えんえんと藤のうまれるブリキ缶 八上桐子
八上さんが書いてくださった『この春の』のなかで、この句が一等好きです。
川合さんが「えんえんと」のかな遣いに言及されていました。
「えんえんと」は延々であり、うまれでる声であり、永遠という音を連想させる、
なるほど、と思いました。
それと「うまれる」。
生まれる、だけでなく、わたしは「倦む」という言葉も連想してしまいます。
和歌の、掛詞のような、仕掛けだと思います。
ですが、わたしはなによりこの句の映像に参りました。
以前、どなたの作品か失念しましたが、
鉄工所と桜をとりあわせた俳句を読んで、きれいだな、と思ったことがありました。
藤とブリキ缶もとてもきれいです。
鉄工所と桜はどっしりしていますが、藤とブリキ缶はシュール。
大きさが釣り合っていないところがおもしろい。
日本画の、銀箔と藤色。
しかも動画です。
藤はうまれつづける。
束芋の映像作品みたいだ。
うつくしい藤をみあげるとき、ひょっとしたら、たどっていけば、ブリキ缶に行きつくかもしれない。
そんなふうにこれからは思えるかもしれない。
また、藤をうみ続けるブリキ缶がどこかにあると想像してみる。
それは案外わたしのなかかも。