2015年07月10日

神様に添付ファイルでワタクシを   大西俊和

「今月の作品」にご寄稿いただいた大西俊和の連作「クリッククリック」より。

連作中の漢字とカタカナの使い分けから察するに、「ワタクシ」というカタカナ表記のレトリックは、パソコンの世界の仮想現実に存在する「ワタクシ」を示していると思われる。
その意味から言えば、この「ワタクシ」は〈もの〉化された私ということができるだろう。
〈もの〉とは、名詞的で主語になりうる客観対象物のこと。
だから、パソコンやスマホの外側から眺めたり知覚したりするだけの「ワタクシ」は、言わば〈もの〉的な存在なのである。
逆に、もし「私」と漢字で表記されれば、それは〈こと〉的な存在だということができる。
〈こと〉とは、行為的で述語的な事柄のこと。
つまり、身体的な行為や実践を通じてこの世界にかかわっていく様態をいう。
だから、もし「私」と表記されていたら、それは単なる客観的な知覚対象である〈もの〉ではなかっただろう。

さて、掲出句の「ワタクシ」は、仮想空間における〈もの〉としての「ワタクシ」が畏れ多くも「神様」にかかわっていく。
しかも、「添付ファイル」というこれまた〈もの〉を通しているのだから、二重に間接的な仕方で神様にかかわっていこうとしているのだ。
ふつうは、〈こと〉という行為・実践=信仰を通じて主体的にかかわっていくのが「神様」だ。
ところが掲出句では、〈もの〉としての「ワタクシ」が神に接していくことで、結果的に「神様」をも〈もの〉化して「カミサマ」と見なしてしまっている。
行為・実践を通じた漢字の「私」がかかわっていくことで漢字の「神様」も成り立つわけだから、カタカナの「ワタシ」がカタカナの「カミサマ」にかかわることは何の意味もなさない。

このように〈もの〉〈こと〉という区分けを用いて心の病を分析したのは精神科医の木村敏である。
木村敏というひとは、西田幾多郎や和辻哲郎といった日本の思想家ばかりでなく、ハイデガーなど西欧の実存思想家にも造詣が深い。
そして、彼らの思想を精神医学的見地から説明できる人物だ。
わたくしごとで恐縮だが学生時代、エリオットや(特に後期)ウィトゲンシュタインなどの保守思想と、キルケゴールやハイデガーなどの実存思想というものが、西田幾多郎の哲学と一脈相通ずる気がしていた。
西田幾多郎や西谷啓治が影響を受けた道元の思想をゼミで勉強したとき、合理主義を懐疑するところから出発し、人間の行為や実践にもとづいて思索を進めていく西欧の保守思想や実存思想とリンクしたのだ。
そのとき、どういう経緯で見つけたのかは忘れたが木村敏の本と出会い、東洋と西洋の思想を繋ぐうえでとても参考になったのを覚えている。

木村は次のように言う。

 私たちは、「死というもの」を怖れることはないけれども、自分が「死ぬということ」はこの上なく恐ろしいことである。また私たちは「存在というもの」に対しては無関心でいられるけれども、「存在するということ」は私たちにとって重大問題である。「美というもの」は実践を離れた美学的考察の対象となりうるにすぎないけれども、「花が美しいということ」は私たちを家からさそい出して一日の遊山という行動を起こさせる。
 このようにして、「もの」が私たちにとって中立的・無差別的な客観的対象であるのに対して、「こと」は私たちのそれに対する実践的関与をうながすはたらきをもっている。

つまり、「・・・・・・ということ」という言いかたの中には、私自身の世界に対するかかわりかたが、あるいは私の生きかたが含まれている。いいかえれば、「・・・・・・ということ」は「私があるということ」と表裏一体の事態としてのみ成立する。(以上『自分ということ』)

〈(・・・・・・という)こと〉が「私があるということ」と表裏一体の事態だとすれば、逆に言えば〈(・・・・・・という)もの〉は「私がない」事態だろうと推測できる。

 コピーアンドペースト微笑するワタシ
 ワタシの画像もポイとゴミ箱に


上記の議論にそくして言えば、ネットの仮想現実にいる「ワタシ」は〈もの〉であるのだから、「私がない」事態である。
だから〈もの〉と見なしたうえで「微笑するワタシ」の画像をいくらでもコピペできるし、用が済めばそれを「ポイとゴミ箱に」捨てられる。

この現実世界で、身体を持って存在する「私」には有限性がある。
別のいい方をすれば、現実に生きる「私」は不自由な存在である。
たとえば、じかに対面して他人と会話をするのはとても疲れるし、一瞬で海外の情報にコミットすることもできないし、そして何よりも「ワタシ」と違っていつかは死んでしまう運命だ。
顕在的にしろ潜在的にしろ、「私」は〈死の不安〉を抱え持っている。
しかし、現代の都市は、墓地を壁で囲ったり公園化したりして〈死〉を隠ぺいするように設計されている。
のみならず、人はインターネットなどに代表されるテクノロジーによってちょっとした万能感をおぼえ、あたかも〈死〉の訪れを忘れてしまっているかのようだ。

 ダウンロード途中フリーズした命

「命」というのは、いつかはそれが〈死〉に回収されると実感できたとき、一所懸命の「命」となりうる。
その意味で「命」は〈もの〉ではない。
どこまでいっても世界の中に〈こと〉として存在するしかないのが「命」だ。
だから「命」を〈もの〉のように「ダウンロード」しようとすれば、それは「フリーズ」してしまうことになる。

現代の技術革新は、生活環境をどんどん〈もの〉化の方向に進化させ、身体性を伴う面倒臭い〈こと〉から人間を解き放っている
それが良いか悪いかについてはいくらでも意見を出せると思うが、いずれにせよ明らかなのは、現代人が技術文明をひたすら無視したり、過去に回帰したりすることはもう出来ないという事態だ。
その状況認識が以下の句だと思う。

 ネットサーフィンもうエンジェルに戻れない

大西俊和の連作「クリッククリック」は、めくるめく技術革新・高度情報化社会に生きるしかない現代人の宿命を見据えたところから、〈もの〉と〈こと〉の狭間で翻弄され、葛藤する現代人の姿を描いているのだ。

なお、「あとがき全集」でも「クリッククリック」についての記事が書かれているので、あわせてご覧いただきたい。

posted by 飯島章友 at 07:00| Comment(0) | 飯島章友・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする