2015年10月25日

重複光景:200字川柳小説  川合大祐

少年が身を投げたそうですよ。ゆうべの夕御飯はいかがでしたが。え、何か。何がおかしいのですか。「ゆうべの夕御飯」が重複表現。いやいやいや。それのどこが悪いのですか。人間は頭痛が痛いし、馬から落馬します。それはそれでそれが地球の真理なのではないでしょうか。青春時代、私はまだ人間ではありませんでした。これも重言なのでしょうか。だとしたら、私の青春は何なのですか。教えて下さい。少年が、湖に身を投げました。

  諏訪湖とは昨日の夕御飯である  石部明(『セレクション柳人 石部明集』より)

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2015年10月22日

木曜日のことのは蒐集帖 14 / ハンドクリームだ

ハンドクリームだ月がすごい音立てて   瀬戸夏子
(川柳スープレックス 15年10月 今月の作品 「のちのガルシア=マルケスである」より)


たのしい句だなぁと忘れられなくなりました。
「ハンドクリームだ」の「だ」は断定の助動詞なのです。
「ハンドクリームだ」とはいさましい。ふと「赤胴鈴之助だ」を思い出します。(ご存知でしょうか。アニメの、主題歌の歌が始まる前の、「エーイ! ヤーッ! ターッ!」「ウーム、ちょこざいな小僧め。名をなのれ!」「赤胴 赤胴鈴之助だ!!」)あるいは必殺技を放つ初代ウルトラマンの心中で叫ばれていただろう「スペシウム光線だ!!!!」
「ハンドクリームだ」は唐突でたのしいです。定型の、上の句の5音からはみだしているのもここではたのしいです。ふきだしが見えるような気がします。
アポロ11号が着陸したのは「静かの海」と名付けられた場所でした。いかにもな名前だと思わせる、月には静寂が似合います。
ですが瀬戸さんの句では月は音を立てて何かをしているらしいのです。人間臭い月です。

さて、秋めいてハンドクリームをつかう回数がふえました。容器から手へうつされるクリームはゆるい円形で、月のようでもあります。一瞬の月を手にひろげながら、いいなぁ、と、「ハンドクリームだ」の句を思い浮かべたりしています。




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2015年10月18日

トイレあけるとがぜん犀でした   柳本々々

『おかじょうき』2015年9月号所収、柳本々々「がぜん犀」より。

むかし『90分でわかるヴィトゲンシュタイン』(ポール ストラザーン著、浅見昇吾訳・青山出版社)という本を読んだことがある。
当時、現代保守思想の内容を感得するには、フリードリヒ・フォン・ハイエクの自生的秩序論と、彼の親戚にあたるルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論は知っておかなくちゃ、と見当をつけていた頃なので、わぁ90分でわかるんだ、すげえ、てなことで飛びついたわけだ。

その本の中で、ヴィトゲンシュタインと彼の先生だったバートランド・ラッセルに関するこんなエピソードが紹介されていた。
ちなみにラッセルは当時「人間は経験から知識を得るのだ」と考えていた。

ラッセルが「私は部屋に犀がいないことを知っている」と主張しても、ヴィトゲンシュタインは納得しない。論理的には、犀が部屋の中にいることも可能である、というのである。ラッセルはこれを受け、「その犀はこの部屋のどこにいることができるんだい」と尋ね、椅子の背後や机の下を覗き込んだ。それでも、ヴィトゲンシュタインは譲らなかった。「ラッセルは部屋に犀がいないことを確実に知っている」ことを絶対に認めなかった。

これは、ラッセルが経験にしたがって〈私はいつもと部屋に差異がないことを知っている〉としているのに対し、ヴィトゲンシュタインは〈ラッセルはいつもと部屋に差異がないことを確実に知っているわけではない〉として一歩も引かなかった、と言いかえられそうだ。
あるいはこうも言いかえられるかも知れない。
ラッセルは、部屋がいつもと類似しているから犀(差異)は存在しないとしているのに対し、ヴィトゲンシュタインの方は、部屋がいつもと類似しているとは確実に言えない、したがって犀(差異)は存在可能である、という立場なのではないだろうか。

 トイレあけるとがぜん犀でした 
 

「がぜん」というのは〈突然に〉〈俄かに〉という意味だから、作中主人公が想定していた通常のトイレの状態に反して「犀でした」=「差異でした」ということになる。
ラッセルならば、〈私はトイレを開けると犀でないことを知っている〉というだろうが、ヴィトゲンシュタインはそう考えなかったことだろう。
その意味で掲出句は、ヴィトゲンシュタインに近いレベルで書かれているといえそうだ。

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2015年10月17日

誰かがそれを母と呼んだ:200字川柳小説  川合大祐

母がいなかった。地球を母にしようと思った。母なる大地と言うくらいだから。このガイアを愛した。砂漠で、ジャングルで、都市で、何度も地を抱きしめた。手に余るくらい大きかった。そして愚かだった。砂漠の砂は灼けつくように熱く、ジャングルの虫は伝染病を抱えていて、都市はあらゆるものを拒もうとした。これが母なのだろうかと、石壁にもたれて思った。母はモノではない。「母は……現象だ」。雨が地球に降りつづいている。

  母というおろかなモノに雨が降る  天谷由紀子(『白いみしん』より)

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2015年10月11日

「川柳杜人」247号

川柳杜人 第247号
発行人 山河舞句
編集人 広瀬ちえみ

【同人作品】
「喝」と言う真っ赤なトマトやってきて   浮 千草
ゴミ箱の中に一軒家が建つ   都築裕孝
はぐらかす発酵準備の態勢で   鈴木せつ子
亡霊は男 幽霊は女   鈴木節子
幽霊は腹筋だけで立っている
幽霊のヌード映倫フリーパス
「シカシ」氏と「モシモ」氏が来るよく晴れて  広瀬ちえみ
ぶら下がっていればそのうち赤くなる   須川柊子
夏の舌ボクからオレへ移行する   佐藤みさ子

【杜人集】
ポイントがたまりお迎えやって来る   伊東マコ
夏蝉のぬけがら少年の痛み   須田隆行
古傷が例のポーズをとっている   中川東子



さて、今号の「杜人」の特集は、「榊陽子のレトリック」。
ふたりの川柳人の榊陽子論が掲載されている。

そのひとりは兵頭全郎。
タイトルは、「脱げてしまった靴のその後」─榊陽子のバランス感覚─。
その中で兵頭は、榊の強みを「バランス感覚」と「作者としての直感」だと分析している。
たとえば、

 二百とは脱げてしまった靴である (第一回BSおかやま川柳大会 08年)

はバランス感覚に優れた例であり、

 ササキサンを軽くあやしてから眠る (第十七回杉野十佐一賞「軽」大賞 13年)

は「ササキサン」という絶妙な謎を置いた「作者としての直感」が成功した例として挙げている。

しかし、兵頭によると、最近の榊の句はこのバランス感覚を崩しているのだという。
たとえば「おおロミ男サルササルサの肉履いて」という句について、「『サルササルサの』『肉履いて』まで重ねられると、読むべき点が多過ぎてブレる」と指摘している。

わたしが榊陽子の存在をまぶしく見始めたのは、たぶん二年くらい前からだと思う。
句風こそ大きく違うが、近年、八上桐子と榊陽子はまさに昇竜の勢いだ。
榊を格闘家にたとえるならば、やたらめったら大振りパンチで攻撃してくるにもかかわらず、恵まれた体格と驚異的な身体能力とで正統派の格闘家を苦しめる大型ファイターといったところ。
総合格闘技の選手でいえばボブ・サップとかタンク・アボットみたいなタイプだ。
おそらく、わたしが見てきたここ二年の榊作品には、兵頭がいうバランス感覚の崩れたものも多いかと思うが、なにせ榊作品の句語は一発の破壊力があるため、当たれば即ダウンを奪えるパンチをもっている。
それが短期決戦の川柳大会や句会では強みとなっているのだろう。

その反面、10句の連作・群作という長期勝負になってくると、大振りパンチによって息切れをし、隙が生じる可能性もあるかな、などとすこし思ったりする。
力士がプロレスラーに転向するとき苦労するのは、短期勝負から長期勝負の肉体へ改造し、試合のペース配分も百八十度転換しなければならないことだ(元関脇の力道山はみごとレスリング用の肉体を作り上げたが、元横綱の東富士は力士体型を変えることが出来ずレスラーとしては成功しなかった)。
おなじように川柳大会と雑詠欄の連作とでは、使う筋肉の質が異なる。
むかしの榊作品を知る兵頭からバランス感覚の崩れが指摘されているが、もしかしたらそれは、榊が連作向けに肉体改造をする途中で起こっている現象かも知れない。

さて、榊陽子論のもうひとりは酒井かがりである。
タイトルは、わけいってわけいって白雪姫の闇─榊陽子の戯れ言─。
酒井は、榊陽子を白雪姫になぞらえつつ、榊作品の要素、傾向、内容を小人の名前にたとえて項目を立てている。

順番に列挙すると、1に不安多爺(ファンタジー)、2に絵漏(エロ)、3に愚漏(グロ)、4に然吐ぃ巣人(サディスト)、5に魔増悲巣人(マゾヒスト)、6に軟栓為(ナンセンス)。
まるで江戸川乱歩研究の項目を見ているみたいだ。
わたしのばあい、1は『押絵と旅する男』、2は『陰獣』、3は『蟲』、4は『盲獣』、5は『人間椅子』、6は『火星の運河』、というぐあいに乱歩作品が思い浮かぶ。
乱歩が人間心理に潜む暗部をあぶり出してみせたように、自覚的かどうかは分からないが榊陽子も、既成川柳が積極的に退けてきた狂句や破礼句といった川柳の裏面を積極的に引き受けている感がある。

1〜6の中でわたしが特に注目したのは6のナンセンスだ。
現代短歌と現代川柳を比べたばあい、短歌の世界では措辞に必然性が求められるばあいが多いのにたいし、現代川柳、わけても詩性川柳の世界ではナンセンスを積極的に受け入れようとする独特の気風が感じられ、とても興味がわくのだ。
酒井がナンセンス句として引用している榊作品から1句だけ挙げてみよう。
  
 もそっと笑え2時08分の天袋

「8時だョ!全員集合」の舞台セットで、柱や扉や階段といった家のすべてに目や口がついていて、それらが志村けんの指揮に合わせて「カラスの勝手でしょ」を合唱する驚異的な回があったのだけれど、そのコントを思い出しながら楽しんだ。

上掲句、もし短歌の歌会だったら、「2時08分」の必然性が質されるかも知れない。
川柳人のばあい、丑三つ時の意味やイメージから「2時08分」が出たのだろうと想ったら、それ以上は突っ込まずにテクストを楽しむと思うのだが、歌会だと「08分」でなければならない理由まで問うてくる歌人がいそうだ。

 23ページのメロン図について   森茂俊

上掲句は、第二回BSおかやま川柳大会(09年)のお題「図」で彦坂美喜子選の特選句、小池正博選の入選句だった。
「23ページのメロン図」というナンセンスは、詩性川柳というナンセンスな国で生みだされたからこそ、マイナス×マイナスでプラスになった気がする。
わたしが現代川柳を始めてもっとも驚いたのは、このようなナンセンスに共鳴する川柳人のセンスである。

と書いたところで、わたしの認識には矛盾があることに気づいた。
彦坂美喜子は歌人である。
歌人が上掲句を選んだという事実を受けとめると、単にわたしが〈歌人はお堅い〉という偏見をもっていただけかも知れないなと、いま文章を書きながら思っている。

榊陽子はいま注目の若手川柳人であり、おそらく今後もどこか別の場所でスポットを当てられることだろう。
なんて思っていたら、今日の「週刊俳句」第442号に榊陽子の「ふるえるわかめ」10句が掲載されていた。

榊陽子はいま盛っている。

posted by 飯島章友 at 23:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする