2015年07月19日

「ふらすこてん」第四十号

「ふらすこてん」第四十号。
発行人は筒井祥文、編集人は兵頭全郎。

以下、筒井祥文選の同人欄「たくらまかん」から少しだけ抜粋。

 私たちの乳房は今も4月バカ  徳田ひろ子
 居酒屋を出れば僕らは暗合句
 素麺に戻ってしまったナルシスト
 スピーチの半ばで湧いてくる原油  湊圭史
 平仮名の「の」を一つずつ放りだす
 トロフィーを手渡すロボットの利き手  兵頭全郎
 ドーナツと穴とを分けてお届けに  
 粘着という語苔むす秋葉原  きゅういち
 遺伝子の翻訳として黒揚羽  増田えんじぇる
 哲学の道で南瓜の馬車になる  高橋蘭
 役立たずに囲まれている雌蕊かな  山田ゆみ葉
 おばあさん弘田三枝子に戻りそう  石田柊馬
 良い脳で劣化しているのが分かる  黒田忠昭
 一拍と二拍目のあわいで殺人  阪本きりり
 ニューハーフなんですもの揺れますの  山口ろっぱ
 肋骨の匂いで友達を選ぶ  月波与生
 廊下を滑って行く斑の乳牛  井上一筒
 さようなら自分の舌を舐めておけ  筒井祥文

徳田の二句目。
川柳では、固定観念による類型化は作品を陳腐にするばかりでなく、暗合句を生んでしまうリスクがあるため気をつけなければいけないが、反対に一般社会では、固定観念による類型化が社会を円滑にし、秩序を保つことに貢献している。
だからこそ人々は、居酒屋に寄って愚痴をこぼしてみたり、アホな一発芸を披露したりして類型から自分を解放している。
暗合句→居酒屋→暗合句→居酒屋→暗合句(以下略・・・・・・という繰り返しによって日本人は心のバランスを保っているのである。

湊の二句目。
これは、ある特定の文字を使わずに文を作っていく「リポグラム(文字落とし)」のことかしら。
この手法で書かれた小説としては筒井康隆の『残像に口紅を』が知られている。
というわけで湊の二句目から「の」を消してみよう。

 平仮名を一つずつ放りだす

承知しました。という訳で、

 平仮名一放

兵頭の二句目。
ドーナツと穴とを分けるなんて物理的にできそうにない。
とすると、ドーナツの穴ってじつは数学の〈点〉みたいに概念的なものなの?などと難しいことを考えてしまい、ちょっといま目まいがしている。
でも、くらくらさせられるのは大好きだ。

山田の句は「役立たず」という措辞が気にいった。
この雌蕊、つぎには「この豚!」とでもいいそうだ。

   * 

さて、6月6日に行われた句会のレポートを見たら、俳人の岡村知昭の名前を見つけた。
週刊俳句編『俳コレ』(邑書林)で岡村の俳句を見たとき、わたしの抱いていた俳句のイメージと大きくかけ離れていて、驚いた経験がある。
兼題「賭ける」の蟹口和枝選で「秀」になっていた句があり、次のとおり。

 プリンならいくらでもあるカジノかな  知昭

また岡村が選をした兼題「首」の「秀」も見てみよう。

 諦めたイギリス人のような首  祥文

ふらすこてん40.JPG

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2015年07月18日

わかろうとするから線がふるえだす   ひとり静

ひとり静の第2句集『海の鳥・空の魚U』(新葉館出版)より。

ひとり静さんとお会いしたことはないが、お名前は以前からよく知っていた。
筆名(ですよね?)がオモシロいので覚えたという面もあるが、それよりも、わたしが川柳の情報を得ようとネットや柳誌に触れていく中でおのずと覚えた川柳人だ。
そして、おのずと覚えてしまったというそのことが、何ともいえず感慨深い。
それは川柳界ならではの事情による。

川柳には柳壇がない。
新聞の川柳投句欄としての新聞柳壇こそあるものの、短歌での歌壇に相当するような規模の公や共同意識やネットワークは、少なくともわたしの経験したかぎり川柳には存在しない。
また、若い歌人たちは、既成歌壇とはべつの場をインターネットによって形成しているが、それに相当するようなものも川柳ではまだまだ発展途上だ。
川柳人はネットを使って交流し合ったり、情報発信することがそれほどないのだ。
これは良いとか悪いとかのお話ではない。
要は川柳人の共有領域というのは狭いんですよ、という現状のお話だ。
穂村弘や斉藤斎藤の名前を当然知っていて、作品にもかならず一度は触れているという前提で交流できる短歌界とは環境が違うというお話だ。
その意味で、わたしの狭く偏った川柳領域に既知の存在としてひとり静さんがいることは、ちょっぴり大げさかも知れないが〈縁〉のようなものを感じたりしてしまうわけである。

さて、掲出句。
何を「わかろうとする」のか対象は明示されていないが、ふつう「わかろうとする」ことは理性的な態度である。
また、他人の気持ちを「わかろうとする」ならばヒューマニズム的な態度でもある。
だから一見善いことのように思える。
でも、「わかろうとする」ことは、「線」=境界を越えて侵入していくということにもつながり、客体によって主体の領域が脅かされる事態ともいえる。
「ふるえだす」という措辞は、「わかろうとする」こと全般がもたらす領域侵犯の惧れがあらわれているのではないだろうか。

例をあげれば、ストーカーの恐怖というのは、過剰に「わかろうとする」ことにあるといえるだろう。
また、ちょっと次元は違うかも知れないが、国家間でもおなじことがいえそうだ。
ひと昔前のようにインターナショナル、国の際と際、つまり各国〈間〉という国際関係性であれば、相互関係のことなのだから悪い気はしない。
だがグローバル、つまりグローバリズムにのっとった〈世界規模〉を主張されると、わたしのばあい臆病だから「ふるえだ」してしまう。
このばあいは、じぶんの国のあり方が強い国によって無化されてしまう危険性に震えてしまっているのだが、それでもグローバルスタンダードは〈分かり合う基準を設けましょう〉という提言から始まるのだからおなじである。

このように「わかろうとする」ことの裏面を考えた途端、掲出句は〈穿ち〉の句としてたちあがってくる。

 線いっぽん引いただけでも意味がある
 まとまると重たくなってくる善意


おなじ句集にある作品だが、これらをあわせ読むことで作者の感じ方が一層うかがえる気もする。

さて、掲出句のように、ひとり静の川柳には〈省略〉による抽象の妙という特長がある。
 
 背景にキリンの首を敷き詰める
 ピーマンという前例はありません
 触れられたとたん善玉菌になる
 ほとんどが水分なのに偉そうに
 ちょっと目をはなすと増えているゴリラ


何の背景か、何の前例か、誰が触れたのか、何が殆ど水分なのか、何処でゴリラが増えているのか明示化されてはいない。
しかし、それによって散文としての欠落感が生じ、その欠落感によって逆説的に川柳としての屹立感が生れている。
こういう構造は、川柳であれば徳永政二や畑美樹の作品に、短歌であれば東直子の作品によく見られる。

 よくわかりました静かに閉める窓   徳永政二『徳永政二フォト句集1 カーブ』
 こんにちはと水の輪をわたされる   畑美樹『セレクション柳人12 畑美樹集』 
 つぶしたらきゅっとないたあたりから世界は縦に流れはじめる  東直子『青卵』


外山滋比古の俳句評論で『省略の詩学 俳句のかたち』(中公文庫)という本があるが、90年代以降、川柳や短歌にも省略の妙があじわえる作品が増えてきたと感じる。
そして、今回取り上げたひとり静は、その流れの最前線にいる川柳人とも思える。

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2015年07月16日

木曜日のことのは蒐集帖D 目は奇数

何度数えても友だちの目は奇数       山口ろっぱ  (第57回 川柳北田辺 より)

奇数と偶数、どっちが好き?ときかれたことがあった。
心理テストの類だったのだろうか。
わたしの場合、まよわず「奇数」である。
きっちり半分に割れないところがかっこいい。

奇数は英語ではodd number。oddは「奇妙な」という意味だ。
左右の目の色がちがう猫がいる。左右の目の色がちがう状態をodd eyedというらしい。
odd eye だけでは和製英語だとか。参考:eyes mismatched in colour

動物の目のほとんどはふたつ。立体視のためだというが、霊長類のように二つの目が同じ面にならんでいるならわかるけれど、犀はどうなんだろう、魚は?いったいどんな視界をかれらは持っているんだろう。

さて「目は奇数」の句。
浮かんだのは、手塚治虫の『三つ目がとおる』だった。おおきな絆創膏でかくされることもある三つめの目は異能の証である。
でもまてよ、なのである。
「目はみっつ」とは書かれていない。さていくつなんだろう。
しかもこの目、とらえがたい位置関係にあるらしい。もしくは点滅?しているのか。何度も数えたくなるような在り方のようだ。
顔だけではなくて手のひらや頭頂部やひかがみにもあるのかもしれない。
いったいその友だちの目がとらえる世界とは・・・・・!?

おもしろいのは数える人が平静であることで、「やっぱり奇数だなぁ」と確認している。

まさに奇妙。

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2015年07月13日

流れよわが涙、と精神科医は言った:200字川柳小説  川合大祐

わたしはほほえみ、流れよわが涙と言った。わだちはほほえみ、流れよわが涙と言った。わだちはほぼ絵美、流れよわが涙と言った。あだちはほぼ絵美、流れよわが涙と言った。
あだちはほぼ絵美、凍れよわが涙と言った。あたしほほほ絵美、凍れよわが涙と言った。あたしほほほエム、凍れよばか涙と言った。あたしままポエム、恐れよばか涙と言った。
涙と言ったことだけは忘れずにいたかった。わたしはほほえみ、流れよわが涙と言った。

  コピーアンドペースト微笑するワタシ  大西俊和(「クリッククリック」より)

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2015年07月10日

神様に添付ファイルでワタクシを   大西俊和

「今月の作品」にご寄稿いただいた大西俊和の連作「クリッククリック」より。

連作中の漢字とカタカナの使い分けから察するに、「ワタクシ」というカタカナ表記のレトリックは、パソコンの世界の仮想現実に存在する「ワタクシ」を示していると思われる。
その意味から言えば、この「ワタクシ」は〈もの〉化された私ということができるだろう。
〈もの〉とは、名詞的で主語になりうる客観対象物のこと。
だから、パソコンやスマホの外側から眺めたり知覚したりするだけの「ワタクシ」は、言わば〈もの〉的な存在なのである。
逆に、もし「私」と漢字で表記されれば、それは〈こと〉的な存在だということができる。
〈こと〉とは、行為的で述語的な事柄のこと。
つまり、身体的な行為や実践を通じてこの世界にかかわっていく様態をいう。
だから、もし「私」と表記されていたら、それは単なる客観的な知覚対象である〈もの〉ではなかっただろう。

さて、掲出句の「ワタクシ」は、仮想空間における〈もの〉としての「ワタクシ」が畏れ多くも「神様」にかかわっていく。
しかも、「添付ファイル」というこれまた〈もの〉を通しているのだから、二重に間接的な仕方で神様にかかわっていこうとしているのだ。
ふつうは、〈こと〉という行為・実践=信仰を通じて主体的にかかわっていくのが「神様」だ。
ところが掲出句では、〈もの〉としての「ワタクシ」が神に接していくことで、結果的に「神様」をも〈もの〉化して「カミサマ」と見なしてしまっている。
行為・実践を通じた漢字の「私」がかかわっていくことで漢字の「神様」も成り立つわけだから、カタカナの「ワタシ」がカタカナの「カミサマ」にかかわることは何の意味もなさない。

このように〈もの〉〈こと〉という区分けを用いて心の病を分析したのは精神科医の木村敏である。
木村敏というひとは、西田幾多郎や和辻哲郎といった日本の思想家ばかりでなく、ハイデガーなど西欧の実存思想家にも造詣が深い。
そして、彼らの思想を精神医学的見地から説明できる人物だ。
わたくしごとで恐縮だが学生時代、エリオットや(特に後期)ウィトゲンシュタインなどの保守思想と、キルケゴールやハイデガーなどの実存思想というものが、西田幾多郎の哲学と一脈相通ずる気がしていた。
西田幾多郎や西谷啓治が影響を受けた道元の思想をゼミで勉強したとき、合理主義を懐疑するところから出発し、人間の行為や実践にもとづいて思索を進めていく西欧の保守思想や実存思想とリンクしたのだ。
そのとき、どういう経緯で見つけたのかは忘れたが木村敏の本と出会い、東洋と西洋の思想を繋ぐうえでとても参考になったのを覚えている。

木村は次のように言う。

 私たちは、「死というもの」を怖れることはないけれども、自分が「死ぬということ」はこの上なく恐ろしいことである。また私たちは「存在というもの」に対しては無関心でいられるけれども、「存在するということ」は私たちにとって重大問題である。「美というもの」は実践を離れた美学的考察の対象となりうるにすぎないけれども、「花が美しいということ」は私たちを家からさそい出して一日の遊山という行動を起こさせる。
 このようにして、「もの」が私たちにとって中立的・無差別的な客観的対象であるのに対して、「こと」は私たちのそれに対する実践的関与をうながすはたらきをもっている。

つまり、「・・・・・・ということ」という言いかたの中には、私自身の世界に対するかかわりかたが、あるいは私の生きかたが含まれている。いいかえれば、「・・・・・・ということ」は「私があるということ」と表裏一体の事態としてのみ成立する。(以上『自分ということ』)

〈(・・・・・・という)こと〉が「私があるということ」と表裏一体の事態だとすれば、逆に言えば〈(・・・・・・という)もの〉は「私がない」事態だろうと推測できる。

 コピーアンドペースト微笑するワタシ
 ワタシの画像もポイとゴミ箱に


上記の議論にそくして言えば、ネットの仮想現実にいる「ワタシ」は〈もの〉であるのだから、「私がない」事態である。
だから〈もの〉と見なしたうえで「微笑するワタシ」の画像をいくらでもコピペできるし、用が済めばそれを「ポイとゴミ箱に」捨てられる。

この現実世界で、身体を持って存在する「私」には有限性がある。
別のいい方をすれば、現実に生きる「私」は不自由な存在である。
たとえば、じかに対面して他人と会話をするのはとても疲れるし、一瞬で海外の情報にコミットすることもできないし、そして何よりも「ワタシ」と違っていつかは死んでしまう運命だ。
顕在的にしろ潜在的にしろ、「私」は〈死の不安〉を抱え持っている。
しかし、現代の都市は、墓地を壁で囲ったり公園化したりして〈死〉を隠ぺいするように設計されている。
のみならず、人はインターネットなどに代表されるテクノロジーによってちょっとした万能感をおぼえ、あたかも〈死〉の訪れを忘れてしまっているかのようだ。

 ダウンロード途中フリーズした命

「命」というのは、いつかはそれが〈死〉に回収されると実感できたとき、一所懸命の「命」となりうる。
その意味で「命」は〈もの〉ではない。
どこまでいっても世界の中に〈こと〉として存在するしかないのが「命」だ。
だから「命」を〈もの〉のように「ダウンロード」しようとすれば、それは「フリーズ」してしまうことになる。

現代の技術革新は、生活環境をどんどん〈もの〉化の方向に進化させ、身体性を伴う面倒臭い〈こと〉から人間を解き放っている
それが良いか悪いかについてはいくらでも意見を出せると思うが、いずれにせよ明らかなのは、現代人が技術文明をひたすら無視したり、過去に回帰したりすることはもう出来ないという事態だ。
その状況認識が以下の句だと思う。

 ネットサーフィンもうエンジェルに戻れない

大西俊和の連作「クリッククリック」は、めくるめく技術革新・高度情報化社会に生きるしかない現代人の宿命を見据えたところから、〈もの〉と〈こと〉の狭間で翻弄され、葛藤する現代人の姿を描いているのだ。

なお、「あとがき全集」でも「クリッククリック」についての記事が書かれているので、あわせてご覧いただきたい。

posted by 飯島章友 at 07:00| Comment(0) | 飯島章友・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする