2015年06月02日

勇気のための川柳処方箋97 い や だ。


実は定義に絶対正しい定義などあり得ない。どちらが実用(適用・実作)に適しているかであり、それは容易に検証できるのである。だから一番怠慢なのは自らの定義を示さずに批判することであろうと思う。
   筑紫磐井『戦後俳句の探求』



あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたら人の声も聞こえない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行(ゆ)かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情けない悲しい心細い中に、何時まで私は止められて居るのかしら、これが一生か、一生がこれか、あゝ嫌だゝゝ
    樋口一葉『にごりえ』



あるちいさな手元の用事をいそいで済ませようと、わたしはいきなりバートルビーを呼んだ。なにしろ急いでいたし、とうぜん相手はいわれたとおりにするものと決めていたから、座ったまま、机の上においた原文の上にかがみこんで、写しをもった右手をせかせかと横につきだし、ついたての奥からでてきたバートルビーがただちにそれをうけとって作業をはじめられるようにした。ちょっとこの文章、いっしょに点検してくれ、と。
わたしの驚きを、いな、驚愕を想像してほしい。なんとバートルビーはついたての奥から動きもせず、不思議とおだやかな、きっぱりした口調で、そうしないほうが好ましいのですが、と答えたのである。私はしばし言葉を失ったまま、唖然として停止している頭を叱咤していた。そうしないほうが好ましい──どういう意味だ。気でも狂ったのか。さあ、この書類を点検するのを手伝うんだ。受け取りたまえ。私は紙を彼のほうに、突き出した。
そうしないほうが好ましいのです、と彼はいった。
なんたる奇妙なことだ。どうしたらいいのか。
     メルヴィル「書写人バートルビー」



さういふものに私はなりたくない  筑紫磐井


筑紫磐井さんの句集『我が時代』(2014年)からの一句です。
筑紫さんのこの句は俳句ですが、でも川柳に通じるところがあるんじゃないかと思って最終回目前で引用してみました。

〈文学〉のひとつの機能の役割に、〈チャレンジ(異議申し立て)〉があるんじゃないかとおもうんです。
ただこの〈チャレンジ〉は通ってしまうと、〈異議申し立て〉にはならなくなってしまい、〈カノン=正典〉になってしまうので、いつまでも〈よそもの〉として〈チャレンジ〉するしかないような場所にいつづけるしかありません。
たとえば一葉「にごりえ」のお力のように、あるいはメルヴィル「バートルビー」のバートルビーのように〈満ちる〉ことのない場所で、〈それちがうんじゃないか〉〈さういふ〉ふうではないんじゃないかな、といいつづけるしかない。
これはどうしたって〈さう〉ならないための最初から負け戦なんです。〈さう〉なっても、だめなんです。なっちゃっても負けなんです。ならなくても負けなんです。ただ発話だけが、ある。さういふものに私はなりたくない。すなわち、いやだ、と。

お力が満ち足りたら、バートルビーがこれはできればやりたくないといってやらないですませられたら、そのしゅんかん、〈文学〉というファンクションは終わるようにおもうんです。

つまり、表現というのは実はだれひとりとして〈受け手〉がいないんじゃないかともおもうんです。
ずっとデッドレターの宿命を背負わされて。

でも、ことばが到達しない、〈未達のことば〉をうみだそうとするからこそ、そこには〈普遍化〉できない〈ひとつの、1の〉可能性が、いつもうまれる。
すごく孤独かもしれないし、ときどき路頭にまよったり、きえたくなったりするかもしれないけれど、それでも〈そういうものではない〉とおもう(でもすぐにこの考えにたいしてこういうべきです。〈そういうものにだって私はなりたくはない〉と)。

だから、わたしは表現ってどこかでお力やバートルビーになることなんではないかと(も)おもうんです(もちろん、そういうものにわたしはなりたくないわけです。ですが、しかし、それでも)。

だから、〈文学〉は、〈川柳〉は、〈勇気〉は、いったいなんなのかを、もう終わっちゃうので思い切って、あるいは今まで書いてきたことをふりかえって、取り上げさせてもらった句がいったいどんなことを勇気をもって志向していたかということを、ものすごく暴力的にいってしまえば、

さういふものに私はなりたくない

なんではないかと、おもうんですよ。
〈それ〉がきたしゅんかん、〈それ〉をずらす力。しかしまた〈それ〉さえもずれていこうとするちから。すなわち、それ

でもいまお話しながらおもっていたのは、たとえそうだとしても、わたしは

さういふものに(も)私はなりたくない



主体は一貫したものになることも、自己同一的であることもけっしてない。主体を基礎づける排除によって外部に置かれたものが、規定的な否定性として執拗に残存しつづけるからだ。
     ジュディス・バトラー



わたしは、「開かれた普遍」に向かうのではなく、むしろ自己の亀裂の方に、差異を生きる可能性を見いだしたいのです。
   竹村和子『現代思想2000・12』



メルヴィルに『バートルビー』という短編があります。
この短編の中で、メルヴィルは主人公に、「できるならしたくないのですが」という謎めいたことばを語らせる。最後のところで、バートルビーが前に何の仕事をしていたかが明かされる。彼は郵便局に勤めていて、廃棄する手紙を選ぶ係をしていた。つまり、届かない手紙を預かるのですが、その中のどれを廃棄するかを選ぶ仕事です。いわば手紙を殺すというか、デッドレターを選択する作業です。メルヴィルの筆致の冴えているところですが、その手紙の中には謝罪のことばが書かれていたかもしれない、あるいはプロポーズのことばが書かれていたかもしれない。為替のようなものが入っていて、それが届けばある人の人生が変わったかもしれない。写真が入っていたかもしれない。どういうことばが書かれているのかはわからない。届かないけれども、届けられ得る状態のものを捨ててしまう。バートルビーは、その作業を「できるならしたくない」と言い続けていたのではないでしょうか。手紙を殺してはいけないという意味合いがあるのかなと。
そういうものがことばの場であり、文学であり、文学という経験であるというのが、私の前提です。
     合田正人「到来することば」『文学2011/1』



posted by 柳本々々 at 12:30| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋96 勇気そうそう(ええとこれはなだそうそうと掛けていてですね、勇気がぽろぽろとこぼれおちるって意味なんですね、あともちろんSOとも掛けていてですね、ええとわた

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ひっそりと十一月をくぐる野火  石川街子

たましいはいちめんの薄の中に  妹尾凛

瞳孔にひしめきあっている檸檬  八上桐子


M きょうは去年の秋に刊行された『Senryu So Vol.6 終刊号 2014年 秋』(発行 石川街子・妹尾凛・八上桐子)をちょっと読み直してみようかとおもいます。この終刊号でわたし、もともともゲストとして呼んでいただいております。さいきん川柳フリマでフリーペーパーとしても配布されていました。

Y まず石川街子さんの連作「一年(ひととせ)」はどうでしょう。

美しいおじぎで始まる一月  石川街子

から、

十二月入れ換わろうとする軋み  石川街子

までの十二句が、一年として並んでいます。

M わたしこの連作を読み直していてあらためて思ったのが、石川さんのこの連作は、毎月のひとつひとつの月を〈動詞化〉してしまう試みなんじゃないかとおもうんですよね。一月や十二月という月そのものをアクションにしてしまうんです。たとえばこんな句があるんです。

だるま落としのように二月は落とされる  石川街子

二月はこんなことがあったよね、こんな月なんだよね、っていうそういう記述的な定型的口調じゃないんです。月そのものがある場合には物体化してしまう。この本来は物体ではなかったものを〈物体化〉させてしまうっていうのは川柳のひとつの語りの技術だとおもうんですね。以前書いた記事の大正後期の木村半文銭だっておなじだとおもうんですよ。だから、川柳は〈動詞〉が好きなんじゃないかとおもうんですね。世界を動詞化していきたいから。

Y ああ、世界を動詞化していきたいということはおのずと〈身体〉が好きになってくるということですよね、川柳は。じゃあ〈身体〉の話になったので八上桐子さんの連作「からだから」をみてみましょう。

いつかのそう左の腕であった川  八上桐子

八上さんのこの句のおもしろさのひとつに、世界を身体化する、というよりも、もうすでに世界は身体化されていたんだ、という認識がありますよね。

M 「左の腕であった川」って過去形で言い切ってますからね。しかもこの「そう」っていう、自己確認がおもしろいですよね。〈ぶれてない〉んですよ。語り手は以前ちゃんとそのことを知っていた。で、もういちどいま思い出してみて、「そう」と自己確認して、世界が身体であったことを語っている。

Y だからある意味、川柳では世界の始原に〈身体〉がある場合がある。

菫色に咲いているくちびる  八上桐子

これも〈咲いている花〉よりもまず〈咲いているくちびる〉が世界の基調にあるんだっていう認識なんだとおもうんですよ。

M じゃあ妹尾凛さんの連作「いちめんの」にうつりましょう。妹尾さんの川柳のひとつの特徴に〈消える〉ということがあるような気がするんですね。

しんしんと眠るじゅうぶん消えるまで  妹尾凛

雪、雪、わたしを見つけてしまいそう  〃

ずっといっしょに瞬きを数えてる  〃

「消える」「雪」「瞬き」という〈儚さ〉のなかに〈わたし〉や〈いっしょ〉があるんです。

Y わたし妹尾さんの「かくれんぼとても上手でこわかった」ってすごく好きなんですが、これも〈消える〉ことをとおして〈あなた〉にであう句なんですよ。で、なんで〈消える〉かっていうと、これ、石川さんや八上さんにもつながってくるとおもうんですが、妹尾さんの川柳の場合、〈身体〉を特権化しないからじゃないかとおもうんです。だから、〈身体〉の基調がなくなると〈消える〉主題がでてくるんじゃないかって。

M ああ、なるほど。「かくれんぼ」はまさに〈身体を掻き消す遊戯〉ですよね。じゃあ、つぎはこのゲストの柳本々々さんの「二十七時に会いましょう」っていう連作はどうですか。

Y この方は岩松了さんが好きで、岩松さんのエッセイ『食卓で会いましょう』がだいすきなので、このタイトルになっているとおもうんですね。あと、バスが好きなので、バスに乗っている状態の中腰がすきなのと、あと真夜中がすきなので、こういうタイトルになっているとおもうんですよ。この柳本々々って名前は、なんて読むんですかね。さいきん、もう省略して「〈も〉さん」と呼ばれることもあるそうなんですけど。

M ああ、なるほど、はいはい。じゃあ茶番はこれくらいにして石川さん、妹尾さん、八上さんお三方の川柳からそれぞれ一句をひいて終わりにしましょう。

海へと走りたがる七月の自転車  石川街子

むかし空で生まれたことを思い出す  妹尾凛

ねむたげにオカリナの口欠けている  八上桐子

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