2015年09月06日

「川柳カード」第9号 D

前回の流れを整理すると、俳句とは「季語」「切れ字」という限定性が鑑賞上の評価のポイントになっており、同時にそういった限定性が没個性化につながるどころか、俳句をとても輪郭の見えやすいジャンルにしている、ということだった。

これを踏まえたとき現代川柳にとって問題となってくるのは、俳句という非常に個性的な隣人がいるため、個々の川柳人の作品は個性的でもジャンル全体では俳句の影になりがちである、ということだ。

もっとも、いまジャンルとしてどんなにマイナーであろうと、一人の川柳作句者としてわたしはまったく不満を感じていない。
なぜといって、提出した作品を川柳だと前提してくれる川柳の〈場〉があるからだ。
正直に言えば、いま現在のわたしは、柳俳の異同を分析することにさほど関心はない。
柳俳の違いというのは、そのテクストを俳句と見なすか川柳と見なすか、という〈場〉の違いだと考えているからである。

ところが、自分には少々のエゴがあり、また少々川柳への公的精神めいたものもあるようなので、現代川柳を世間様に発信したいと思っている。
それには、現代川柳の特質=売りを前もって決めておかなければ発信もできない。

では、現代川柳を世間様に発信する手段として最も有効なのは何かと考えたとき、繰り返しになるかも知れないが、それは〈入門書〉の発行だと思う。
入門書の役割というのは、初心者のためのマニュアル本というだけではない。
このジャンルはこれこれこういうものですよと規定して、アピールする役割もある。
たとえば、今号の「川柳カード」巻頭言で樋口由紀子が、短歌入門書『短歌の不思議』(東直子著・ふらんす堂)の一節を引用したうえで、「韻文と散文」「詩」の問題といったジャンルの本質にかかわる部分に注目したのは、入門書が単なるマニュアル本でないことをものがたっている。

さて、もしもわたしが現代川柳──ことに詩性川柳の入門書を出すとしたらどんな観点から説明しようかと、たまに想いをめぐらすことがある。
そんなとき、わたしがよく思い起こすのは、『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(東浩紀著・講談社現代新書)において東浩紀が、キャラクター小説(≒ライトノベル)の言葉を「半透明性」と定義したことだ。
わたしは、現在の詩性川柳は「半透明性」の短詩型だと考えている。

「半透明性」──その意味は、だいたいこういうことである(正確に知りたいかたは上掲書p87〜p101参照)。

近代以前の物語の言葉は、既成の意味・概念・歴史性がこびりついた〈不透明〉なものだった。
そのため、主体が外界を見出すうえで障害となっていた。
それに対して、近代に創出された言文一致の言葉は、それ以前の言葉に含まれていた意味・概念・歴史性などの障害が取り除かれ、主体と外界が直接向き合える〈透明〉なものへと変わった(飯島注:これは近代短歌が枕詞、序詞、掛詞、縁語、日本人の自然観・美意識の型といった修辞法を手放し、掛け替えのない〈私〉を定型に写し出す方向へシフトしたのと符合している)。
言葉が〈透明〉になり、外界が描写可能になったことから生れたのが近代の自然主義文学である。

一方、マンガの表現とは、ディズニーのデフォルメされたキャラクターを見れば分かるが、どんなにひどい怪我を負っても次のシーンでは回復しているし、まして死ぬことはない。
マンガの表現とは本来「記号」的なのだ。
だから、マンガのキャラクターは現実的な身体性をもっておらず、その意味でマンガとは「不透明」な表現だった。
ところが、手塚治虫が終戦間際に書いた『勝利の日まで』の中で事情は変わった。
そこでは、いかにもマンガ的にデフォルメされた主人公が、敵の銃弾を浴びて血を流すシーンが描かれたのだ。
それ以前は記号的表現だったマンガのキャラクターに身体性が与えられたのである。

これ以降、徐々にマンガのキャラクターは生身の身体性をもって描かれ始め、傷つき、死ぬようにもなった。
戦後のマンガは、前近代のように〈不透明〉な表現でありながら、近代自然主義のように〈透明〉で現実的な表現がくわわったのだ。
そんなマンガ(あるいはアニメ)における〈記号的−身体的両義性〉を小説の分野で受け継いだのが、キャラクター小説だ。
自然主義と反自然主義、現実と非現実、透明と不透明。
それら矛盾しあう要素を備えたキャラクター小説の言葉を、東浩紀は「半透明性」と喩えたわけである。
そして、この日常と非日常が隣接する「半透明性」に支えられたものが、〈セカイ系〉の作品だという。

「半透明性」という意味がどういうことか、何となく分かってもらえただろうか。
わたしは2000年代からの詩性川柳は、この「半透明性」の言葉で発展してきたと考えている。

 オーダーの刺身は踊り子のヒラメ  山田ゆみ葉
 前世で色々あってがんもどき  浪越靖政
 梅雨前の先輩風が吹く日なり  広瀬ちえみ
 虫網にティラノサウルス引かかった  田久保亜蘭 
 肋合わすと知恵の輪になる  瀧村小奈生


今号の「川柳カード」から引いた。
上掲句の「踊り子のヒラメ」「がんもどき」「先輩風」「ティラノサウルス」「肋」は、それぞれ〈記号〉的な言葉と思える。
換言すれば、〈モノ〉化されている。

 (れーずんを)構え!(あめりかを)撃て!  榊陽子
 ひまわりはバックドロップ受けそこね  浪越靖政 
 鯛焼きのアンコ明るい骨だった  平賀胤壽
 ATMとダイオウイカのまぐわいだ  石田柊馬
 変わらず目地でいてくれたんだ恋人よ  内田真理子


上掲句の言葉は〈記号〉化されているように見えるが、読み手の想像力が現実的事象とつながる回路を備えている。
榊句なら昨今の反米テロや集団的自衛権に関わること、平賀句ならアンコを食べての感慨、石田句なら現在の資本主義の有り様、内田句なら恋人への認識に、それぞれ喩的変換ができる。
また浪越句においては、三沢光晴選手の死を想起したとすでに述べた。
要するにこれらの句は、現実に照らした自然主義的な読みが可能なのだ。

もちろん、それぞれの句を自然主義と反自然主義、現実と非現実、透明と不透明にきっちり分けることなどできないが、いずれにせよ詩性川柳とは、透明と不透明が無軌道に入り混じった「半透明性」の短詩型だと思う。
これはあくまでも私的体感だが、現代短歌の言葉と比較したとき、詩性川柳における言葉の〈記号〉化・〈モノ〉化は顕著である。
また読まれ方においても、現代短歌はまだまだ自然主義的な〈私〉を前提に読む人が多いが、詩性川柳の方では自然主義的な読みに捉われず、〈コトバ〉そのものを楽しんでいる人が多いように感じる。

以上、わたしが詩性川柳に「半透明性」を見たいゆえんである。
わたしが詩性川柳の入門書を書くとしたら、このあたりを手掛かりに書くかも知れないし、また〈セカイ系〉もすっかり定着した現在、「半透明性」にスポットを当ててアピールすることは有効だと思う。

 *

ところで、「半透明性」について書きながら、ふと思ったことがある。
半透明って、まさにプロレスリングのことではないだろうか。

doublewristlock.JPG

上の画像は(現地時間で)1976年12月12日、パキスタンはカラチ・ナショナルスタジアムで、5万人もの観客を集めておこなわれたアントニオ猪木vsアクラム・ペールワンの大試合だ。
対戦相手のアクラムは現地の英雄だった。
この試合で猪木は、ギブアップをしないアクラムにたいし、その左肩をダブルリストロック(柔道でいう腕がらみ)という関節技で脱臼させ、試合をおわらせた。
これは、きわめて自然主義的で〈透明〉なプロレスの一面と言える。

tigermask1.JPG

一方、上の画像は初代タイガーマスク。
このマンガ・アニメのヒーローが現実のリングに登場したのは、昭和56年(1981)年4月23日、蔵前国技館蔵だった。
初代タイガーマスクの試合は毎回視聴率30%以上をはじき出し、まさに一大旋風を巻き起こした。
マンガ・アニメのキャラクターだけに、正体・国籍・年齢はすべて不詳。
初代タイガーマスクの存在は、まさにキャラクター小説的な〈不透明〉さに覆われていた。

分かりやすいよう両極端の例を出してみた。
このようにプロレスリングとは、透明性と不透明性をあわせもつ「半透明性」の興行スポーツであり、観客もその「半透明性」を楽しんでいる(もちろん、透明性を求めるファンと不透明性を楽しむファンと立ち位置はさまざまだが、大半のファンは矛盾しあう要素を心的に止揚している)。

近代ボクシングは、〈透明〉なアマチュアボクシングがそのままプロボクシングへとエレベーターのようにつながっているが、近代レスリングの方は、〈透明〉なアマレスと〈不透明〉なプロレスとが次元を異にして並立してしまった。
どちらも〈キャッチ・アズ・キャッチ・キャン〉と〈グレコローマン〉という二つのレスリングスタイルに起源があるにもかかわらずだ。
その歴史的経緯は川柳ブログで話すことでもないので割愛するが、いずれにせよ現在の詩性川柳とプロレスリングとでは、「半透明性」という通底するものがある気がしてならない。
プロレスリングは、他のスポーツでは見られない独特の文学的言論空間が発達しているのだが、おそらく相矛盾する要素をふくむジャンルとしての必然と思われる。

ここまできて自分でも何を書きたかったのか忘れかけてきた。
そうそう入門書の話である。
とにかく、新感覚の詩性川柳入門書が待たれる。
それがジャンルの規定につながり、外部へのアピールにもなるからだ。
でも、それには出版社さんに注目してもらわなければ始まらない。
というわけで、詩性川柳に興味をもってくださる素敵な出版社さんへ、この詩をおくります。

「この道を行けば どうなるものか 危ぶむなかれ 危ぶめば道はなし 踏み出せば その一足が道となり その一足が道となる 迷わず行けよ 行けばわかるさ」(平成10年4月4日東京ドーム大会の引退式でアントニオ猪木が披露した「道」)

michi.JPG

(終わり)

posted by 飯島章友 at 01:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする