2015年06月03日

こわい川柳@ つづくの、こわい。


長続きするやつ、長続きしなかったやつ、いまだに続いているやつ、それがおれなんだろう、続けなくちゃいけない、おれには続けられない、続けなくちゃいけない、だから続けよう、言葉を言わなくちゃいけない、言葉があるかぎりは、言わなくちゃいけない、扉をあければおれの物語、だとしたら驚きだな、もし扉が開いたら、そうしたらそれはおれなんだ、沈黙が来るんだ、その場ですぐに、わからん、絶対にわかるはずがあるもんか、沈黙のなかにいてはわからないよ、続けなくちゃいけない、続けよう。
    ベケット『名づけえぬもの』


逃れないあなたになったおめでとう朝までつづく廊下おめでとう  我妻俊樹 

O 我妻さんの一首です。つづくのって、こわいですよね。勇気のための川柳処方箋やっててもおもったんですけど、200回もつづいたらこわいじゃないですか、200回もやってるのにまだ勇気でてないのかって話しになりますよね、むしろおまえ臆病じゃないかと。つづくのってただそれだけでこわいし、ぶきみなんですよ。意味がでてきてしまうんですよ。つづくだけで。

A ある意味、〈過剰性〉とも結びついて来ますよね。

O この我妻さんの歌も、「朝までつづく廊下」を祝福されてますが、「朝」はなんどでもやってくるんですよ。ある意味、わたしはこれでいいんだ! って「逃れない」わたしとしての勇気の歌でもあるけれど、「つづく」って入ってきてる時点で、その場所でえいえんにふみとどまらなきゃいけない〈こわさ(怖さ/強さ〉〉がでてきてるとおもうんです。

縁側で君を殺していく つづく  樹萄らき

このらきさんの句も、「殺していく」のは一回性だからこわくはないけど、「つづく」のはこわいですよね。つづくということは、遅延や反復ももっていますね。おわらない恐怖です。

A そうか、たとえば、授業に出ていたとして、その授業がいつまでたっても終わらなかったらただそれだけで非日常だし、ぶきみですよね。アニメでよくある円環とかループにつながってきますね。

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O コーエン兄弟の『バートンフィンク』のホテルの廊下も、おわらない・つづく〈こわさ〉がありましたよね。あの廊下って果てがないんですよ。たくさんのひとが死んでいくんだけれども、でもあのホテルには果てがない。あれだけの密閉感を演出しておきながら、廊下は無限なんです。あのホテルは次元がよじれてる。

A コーエン兄弟はボーリングのレーンを印象的に使ったりとか、たとえば『ビッグ・リボウスキ』でもボーリングのレーンが幻想的な空間になったりしてましたもんね。

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O 終わらないこわさといえば、意味が決着しない、えんえんとよくわからない、でもどこかでみた風景をみつづけるというアラン・レネの恐怖のホラー映画『去年マリエンバートで』という映画があって、ええと……(続)

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* 続かないです。



posted by 柳本々々 at 12:00| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋99(最終回) 勇気、出ました!


運命て何だ重なる縞模様  竹井紫乙


M 竹井紫乙さんの句集『ひよこ』からの一句です。この連載「勇気のための川柳処方箋」は紫乙さんの句からはじまったので、紫乙さんの句で終わりにしようと思っていたんですよね。この連載は紫乙さんの「干からびた君が好きだよ連れて行く」から始まりました。

Y この句の「重なる縞模様」がわたしはおもしろいと思うんですよね。縞模様を重ねるっていうことは場合によってはぴったり重なってきれいな〈しましま〉になることもあれば、まったくくいちがって〈まっくろ〉になることだってありますよね。つまり、「運命て」〈やってみるまではわからない〉ってことだとおもうんですよ。だからこの句は「運命て何だ」「重なる縞模様」という問答体なんだけれど、その〈答え〉がですね、「重なる縞模様」という固定化できない〈答え〉によって〈ズラす〉仕組みになってるとおもうんです。運命ってたえず流れていくじぶんじしんを流れてるままにひきうけていくことかもしれないから。

M この「勇気のための川柳処方箋」をやっていてなにか身になったことやいいこと、ふりしぼれた勇気などは、ありますか。

Y そうですね、まず近所のひとに「おはようございます」とちゃんと挨拶ができるようになりましたね。これは勇気でたからなんじゃないかと自分ではおもっています。

M あ、そうですか。それは連載しなくてもできるとよかったかもしれないですね。ほかにはどうですか。

Y 宝くじにあたりましたね。これもびっくりしました。この連載には御利益もあるのかって。

M どれくらい当たったんですか。

Y 20億ガロンですね。

M ガロンってどこの通貨なんですか。ほかにはどうですか。

Y 身長がなんと伸びたんですよ。

M どれくらい?

Y 30センチです。

M それこんど逆に高すぎませんか。

Y 勇気のでる連載をすると身長も伸びるのかってびっくりしました。

M 茶番はこれくらいにしてですね、あのほんとは100回目で最終回にしようとおもったんですが、『理想の図書館』というフランスが出しているブックガイドがあってですね、たしかそれぞれのジャンルにわけて千冊くらい古典的名著を紹介しているとてもたのしい本なんですが、たしかその本のコンセプトが〈千冊目はあなたが決める〉ってことで、千冊目の項目は空欄になっているんですよね。だからそれにならって、100回目はおのおののかたがたがもっている〈勇気の処方箋〉ということにしていただいて、99回目で終わりにすることにしました。

Y 100回目はぜひあなたが書いてください、というやつですね。

M で、かんがえてたんですが、これから夏になっていきますよね。だから、これからのシリーズは、「こわい川柳」がいいんじゃないかと。これはちなみにわたしが川柳にのめりこむきっかけとなった倉坂鬼一郎さんのアンソロジー『怖い俳句』のオマージュにもなっています。

Y なるほど。倉坂さんの『元気が出る俳句』もおもしろかったですよね。まあ99回も勇気について書くと、さすがにもうじゅうにぶんに勇気でてきますからね。自転車にもやっと乗れるようになりました。補助輪はずしました。ところで勇気が出たついでにお聞きしたいんですが、あなたいったい誰なんです?

M いやわたしもお聞きしたいんですが、──あなた、いったい、だれなんです?


生きようと手を繋いだり離したり  添田星人

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posted by 柳本々々 at 06:15| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

勇気のための川柳処方箋98 鍵盤と睡眠。

鍵盤をめくってみればやわらかい  柳本々々

なかはられいこさんから初めて鑑賞をいただいたのがこの句だったんですが、ある川柳の方から「佐藤みさ子さんのこんな鍵盤の句を思い出しました」とメールをいただいたんです。

鍵盤をむき出しにして眠りこむ  佐藤みさ子

で、実はですね、わたし、みさ子さんのこの句がだいすきで、このやわらかい鍵盤の句はみさ子さんの句へのオマージュでつくってみたんですね。

さいきんかんがえていたことなのですが、そういう句に対する句への応答としての句というのはじつは多いのではないか、川柳にはそういう共鳴しあう星座のような潜在的にきらきらしているネットワークがおおいのではないかと川柳の方とお話させていただくことでおもったりもしています。

句が句と応答しあうことによってあるテーマの地層のようなものを形成していく。
そしてそれに〈だれか〉が気が付いて、こんどは重層的な地層として、系譜として、また〈だれか〉が思いがけないかたちで、ゆくりなく、ひきついでいく。

でも、それはめにはみえないから、〈きがつく/きがついてしまう〉かたちで、ずっと、おこなわれていく。

倉本朝世さんが『あざみ通信』で書かれたショートストーリーがあるのですが、そのお話のなかでは鍵盤はこんなふうに描かれています。


「お嬢さん、あなたも気を付けたほうがいいですよ。日没のこんな時間に眠り込んではいけません。光が影に世界を明け渡すほんの一瞬、熟睡している人の鍵盤は剥きだしになります。その鍵盤を見れば、その人の体にどんな音楽が満ちているかがわかるのです(後略)」
    倉本朝世「ゆうやけおじさん」『あざみ通信』4号


ここではみさ子さんの「鍵盤」が、倉本朝世さんのフィクションのなかで「その人の体」の鍵盤として生まれなおしています。そのときに、あっ、と気が付くわけです。

鍵盤って、じつは身体の表面にもあったんじゃないかと。

たとえば、それは、あばらでも、いい。あばらも、みなが、めいめいにもっている鍵盤です。
だから、みさ子さんの句も、あばらをむきだしにして眠っているのかもしれない。
そしてわたしの句だって、あばらをめくってみたら、やわらかい内臓がみえたのかもしれない。

ただ大事なことは、あくまで言語表現としては〈鍵盤〉であるという点です。
つまりここにはピアノさえも人体化されていく、もうひとつの表現の位相がある。
人体はピアノ化するいっぽうで、ピアノもまた人体化していく。

ここであらためてもういちど、みさこさんの句をかんがえなおしてみましょう。みさこさんの句のボディはどんな特質/体質をもっていたか。

鍵盤をむき出しにして眠りこむ  佐藤みさ子

みさこさんの句には、鍵盤の硬さとねむりこむことのやわらかさが対比されています。
わたしはピアノを習っていたので、あの鍵盤のかたいかんじと、あのうえでねむりこむかんじの質感も体感的にすこし感じたりしています。
たとえばむきだしの鍵盤のうえでねむりこんだとしたら、それはピアノを侵食せずにはおかないので、ピアノのやぶれるような音で起こされるでしょう。「眠りこむ」という言語表現は音によって反逆される。ピアノのしたたかなやわらかさ。
もしくはピアノの練習をして、あの鮮血のような独特の色合いの鍵盤カヴァーをかけないまま、むきだしにしたまま、ねむりこんでいるのかもしれない。しかし、むきだしにしたままではいけないという自意識と倫理と頽廃と快楽がこの句には、ある。ねむる緊張感としてのかたさ。
つまり、いいたいことは、このみさこさんの鍵盤の句は「かたさ」と「やわらかさ」の二項対立が成立しそうにみえて、やわらかく煮くずれていくというところにあります。ピアノの和音みたいに、対立しているものが、溶け合っていく。ピアノは実はやわらかいし、ねむりこむことはどこかでかたさをもっている。相互置換的なんです。

溶け合うボディとしての、ピアノ。そしてそれはいずれ、溶け合うからだにも、つうじていくかもしれない。たしかからだの細胞は3年ほどですべていれかわるそうなんですが、ということは、わたしはわたしとして三年以上同一性をボディとして保ってはいられないということです。三年後、わたしはボディとしてはまったくの別人で、いる。だからだれかと手をつないだ手は、さんねんたてば、消えてしまう。

ボディは、つねに、溶解している。

わたしにも、句にも、ピアノにも、ボディがある。
そしてめいめいのボディは、ときに、ゆみなりにさえ、なるのです。勇気をもって弾く気さえあれば。

弓なりになるまで鳴り響くピアノ  樹萄らき

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posted by 柳本々々 at 05:46| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする