2016年04月10日

ゴッド・ハンド:200字川柳小説  川合大祐

おいしいものはその手でつくれ。CMで西田ひかるが歌っていた頃、高校生だった。おいしいものはその手でつくれ。名文句だと思った。この手でつくろうと思った。物質とは煎じ詰めれば素粒子からなると又聞きで知った。細かい素粒子をつくろうと思った。つくり方が解らないので、とりあえず爪を切ってみた。その爪を更に切って、次の日も切って、夜が過ぎた。気がつけば卒業式の前夜だった。おいしいものは、食え。悟った朝だった。

  卒業をほぼフルーチェの固さまで  兵頭全郎(「川柳カード・11号」より)

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2016年04月09日

えんえんと藤のうまれるブリキ缶 (2)

えんえんと藤のうまれるブリキ缶      八上桐子

八上さんが書いてくださった『この春の』のなかで、この句が一等好きです。

川合さんが「えんえんと」のかな遣いに言及されていました。
「えんえんと」は延々であり、うまれでる声であり、永遠という音を連想させる、
なるほど、と思いました。
それと「うまれる」。
生まれる、だけでなく、わたしは「倦む」という言葉も連想してしまいます。
和歌の、掛詞のような、仕掛けだと思います。

ですが、わたしはなによりこの句の映像に参りました。

以前、どなたの作品か失念しましたが、
鉄工所と桜をとりあわせた俳句を読んで、きれいだな、と思ったことがありました。
藤とブリキ缶もとてもきれいです。
鉄工所と桜はどっしりしていますが、藤とブリキ缶はシュール。

大きさが釣り合っていないところがおもしろい。
日本画の、銀箔と藤色。
しかも動画です。
藤はうまれつづける。
束芋の映像作品みたいだ。

うつくしい藤をみあげるとき、ひょっとしたら、たどっていけば、ブリキ缶に行きつくかもしれない。
そんなふうにこれからは思えるかもしれない。

また、藤をうみ続けるブリキ缶がどこかにあると想像してみる。
それは案外わたしのなかかも。










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2016年04月03日

私がなりたかった貝:200字川柳小説  川合大祐

朝が来て、妻が蛤を付けていた。ニュースでは、アナウンサーが蛤を付けていた。偉い国会議員があんまり偉くない言動をして、頭を剃りあげて謝罪していたが、蛤を付けていた。生活苦のあまり生活保護を受けて批難されているロックンローラーが蛤を付けていた。パソコンを開くと、どいつも#のあとにずっと蛤を付けていた。町へ出た。行き交う人みなが蛤を付けていた。全く世の中はなっていない。俺はラディカルな浅蜊派なのだった。

 蛤のはげしく見開いている  八上桐子(「この春の」より)

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2016年04月01日

えんえんと藤のうまれるブリキ缶  八上桐子

 今月の作品「この春の」から。
 連作八句のうち、あえて一句に拘泥して読む、と言うことをしてみたい。それが「深い読み」になるかどうかは定かではないのだが。

 まず、「えんえん」と来る。「延々」ではない。平仮名で表記されることによって、ここで「たたごとでない何かが起きている」ことをまず理解させられる。「えんえん」は意味内容からも、意味表現からも、容易く「永遠」を想起させるし、何か泣き声を連想させる。(笹井宏之の「えーえんとくちから」を並べても面白いだろう)。
 その後に「と」である。ここで「と」が置かれることにより、「えんえん」の異化作用、「えんえん」が動詞のように動き出す踏み切り台になっている。
 「藤のうまれる」に至って、読者は慄然とする。「藤」とは「うまれる」ものだったのだろうか、という、指摘されれば確かにその通りであるが、誰も注目したことのない「見つけ」である。
 何故ここで「藤」なのか。われわれは、たとえば人名などで「藤」に接している。「藤川」「藤村」「川藤」など。「藤」はごく身近にあるように思われる。しかし実物の、植物としての「藤」をどれだけの人が切実なものとして、己との関係性を考えているのだろうか。言語界上の「言葉」と実生活上の「もの」が乖離した存在として、「藤」は最も相応しい素材であろう。「藤」は「不二」であり、「富士」であるかもしれない。
(余談ながら、僕が「藤」と聞いて真っ先に連想するのが「藤子不二雄」である。矛盾を含み、のちにその矛盾がさらなる矛盾を引き起こした名前)。
 しかも「藤の」である。「の」を使うところが計算されている。「が」ではない。「の」の一歩引いた、観察者の視点に立つことによって、藤がえんえんとうまれる、増殖して行く不気味さが強調されている。
 不気味と言えば、「うまれる」は不気味である。「生まれる」でも「産まれる」でもこの感覚は出ない。先ほど、藤がうまれるという点を誰も見つけられなかった、と書いたが、増殖する藤を描く時に、「うまれる」という動物的な動詞を(しかもひらがなで)持って来ることにより、増殖の無意識的な能動性、不気味さが見事に表現されている。先ほど書いたように「えんえん」を泣き声とすれば、照応して、産声を思わせるのかもしれない。
 そして最後に「ブリキ缶」である。ここで何故「ブリキ缶」なのか。おそらく多くの人が戸惑うに違いない。日常言語を使っている限り、ここでブリキ缶は出て来ないだろうからである。ただ、「ブリキ缶」が「藤」と同じく、「言葉」と「物」が乖離してしまっている存在であることは指摘しても良いだろう。僕たちはどこまで「ブリキ缶」と近しく生活しているか。その隔絶を突く物として、「藤」と「ブリキ缶」は対応している言葉である。
(また余談だが、「ぶりき」という言葉の響きが、日本語的/非日本語的の境目に立っている。「ぶ」の肉厚さ、「り」の丸み、「き」の硬質な肌ざわり。さらに余談になるが、『ブリキの太鼓』の受容のされ方には「ブリキ」という言葉の特質が大いに関連していると思う)。

 以上で句は終わる。だが読み手の中でこの句は終わらない。なぜ「えんえんと」「ブリキ缶」なのか。なぜ「藤」が「うまれる」のか。一句通して読んだ時の不可解さは、エンドレスに続く。前述のように、言葉をパーツ分けして読んで見ても、である。いや、パーツごとに読んだからこそ、この句の全体像がよりキメラのような貌を見せているのかもしれない。
 だが、その「わからなさ」「不可解さ」こそが、この句の魅力だ。この世界には「わかる」ものが多すぎる。(つまり、僕らには何一つわかることなどないということである)。
 その世界にあって、藤のうまれ続けるこのブリキ缶は、確かな実在性をもって現前する。ここには、ひとつの永久運動がある。希望を込めて言うが、川柳は、この句は、無限、なのだった。
posted by 川合大祐 at 05:46| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この春の   八上桐子


れんげ小波ひかがみ沖へ沖へ

左目から右目へ移すうすい魚

えんえんと藤のうまれるブリキ缶

ゆうやみと三回唱え皮を剥ぐ

うるおってくるまでめくる貝図鑑

蛤のはげしく見開いている

洗濯機回りつづける春の裏

涙腺へすれすれに鳥降ってくる



【ゲスト・八上桐子・プロフィール】
1961年生まれ、伊丹市在住
元「川柳大学」会員

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この春の.gif


posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 今月の作品 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする