2015年06月05日

こわい川柳D ゆるく、うしろに、ゐるよ。

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ゆるキャラになってあなたにつきまとう  浪越靖政


O 浪越さんの一句です。

A この連載、〈こわくない〉んじゃないかと思ってちょっと心配してたんですが、これは〈こわい〉ですね。

O そうなんですよ。「ゆるキャラになって」というわりには、「つきまとう」なので、〈ゆる〉くないんですよ。〈つく〉に〈まとう〉ですから、距離感としても〈ゆる〉くなくて、〈きつい〉。

A いわば、〈きつキャラ〉なんですね。

O ええ。ですけれど、語り手は自身を「ゆるキャラ」だとおもっている。その意識の倒錯のありようもこわさを醸し出しているてんが、おもしろいとおもうんですよね。

A だいたい、そもそも、〈ゆるキャラ〉ってこわいですよね。あれは、なんなんでしょう。

O ひとつに、〈ゆるキャラ〉の構造性があるとおもうんですよ。たとえばですね、本来的には、図像的に、みっふぃーやキティちゃんのほうが〈ゆるい〉とおもうんですよ。

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かんたんな図像ですからね。構造的にも単層なんです。ところが〈ゆるキャラ〉って着ぐるみですよね。たとえば、ふなっしーは着ぐるみを活かして、中のひとがハードに動くことによって重層的なおもしろさを出しているとおもうんですが、そういう重層構造はもう〈ゆる〉くないんですよ。だから〈ゆるキャラ〉だと思っている〈ゆるキャラ〉自身の名付けというか認識が〈ゆるい〉。そういうことをあぶりだしてしまっている句だともおもうんですよ。

A ゆるキャラはゆるくはないんだけれど、その名付けの認識はゆるいってことですよね。アイデンティティがいわばゆるいというか。だけれども、構造としてはきつい。

O そもそも〈ゆるい〉を自称するっていう不思議さがありますよね。わたしって不思議ちゃんなんです、と自称するひとは、じぶんでそれを認識できている点で、〈まとも〉なので不思議ではないというクレタ人的倒錯性がゆるキャラにはあるような気がするんですよね。

A それをいうと、〈こわい川柳〉って自称して始めた以上、こわくなれないだろってリスクがでてくるんですが。

O それはこわい指摘ですね。

タスマニアデビルに着せる作業服  森田律子

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posted by 柳本々々 at 22:29| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こわい川柳C ★☆★☆★☆


光りなさいと星のマークをつけられる   赤松ますみ


O 赤松さんの一句です。

A この赤松さんの句、逆に勇気もらえそうな気もするんですがどうでしょうか。

O そうなんです、ある一面では星をもらえたことによる勇気がでてくるような句です。ただ一方で、この句が徹底的な受動性におかれていることを確認したいんです。まず「光りなさい」という命令です。で、星のマークを「わたされる」ならまだ主体性のチャンスがありそうなんだけれども、

A 「つけられ」てしまうわけですね。ある意味では、〈ぴかぴかさせるやさしい脅迫〉ともいえますね、これは。

O だからわたし、ふっと思ったんですが、この星のマークをつけられたひとが〈ほんとうに光る〉ためには、この「光りなさい」ということばからさえも逃れてじぶんで〈ひかってもひからなくてもそれでいい〉と思える場所をみつけられたときに、それがそのひとの〈光る〉場所になるんじゃないか、って気がするんですよね。「光りなさい」といわれて「はい、ひかりました(わかりました)」だと、それはほんとうにひかってるとはいえないんじゃないかって。

A そういえば最近わたしが読んだ荻原裕幸さんの文章で荻原さんがこんなことを言われていたことがとても印象的だったんですよ。


特別な人間の中の一人ではなく、単に自分自身でありたいと今は思ふ。すぐれた作品の前に、まづ自分自身である作品でなければ、書くことに何の意味も見出すことはできないと思はれるから。
   荻原裕幸『短歌現代 1993・5』


ただたんに「光りたい!」ではなくて、むしろ自分の場所を場所として受け止められる勇気さえあれば、それはおのずとひかってくる、いや、ひかってもひからなくてもいいような境地に立つ、ってことなんじゃないかとおもうんですよ。だいたい〈書く〉という行為は〈光る〉ためにやっているわけではなくて、〈(もういちど)書く〉ために〈書いて〉いるんだとも、おもうんですよ。

O そういえば同じ号で穂村弘さんが、


一首を作ってゆく途中で、おおよその最終目標というか着地点のようなものを意識するのだが、作り始めてからその着地点まで途中一度も歌の姿を見失わない時は、できあがった歌が気に入らないことが多い。
    穂村弘『短歌現代 1993・5』


って書かれていたんですが、これも少し荻原さんの境地と似ているとおもうんですよね。〈わたしが! わたしが! なんでわたしは!〉ではなくて、ふっと〈わたしが!〉を放棄したときに、〈わたし〉ではなくて〈書かれたものそのもの〉がふいに光り出す、そういうことをお二方ともおっしゃっていたんじゃないかなあってちょっと思ったりもしました。ずいぶん昔の発言を引用させていただいているので申し訳なくもあるんですが、でも言説の光のようなものはそのひとが〈書くという行為〉に意識的なら、案外どれだけ時間がたっても変わらないような気がします。

A そう考えてみると、さっきの赤松さんの句も徹底した〈わたしの放棄〉としても読めるから、またちがった意味合いがでてくるかもしれないですね。光るというのは自分で光るものでもないし、光ることを放棄したときに、ある意味、おのずとひかっていくというか。

O じゃあ最後にこの赤松さんのぴかぴかの句のまったく逆のダークしかない場所を描いた俳句をご紹介して終わりにしましょう。魔法使いのガンダルフがよく『ロードオブザリング』のなかで「闇の世界に還れ!(ゴー・バックー・シャドー!」と叫んでいましたが、ここにはほんとうに〈闇〉しかないです。ということは、

消えた映画の無名の死体椅子を立つ  林田紀音夫


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posted by 柳本々々 at 06:24| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする