2016年04月29日

兵頭全郎・第一句集『n≠0 PROTOTYPE』

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兵頭全郎さんが第一句集『n≠0 PROTOTYPE』(私家本工房・2016年3月18日発行)を上梓されました。川柳作品に加え、自作の二次創作的掌編「妄読」やエッセー「2010年代の川柳 〜女性アイドルグループ史からの連想〜」がいい間隔で差し挟まれ、ひじょうに考えられた構成になっています。現在わたしの知るかぎり、同句集は「葉ね文庫」さんに入ったということなので、句集を入手されたい方は、とりあえず葉ね文庫さんに問い合わせてみてはいかがでしょうか。


では、さっそく句集の感想に入ります。
全体的な印象として全郎さんの川柳というのは、新しい書き方に挑む姿勢がひしひしと伝わってくるのです、ちょうど明治末期の「新傾向川柳」で近代的自我=私性が持ちこまれたときのように。いわば、〈ポスト私性川柳〉の試行ですね。そうなると、全郎川柳とはどんな要素をもっているのかが大事になってくる。それを考えることが〈ポスト私性川柳〉に輪郭を与えてくれるからです。「お知らせ」カテゴリの範囲を越えてしまいそうですが、今回は二点、全郎川柳の要素を簡単に考えてみたいと思います。

全郎川柳の要素の一つめは〈句意の多義性〉だと思います。これは、読み手それぞれの資質に応じて十人十色の意味やイメージが形成されうる、ということです。読み手からすれば、自分なりの意味やイメージを生みだす楽しみがありますよね。一義的な短詩というのは、作者は気持ちいいかも知れませんが、受け手にとっては押し付けがましく感じることもあるものです。

大航海時代の空に繋がれる

たとえばこの句も、読み手それぞれの資質に応じて〈句意の多義性〉が生じる書き方だと思うのです。もし作者の意図をできるだけ汲み取ってもらいたいのであれば、川柳では最低限、〈AはBである〉という「一章に問答」の構造をとるのが常套手段。しかしながらこの句では、〈Bである〉という答えの提示だけですよね。これは、〈句意の多義性〉を容認していなければなかなかできない書き方だと思います。
だから、大航海時代にタイムワープする句かしらと捉える人もいるでしょう。または、現代の領空にかかわる争いを示唆しているのではと捉える人もいるでしょう。あるいは、「『大航《海》時代の《空》』」に「(船もしくは飛行機に乗っている現代の語り手が)繋がれる」という句語のコラージュによって、大航海時代の海・大航海時代の空・現在の海・現在の空の四元が時空的に繋がって融合していく、そんな壮大な感覚をおぼえる人もいるかも知れません。わたしが最初そうでした。ただ、よくよく読み返しているうちに現代的な領空問題、ひいては大国間の宇宙での争いにまで発想をひろげて読むようになりました。これがとても楽しい。
ただいずれにせよ、句のコトバに魅力がなければ読み手にスルーされてしまうのですから、〈句意の多義性〉とはけっして読み手任せのいい加減な要素ではありません。そこはきちんと確認しておくべきところです。


さて、全郎川柳における二つめの要素は〈言葉のモノ化〉です。これは、辞書に載っている公式的な言葉の意味や用法を一回リセットしてモノ化し、ゼロから再使用する、といった意味です。

多数決 分母の母は崖の上

多数決とあるので社会性っぽい作品ですが、「分母」という数の概念の公式的な意味や用法がリセットされ、「分母の母」として新しい用い方をされています。これは、分母という概念をモノとして取り扱ってこそ生まれる表現でしょう。
フラワーしげるさんの短歌に「きみが十一月だったのか、そういうと、十一月は少しわらった(『ビットとデシベル』)という一首があるのですが、この歌も「十一月」という月の概念の公式的な意味や用法がリセットされたうえで再使用されています。ほぼ死語になった古い言葉で恐縮ですが、フラワーさんは現在の歌壇の前衛≠ニいえるでしょう。短歌にも〈言葉のモノ化〉を試みる動きは出てきているようです。

もう一句、同句集より〈言葉のモノ化〉の例を見てみましょう。

コソコソを煮るスクランブル交差点

ここでも「コソコソ」という、通常は副詞として用いられている言葉がモノ化され、名詞として扱われています。

以上、〈句意の多義性〉〈言葉のモノ化〉という二点から全郎さんの川柳を見てきました。こうしたポスト私性の方法は、世間で広く了解された共感域の利用を放棄しているぶん、相当に険しい道だと思います。強い主体性がなければできないのではないでしょうか(少なくとも自分に置きかえて想像するとそう思う)。でも、定型散文といっていいくらいストレートな球ばかり投げてくる川柳よりも、わたしは〈消える魔球〉のほうを体験してみたい。その〈消える魔球〉を投げてくる数少ない川柳人が兵頭全郎さんなのです。

翌日の朝には届くかまいたち
透視図と月のあいだの燕尾服
スプーンに水半分の少年期
便箋の青さよ詰め放題の手よ
ふくらむと水の記憶に替わられる



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2016年04月28日

週刊「川柳時評」

小池正博さんの週刊「川柳時評」(4月22日付け)に「飯島章友の川柳」という記事を書いていただきました。小池さん、ありがとうございました。

なお、5月22日(日)に大阪・たかつガーデンで開かれる「第2回現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」も主催は小池正博さんです。時評を毎週更新されるだけでも大変なご尽力なのを思うと、ただただ敬服するばかりです。
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2016年04月24日

はじまりのおわり:200字川柳小説  川合大祐

三教室離れた組の生徒が転校するというので、わざわざ送り出し会に首を出した。その生徒は、真夜中の県道において家族総出でバンジョーを合奏したり、魚は鮫しか買わなかったりしていたので、どんな事を喋るか興味があったのだ。生徒は言った。「ありがとう。皆ありがとう。山川草木悉皆成仏。今日を忘れないために、痕を残していこう」。そしてトラックの荷台から、砂糖を撒いて去って行った。蟻が一匹、砂糖の道にたかり始める。

  都合よく転校生は蟻まみれ  小池正博(『転校生は蟻まみれ』より)
  
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2016年04月19日

「川柳カード」第11号

川柳カード・11号
発行人 樋口由紀子
編集人 小池正博

お問い合わせは以下の会員募集欄に掲載されているからメルアド等から
川柳カード

【同人作品】
 寝ない夜は知らない夢を語らない  兵頭全郎
 大画面テレビの裏の濡れた旗  湊圭史
 波平に聞いてから打つ句読点  畑美樹
 えのきだけしめじしいたけひれふすわ  広瀬ちえみ
 二人とも同じ匂いのする仮面  小池正博
 字幕からあふれる海のモノローグ  清水かおり
 足を攣るジムノペディアの少年A  飯島章友
【果樹園 会員作品】
 きっとあなたも西太后の舌が好き  松尾初夏
 亀が鳴くそろそろ楽になりなさい  宇川草書
 手袋を指を残さぬように脱ぐ  吉松澄子
 ひそやかに口伝する椿の鳥語  内田万貴
 ヘイスティングス大尉からの手紙がまだ来ない  いなだ豆乃助
 校長室に飾る代々の眼鏡  猫田千恵子
 夕昏れの千切りキャベツから聖歌  悠とし子

今号は、月湖さんの絵川柳のページ「川柳な人たち」に、拙句「上向きにすれば蛇口は夏の季語」を選んでいただいた。ちびっこ、入道雲、カエル、虫、アイスキャンディー、麦わら帽子、サングラスなど夏のアイテムがいっぱい描かれ、とても素敵なイラストになっている。本当にありがとうございました!
また入交佐妃さんの写真のページには、前田一石の「途中下車して天動説をあたためる」が添えられている。編集後記にも書かれているのだが、写真や絵は誌面に潤いを与えてくれる。

さて、川柳カードでは毎号、会員作品の「果樹園」を小池正博が鑑賞している。題して「果樹園散歩 現代川柳を楽しむ」である。今号は「日常語と川柳の言葉」という副題が付けられている。鑑賞ばかりではなく、非常に重要な問題提起も書かれているので、少し引用してみよう。

川柳は口語表現を基本とし、日常語を用いることが多いから簡単なように見えるが、日常語がそのまま川柳の言葉になるとは限らないのだ。自分の思いを垂れ流しすればそれでよいとするならともかく、表現ということになるなら、川柳の言葉にしなければならない。堂々巡りになるが、川柳の言葉といっても日常語だから、日常語はどのようにして川柳の言葉になるかというのはけっこう微妙な問題である。

これを読んで思い出したことがある。わたしが短歌に興味をもちはじめた頃に読んだ短歌入門書『短歌はプロに訊け!』(穂村弘・東直子・沢田康彦著/本の雑誌社)にも、小池の問題意識につながるような議論があった。

 ひとの不幸をむしろたのしむミイの音の鳴らぬハモニカ海辺に吹きて  寺山修司

この歌に関して穂村弘さんは、初心者ならおそらく「人の不幸をむしろ楽しむただひとり古きハモニカ海辺に吹きて」などと、実際の体験としてあるように詠むだろうと推測。それに比べて寺山のばあい「ミイの音の鳴らぬハモニカ」と、わざと特殊な表現の〈しぼりこみ〉をして陰影を作り出している。要するに、初心者の「古きハモニカ海辺に吹きて」は一首全体に〈寸胴〉な印象しか与えないのに対し、寺山の「ミイの音の鳴らぬハモニカ」は砂時計の形のように〈くびれ〉ており、この〈くびれ〉=〈しぼりこみ〉が普遍的な共感を提示するのにつながっているのだと、初心者との差を分析している(以上、前掲書P303の要約)

穂村さんのいう〈くびれ〉と直接対応するわけではないけど、定金冬二の「一老人 交尾の姿勢ならできる」「一老人 風の割れ目で息をして(倉本朝世編『定金冬二句集 一老人』・詩遊社)での「交尾の姿勢」「風の割れ目」などは、日常語から〈しぼりこみ〉を経て川柳の言葉になったのだと思う。〈平明にして深い〉川柳とは何なのでしょうね。

 ◇ ◇ ◇

さて、今号の特集は「いま現代川柳を問い直す」として兵頭全郎・飯島章友・湊圭史・榊陽子が執筆している。編集長の小池は編集後記で「こう意見がばらばらだと匙を投げたくなる」と困惑気味。まあしかし、ドリフターズなどは完全無欠のリーダー長介、しっかり者の工事、明るい茶、アナーキーなけん、癒し系のブーと、バラバラの個性でありながら素晴らしいハーモニーを奏でていた。全郎・章友・圭史・陽子だって全体から見ればきっときっと・・・・・・いや。

各文のタイトルを列記しておこう。

 兵頭全郎「現代川柳の現況」
 飯島章友「川合大祐を読む―ドラえもんは来なかった世代の句―」
 湊圭史「観光客か、住人か」
 榊陽子「いま現代川柳を問い直す・・・気はあんまりない」

兵頭の文は、「いま現代川柳を問い直す」というテーマにもっとも合致している。いま世間で圧倒的に読まれている川柳がどういうものなのかを認識したうえで、現代川柳とは何かを再構築し、そのための情報を発信していく必要性を説いている。
飯島の文は、川合大祐の川柳の底に流れる大きなテーマを推測したうえで、第二次ベビーブーム世代が生きてきた時代と絡めた論を展開している。
湊の文は、以前旅行したスコットランドの歴史や首都エジンバラの街のつくりをきっかけにして、川柳の中で自分は観光客なのか住人なのかを問うている。
榊の文は、タイトルどおりの立場表明が滔々と捲し立てられていて兵頭と正反対の論調なのだが、それが結果的に、川柳への依存度を示しているところがご愛嬌。

ばらばらな感じは受ける。けれども、各人が川柳という〈場〉を立脚点とし、川柳という〈文脈〉に依拠して定点をもっている。定点があればこそ川柳をさまざま論じることができている。わたしはこの定点があるだけでもけっこう楽しい。

 ◇ ◇ ◇

特集に加え、今号は「特別寄稿」として、俳人の小津夜景さんが「ことばの原型を思い出す午後」と題し、わたくし飯島章友について文章を寄せてくださった。
小津夜景さんの作品は、知性・唯美性・背徳性・ユーモアが同居した言語センスで紡がれており、いつも陶然とさせられる。また音感といい、浸透感といい、雅言の選択といい、近代の以前以後を問わず短歌を読まれている形跡がある。それもあってか、小津さんの句を読んでいると俳句作品であることを忘れ、俳句でも短歌でも川柳でもない〈短詩〉そのものを読む心地がするときもある。歌人で芭蕉研究家でもあった太田水穂は、新古今和歌集が昇華されたものとして蕉風俳諧を捉えていたと記憶するが、小津作品にも短詩の総合性を感じる。

 誤字となるすんでの水を抱き寄せぬ
 ふゆいちご空間(ところ)時間(とき)のふたなりに
 郵便配達人(ファクター)よ此処は廃園だつたんだ
 (小津夜景作品集『THEATRUM MUNDI』より)
 
 ゆく秋の虹を義足に呉れないか
 しろながすくぢら最終便となる
 即興の雨をパセリとして過ごす
 (「週刊俳句」第469号・「小津夜景 水の音楽 musica aquatica」より)

わたしは、短歌においても川柳おいても、誌に作家論的な文を書いていただいたのはこれが初めて。それが小津夜景さんであったことは光栄の至りである。
「ことばの原型を思い出す午後」では、「私という質感/世界という質感」「変質と生命」「逼迫する時間性」「螺旋的起源へ」という観点から論じていただいた。ふだんの創作活動では抽象的にしか認識できていない自分の傾向や偏愛をここまで緻密に分析されると、驚きや悦びと同時に蠱惑的な怖さも浮かび上がってくる。ドイツ表現主義の映画として有名な「プラーグの大学生」では、鏡に映ったおのれの影(ドッペルゲンガー)が自分とは別の存在として行動しはじめるのだが、その感覚に似ているといえばいいのだろうか。それくらい小津さんの分析によって自分の影がじぶんに迫ってきた。

 ◇ ◇ ◇

最後に、昨年お亡くなりになった久保田紺さんの作品を小池正博が五十句抄出しているので、そちらから五句引用して終わりとしたい。紺さんとは本の贈答をしたことがあり、また或るWEB句会で特選にしていただいた思い出がある。

 極刑としての鏡を見せられる
 ライオンの口に投げ込むオムライス
 売り切れたはずの息子が並んでる
 キリンでいるキリン閉園時間まで
 着ぐるみの中では笑わなくていい


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2016年04月17日

マリアの子:200字川柳小説  川合大祐

病院にいつも持ち歩いている石鹸を忘れてきてしまった。ない、と思えば電車の吊革がおそろしく、やや混み始めた車内で、サーファーのようにバランスを取って立っている。この世には汚いものが多すぎる。何が汚いと言って、つまりは人間が汚いのだろう。人の群は雑菌を媒介するメディアにしか見えない。ならば、その源はどうだ。人の元、いわゆる母は、最も不潔なものではないか。我慢できず下り線に乗り換えた。母のいる、病室へ。

  石鹸を母の陣地に盗りにいく  榊陽子(「川柳カード・11号」より)

posted by 川合大祐 at 00:00| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする