2015年09月26日

辺にこそ生きよ:200字川柳小説  川合大祐

2015年:玉音放送公開される。20XX年:玉音ブーム起きる。iTunesに玉音放送配信開始。ダウンロード数1位を21週獲得する。20XX年:「玉音ちゃん」萌えキャラ化。20XX年:TVアニメ『おしえて!玉音ちゃん』放送開始。20XX年:同人誌『あぶない!玉音ちゃん』摘発される。空白の一コマ。空白に私たちの欲望を詰め込んで、一体何がしたかったのだろう? 20XX年:玉音目ざまし発売。日本滅亡する。

  天皇の声の目ざましならあるが  くんじろう(『第59回川柳北田辺』より)

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2015年09月24日

木曜日のことのは蒐集帖 12 くるぶしくるぶし

入間市とくるま市にも並ぶくるぶし 兵頭全郎 
(ふらすこてん 第41号掲載/第80回句会/27年8月1日/席題『くるぶし』/選者山口ろっぱより)


ひとそれぞれ情緒が動く言葉があると思う。
わたしの場合、動物なら「犀」だし、からだの部位なら「二の腕」そして「くるぶし」。いろんなストーリーが浮かぶ言葉だから、全郎さんの句には意表をつかれ、たのしくなった。
全郎さんのくるぶしは意味が剥がれて音だけになっている。
「入間市とくるま市」「くるぶし」の後方の音に着目した、つまり逆引き辞典のなかでの並びの音。
わたしは逆引き辞典を持たないので、ネットの辞書の「るまし」後方一致で検索してみた。「入間市」と「くるま市」はお隣さん。さらに隣は「しるまし」で漢字だと怪・徴で奇怪な前兆の意である。
おそらく「入間市とくるま市」と「くるぶし」の並びの関係は、後方二音が「まし」と「ぶし」なのだから、逆引き辞典ではそう遠くない場所にあるのだろう。
(韻を踏ませることを考えるなら逆引き辞典は有効に活用できそうだ)
くわえておもしろいのは「くるぶし」に「入間市とくるま市」という地名をあわせたところで、あたかも架空の土地「くるぶし」が地図上に並んでいるようだ。一度剥がされた意味が違う顔で貼りつけられる。どんな町なのか。仔細に想像してみるとおもしろいかもしれない。

同じ句会での、くるぶしの句。

くるぶしから鶴を出したりしまったり  榊陽子
「くるぶしっ」とさけぶ宮島の鳥居   石田柊馬


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2015年09月22日

【川柳インタビュー】倉間しおりさんに聴く〜世界はたやすく転覆しうる〜(聴き手:飯島章友)

kaguya.JPG

飯島章友(以下、I) 今回は高校生の川柳人として注目されている倉間しおりさんから、いろいろお話をうかがってまいります。
川柳といえば定年後の趣味として始める方が多い印象ですが、倉間さんのばあいお祖父様(津田暹氏)の影響で三歳ごろから川柳を始められたそうです。だからもう13、4年のキャリアということになるわけで、私よりも先輩です。
じっさいに句会へ行ったり、柳誌に投句を始めたのはいつごろからでしょうか?

倉間しおり(以下、K) 三才の時に祖父を通じて「犬吠」という千葉の川柳誌のジュニア柳壇へ毎月二句ほどのペースで投句を始めました。それから十四才になるまで欠かさず続けていたと思います。句会の方は千葉みなとで開催されていた「わかしお句会」というところに中学一年生の時に何度か参加しました。これも祖父の紹介です。

 そんな倉間さんは平成25(2013)年12月に第一句集『かぐや』(新葉館出版)を上梓され、いよいよ川柳作家として広く知られるようになりました。『かぐや』を手にして思ったのは、表紙、扉、帯といった装丁が川柳句集としては豪華なんですね。あと印象的だったのは、全面黒塗りの紙面に白抜き文字で句が掲載されているところです。冒頭の「ひとりでは月に帰れぬかぐや姫」という句などは、文字に光彩というか反射効果が使われていますね。
こういったもろもろの装丁やレイアウトは、倉間さんの句集へのイメージが反映されているとみていいでしょうか?

 冒頭句の「ひとりでは月に帰れぬかぐや姫」、末句の「帰り道ふと眼で月を探す癖」、タイトルや後書きなどに見られるように、「月」が当時の私にとって重要なモチーフの一つでした。句集の装丁にはそのイメージを特に強く反映して頂けたように思います。

 句集全体を読んで気づいたのは、「手のひらで世界が動く文庫本」といった瑞々しさを感じさせる句がある反面、こわい川柳も散見されるということです。 

 死屍累々と枝豆の皮
 大根の白さで殴りたいあの子
 蜜漬けの梅干し噛んで堕落する
 ニンゲンを食べて三日月あの笑顔
 塩焼きの秋刀魚としばし見つめ合う


去年行われた「川柳カード」7号の「第一回川柳カード誌上大会」でも
 
 指で押した箇所から腐りだす世界
 虫カゴの隅で世界が死んでいる


と、こわい川柳を投句されていました。こわいと言ってもそれぞれ質の違いはあるわけですが、倉間さんには何かこの日常に異世界を視てしまったり、暗部を視つめようという眼があるかと思います。この世界には光もあれば影もあり、生もあれば死もある。その影や死をきちんと視つめて川柳の表現にするところが倉間さんのステキなところだと思うのですが、そういう資質はどこから来ているのでしょう。
いままで影響を受けた川柳人やその他のジャンルの表現者って誰かいらっしゃいますか?

 「世界の影」のようなものを初めて認識したのは、これは確信して言えるのですが、小学五年生のときに川島誠さんの『電話がなっている』という短編を読んだ時です。その時初めて「世界はたやすく転覆しうる」という認識に至りました。影響というよりはもっと根本的なところで、その認識が今の私のベースとなって、川柳を含むすべてを感受したり表現したりしている、という方が近いかもしれません。

 倉間さんはどんなふうに川柳をお作りになっているのでしょう。たとえば先ほど言及したこわい川柳の中から少しうかがってよろしいですか?

 死屍累々と枝豆の皮
この句を作った際に念頭にあったのは、「食」は「生」と「死」を媒介するものである、という意識です。 私達の口に入るものは皆例外無く死んでいる、そして私達はその死骸を糧に生きている、という日常ではほとんど意識される事の無い、ある意味グロテスクで残酷な事実を曳きずり出し、白日の下に晒してしまおう。そしてそれを悪趣味なだけの暴露で終わらせぬよう、私なりの葬いの気持を込めよう。そんな考えからこの句を作ったように思います。

虫カゴの隅で世界が死んでいる
これは「世界の終わり方」について考えたことから生まれた句でした。本当の終末とは、例えば最後の審判のようにどーんと一気にやって来て一息に終わる、そんな明確なものでは無いのではないか。夏休み終盤、ふと思い出して虫カゴを覗いてみると、取って来た事も忘れていたような昆虫がひっそりと死んでいた。そんな風にして、世界の方も私達がふと気付いた時には既に終わっているのではないか。案外何の感慨も未練も無く淡々と、あっさりと。

 なるほど。そういうお話をうかがうと、ホント倉間さんは根っからの川柳人なんだなとしみじみ感じます。
さて、去年の3月に歌人集団かばんの会主催で「歌人・俳人・柳人合同句歌会」が行われました。倉間さんも参加されたイベントですが、俳人や歌人とじっさいに接してみていかがでしたか?

 とにかくとても楽しかったです!今まで生きてきた中でああいった場に参加したことが一度もなかったので、何と言うかもう、生まれて初めて「ことば」について語る方々を見ることができたというか、本当にいらっしゃったんだというような、そういう次元の感動から始まりました。今までは頭の中で一人ぐるぐると考えているだけだったことを口に出せる、誰かがそれを受け取って共有して、さらに返してくれるという事、それ自体がもう初体験で、衝撃の連続でした。

 合同句歌会では、参加者から事前に短歌と五七五(俳句or川柳)を一作品ずつ提出していただき無記名で互選したのですが、短歌の方では倉間さんの
 
 自転車廃棄所の銀の光の中をゆく馬を欲しがる妹のため

がいちばん点を獲得しました。
2014年「かばん」6月号の「歌人・俳人・柳人合同句歌会レポート」の記録によると、この歌にたいしては以下のような評がありました。
イメージのカッコ良さや映像の鮮明さ、置場ではなく「廃棄所」とした上手さ、サカナクションのようなテクノロックっぽさ、「馬」という聖と「自転車廃棄所」という俗の関係から光を見つけるところなどが高い評価を得……。
この歌を見ると短歌経験者かな?と思えてしまいますが、歌作はこのときが初めてだったのですか?

 実際に「よし、作るぞ!」と思って作ってみたのはあれが初めてです。

 評でもちょっと触れられていましたが、この歌は「自転車廃棄所」という、言ってみれば「暗」とか「死」を連想させる場が描かれていますね。このへんは倉間さんの川柳とも共通している。それが下の句の「馬を欲しがる妹のため」というある種のかいがいしさと対比されているのをみたとき、「正即負」「負即正」というこの世界のあり方が体感的に分かっているひとなんだな、という感想をもちました。「銀の光」という表現も、正負どちらにも回収しえない雰囲気があり、歌の世界と合っていますね。

 ありがとうございます。以前川柳スープレックスの記事の中でも似たような事を書いたように思うのですが、「リアル」を形作るのは「切実さ」だという思いが自分の中にずっとあって、この歌もそういった「切実さ」を意識して作りました。
「自転車廃棄所の中に馬を探す」という行為は、(この世界の中では)一見無意味、無価値で、さらに言ってしまえばなりふり構わない愚かしいものであるのかもしれません。けれどそれが「馬を欲しがる妹のため」という個人的な(イメージ上では普遍的な)強い目的や意志と結びついたときに、その愚かしさこそが「切実さ」へと反転されうるというような、そんなことを考えていたように思います。
飯島さんが3つ目の質問の中で訊いて下さったこととも少し繋がるのですが、世界の中の所謂影の部分、そして光の部分はきっぱりと分けきれるものなどでは無くて、そんな分かりやすいものではなくて、それぞれがお互いを内包しあっていて、いつでも入れ替わりうる、そういう私自身の認識が反映されているように思います。

 ところで過去の川柳人の話題になりますが、鶴彬がいまの倉間さんくらいの年齢で柳誌デビューをしています(大正14年5月「影像」)。戦前の人ですけれどもね。

 暴風と海との恋を見ましたか

私は彼の川柳ではこの句がいちばん好きで、彼の初期を代表する句だと思っています。倉間さんはこの句についてどのような感想をもちますか?

 とても素敵だと思います!「見ましたか」と尋ねる人と尋ねられる人の立ち位置や関係性も色々と想像させられます。

 では最後の質問ですが、いまの文芸川柳界にたいしてもっとこうしたらいいのに、もっとこうなったらいいのにって思うところはありますか?現状のままでOKという意見もありです。

 もっともっと色々な人に川柳が読まれたらいいのに、と思います。

 私の拙問に丁寧に答えていただき、どうもありがとうございました。

posted by 飯島章友 at 23:00| Comment(0) | 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月20日

蛇の穴:200字川柳小説  川合大祐

白い障子を裂く。黒ぐろとした穴を覗けば、そこに蛇がいた。うつくしい蛇のからまりだった。なめらかに、複雑に、生なましく、蛇がとぐろを巻いていた。その時から少年は、言葉について考えるようになった。この世界で呼ばれているものは、そのもの本体の名前ではないのではないかと。世界をめくってみれば、もの、というものの本質に辿り着けるのではないかと。旅に出たかった。出られなかった。蛇の名前は〈母〉というのだった。

 美りっ美りっ美りっ お言葉が裂けている  中西軒わ(第3回川柳カード大会・題「美」準特選句より)

posted by 川合大祐 at 00:00| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月17日

木曜日のことのは蒐集帖 11 美りっ

美りっ美りっ美りっ お言葉が裂けている   中西軒わ 
(第3回川柳カード大会 題『美』選者くんじろう 準特選/2015/9/12)


「びりっびりっびりっ」という音は、紙を裂き、裂いたものを重ね、また裂くという所作を思わせる。あたりをはばからぬ、無遠慮な音である。

軒わさんの句、「び」の音に「美」とあてている。考えてみれば「美」という字はなかなかにうさんくさい。音は濁った破裂だし、字形は淡白で、シンメトリーで下半身をふんばっている揺らぎのなさもおもむきがない。

うつくしい表情で語られる、うつくしいお言葉が裂けている。そう書かれているけれど、でもほんとうは裂けているのではなく、みているひとが語られるお言葉を裂いているのだ。「びりっびりっびりっ」と音をさせ。裂いておいて「あらあらあんなこと言っちゃって」とうふふと笑っている。

「びりっびりっびりっ」の「び」の音に「美」の字をあてる趣意は、「美」を裂く「うふふ」の気持ち。一字明けの前後の「美りっ美りっ美りっ」と「お言葉が裂けている」のふたつのフレーズは意味上のリフレインのようでもあるし、違う眺めでは、「お言葉が裂けている」状況にシュールな音響効果をほどこしているようでもある。

この句は句会の、「美」という題のもとで聞いたからいっそうおもしろかったのだと思う。題詠で他者の発想に触れる。句会っていいな、と思う。

恥ずかしながら、わたしの、「美」の句。優作的の句をとってもらいました。
階段を優作的に駆けのぼる   ちかる
月夜には海まで至る美術館

posted by 江口ちかる at 00:00| Comment(0) | 木曜日のことのは蒐集帖 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする