2015年06月06日

こわい川柳F 夜が掴む

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人生の道の半ばで正道を踏みはずした私が目をさましたときは暗い森の中にいた
         ダンテ『神曲』



『雨月物語』の統一的な主題は、情念と執着である。主人公たちは、復讐の情念に取りつかれ、信義に執着し、愛欲に身をさいなまれる。しかも、いずれも常識をはるかに飛び越え、やがてこの世の境界をも越えてしまう。
     長島弘明『日本文学史事典 近世編』



やがて少女をわしづかみする池の声  倉本朝世


O 倉本さんの一句です。倉本さんの川柳は実はけっこうこわくてふしぎな川柳が多いです。

A 前回話し合った記事ともつながってきますが、この川柳でも「声」が〈物質化〉して「少女をわしづかみ」してますね。

O この〈触感〉も実は川柳的詩法として特徴的なんじゃないかとおもうんですね。こういうのを〈触質化〉って呼んでみたいんですが。

A なにか〈さわれる感じ〉をかもしだす感じですね。

O とくにこの句では「やがて」という時間のアバウトな流れや「少女」というアバウトな名称に対して、「わしづかみ」ととつぜんアクションがビビッドに具体化されるのがこわいとおもうんですね。あのよく怪談で「いまおまえの家のまえにいるよ」「いま階段をあがっているよ」「いま階段をのぼりきったよ」「いま玄関だよ」「いまおまえのうしろにいるよ」ってだんだん〈プロセスが具体化〉されているパターンってあるじゃないですか。あれにちょっと近いのかなともおもうんですよ。

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A この〈声〉の〈触質化〉って、たとえば漫画なんかではつげ義春さんの「夜が掴む」を思い出しますよね。夜が物質化し、触質化し、こちらをわしづかみしてくるという。考えてみると、つげさんも〈なにもない〉ことに抒情をずっと見いだしていたひとですよね。「無能のひと」という漫画もあるけれど、「無」だからこそ抒情がわいてくる。でもその抒情はほんとうに抒情なの? という主人公によく付き添っている妻の発話と視線によってたえず抒情が相対化されていくのもつげさんの漫画の特徴だと思うんですが。

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O 触質化といえば、

駅をめくればうっすら雨月物語  内田真理子

という内田さんの句もあります。「駅」が〈めくる〉ことができる点において、声の触質化、夜の触質化と通底しています。駅っていうのは近代になって敷設され、鉄道が国土の隅々まで行き渡ることによって空間を均質化していく近代装置なんですが、それがめくられて近世文芸の『雨月物語』に結びついてしまう。でもどこかでそういった均質化する鉄道が抑圧してきた空間の権力をこの句は告発しているようにも思いますよね。『雨月物語』のなかの「浅茅が宿」もある意味〈空間喪失〉の物語ですよね。生きていると思っていたはずの妻が実は死んでいた。あると思っていた空間はとつぜんめくられて喪失してしまう。

Y つげ義春さんの「無能の人」のなかで「この世界にあたしたちだけみたい」「いいじゃねえか、俺たち三人だけでも」ってセリフがあるけれど、『雨月物語』をある意味、反転したセリフですよね。「浅芽が宿」もたとえば「蛇性の淫」なんかも〈おれたちだけでも〉が貫徹できなかった世界ですからね。

O たぶん上田秋成の『雨月物語』も、つげ義春の『無能の人』も共通するテーマは、〈たとえいかなる状態でも愛は成立しるのか〉ってことなんじゃないかとおもうんですよね。あともうひとつは『無能の人』も「蛇性の淫」の主人公も二人ともある意味で〈読書家〉ですが、〈文化資本〉にあまりにも入れ込んじゃうと〈愛〉が成立しづらくなる。本を読むのも、文章を書くのもほどほどにっていう。

Y たいへんに、こわいことです。

風の吹く窓辺で「ノン」という手紙  峯裕見子

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posted by 柳本々々 at 09:26| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

こわい川柳E 穴と穴


穴よりも大きなアアが残される  北村幸子

O 北村さんの一句です。直観なんですけれども、川柳は〈穴〉が好きなんじゃないかなって気がします。あとは、この北村さんの句にあるようにどこにも回収できない〈感嘆としての発話〉なんかも。

A 川柳は「穴」と「アア」が好きってことですね。

O かんがえてみるの、「穴」も「アア」もどこかで身体をめぐることばなのかな、という気もしてきます。身体には穴がたくさんあいていますが、「アア」というのはその穴を通り抜けていくわけですね。気管とか口腔などの穴を。

A あああとかおおおおとかううううとか感嘆詞って身体の余剰のような気がするんですよね。からだやことばをもてあまして、じぶんのからだが手にあまって、それでもなにか発話したいときにもう意味じゃなくなって、それでも〈声〉だけがでていくような。

O 北村さんの句を具体的に検討してみると、ここでは「穴」と「アア」を比較する構文になっていますから、「穴」と「アア」は似てるんですよね。「穴」と「アア」はどこが似てるんだろうとおもうと、〈なにもない〉ことがそもそもの存在の基盤になってるというところが似てますよねを

A 穴ってなにもない場所が場所になってる部分ですもんね。それは〈ことばの表面〉、〈ことばの皮膚〉のようなもので、ことばによってなにもない場所が場所化するのが、〈穴〉ですよね。ところが〈穴〉とことばで名付けした瞬間、マジカルなちからが出てくる。映画『マルコヴィッチの穴』みたいに。あの映画は通過儀礼としての〈穴〉を外部化・物質化してしまう話だとおもうんですよ。

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O 「アア」もそうですね。ああ、とため息のような、吐息のような、徒労のような、失望のような、嘆息をもらしたときに、それは〈気分の皮膚〉のようなものとしてあらわれてくる。

A この句はでも「残される」ってさいごに物質化してるのが特徴ですよね。なにかブロックのような大きな「アア」が転がって終わる気がするんですね。その意味では、ちょっと『はじめ人間 ギャートルズ』のような文字の物質化を思い出してしまいますね。

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O だからある意味、漫画的な句ともいえるんですが、かんがえてみると、漫画の擬音ってすべて擬音が物質化していくんですね。漫画に聴覚はないから。だから、そこらへん川柳と通底するぶぶんがあるかもしれませんね。

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A ランダムに岩下慶子さんの漫画『ボッコンリンリ』から例をあげてみましたが、ここでは「ヘロン」という擬音語が、視覚・物質化され、さらにスクリーントーンで濃淡のカラー付けがなされることによって「ヘロン」そのものがある気分をもった自律した意味作用としてたちあがっています。

O 最後に短歌から〈ああ〉の一首と、また、上田信治さんが〈ああ〉について考察されている記事が『週刊俳句』にありますのでそれをご紹介して終わりにしたいとおもいます。

成分表59 鳴き声 上田信治

ああむこう側にいるのかこの蠅はこちら側なら殺せるのにな  木下龍也


posted by 柳本々々 at 06:52| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする