『雨月物語』も、つげ義春の『無能の人』も共通するテーマは、〈たとえいかなる状態でも愛は成立しるのか〉ってことなんじゃないかとおもうんですよね。あともうひとつは『無能の人』も「蛇性の淫」の主人公も二人ともある意味で〈読書家〉ですが、〈文化資本〉にあまりにも入れ込んじゃうと〈愛〉が成立しづらくなる。本を読むのも、文章を書くのもほどほどにっていう。

Y たいへんに、こわいことです。

風の吹く窓辺で「ノン」という手紙  峯裕見子

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posted by 柳本々々 at 09:26| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こわい川柳E 穴と穴


穴よりも大きなアアが残される  北村幸子

O 北村さんの一句です。直観なんですけれども、川柳は〈穴〉が好きなんじゃないかなって気がします。あとは、この北村さんの句にあるようにどこにも回収できない〈感嘆としての発話〉なんかも。

A 川柳は「穴」と「アア」が好きってことですね。

O かんがえてみるの、「穴」も「アア」もどこかで身体をめぐることばなのかな、という気もしてきます。身体には穴がたくさんあいていますが、「アア」というのはその穴を通り抜けていくわけですね。気管とか口腔などの穴を。

A あああとかおおおおとかううううとか感嘆詞って身体の余剰のような気がするんですよね。からだやことばをもてあまして、じぶんのからだが手にあまって、それでもなにか発話したいときにもう意味じゃなくなって、それでも〈声〉だけがでていくような。

O 北村さんの句を具体的に検討してみると、ここでは「穴」と「アア」を比較する構文になっていますから、「穴」と「アア」は似てるんですよね。「穴」と「アア」はどこが似てるんだろうとおもうと、〈なにもない〉ことがそもそもの存在の基盤になってるというところが似てますよねを

A 穴ってなにもない場所が場所になってる部分ですもんね。それは〈ことばの表面〉、〈ことばの皮膚〉のようなもので、ことばによってなにもない場所が場所化するのが、〈穴〉ですよね。ところが〈穴〉とことばで名付けした瞬間、マジカルなちからが出てくる。映画『マルコヴィッチの穴』みたいに。あの映画は通過儀礼としての〈穴〉を外部化・物質化してしまう話だとおもうんですよ。

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O 「アア」もそうですね。ああ、とため息のような、吐息のような、徒労のような、失望のような、嘆息をもらしたときに、それは〈気分の皮膚〉のようなものとしてあらわれてくる。

A この句はでも「残される」ってさいごに物質化してるのが特徴ですよね。なにかブロックのような大きな「アア」が転がって終わる気がするんですね。その意味では、ちょっと『はじめ人間 ギャートルズ』のような文字の物質化を思い出してしまいますね。

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O だからある意味、漫画的な句ともいえるんですが、かんがえてみると、漫画の擬音ってすべて擬音が物質化していくんですね。漫画に聴覚はないから。だから、そこらへん川柳と通底するぶぶんがあるかもしれませんね。

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A ランダムに岩下慶子さんの漫画『ボッコンリンリ』から例をあげてみましたが、ここでは「ヘロン」という擬音語が、視覚・物質化され、さらにスクリーントーンで濃淡のカラー付けがなされることによって「ヘロン」そのものがある気分をもった自律した意味作用としてたちあがっています。

O 最後に短歌から〈ああ〉の一首と、また、上田信治さんが〈ああ〉について考察されている記事が『週刊俳句』にありますのでそれをご紹介して終わりにしたいとおもいます。

成分表59 鳴き声 上田信治

ああむこう側にいるのかこの蠅はこちら側なら殺せるのにな  木下龍也


posted by 柳本々々 at 06:52| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする