2016年04月19日

「川柳カード」第11号

川柳カード・11号
発行人 樋口由紀子
編集人 小池正博

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川柳カード

【同人作品】
 寝ない夜は知らない夢を語らない  兵頭全郎
 大画面テレビの裏の濡れた旗  湊圭史
 波平に聞いてから打つ句読点  畑美樹
 えのきだけしめじしいたけひれふすわ  広瀬ちえみ
 二人とも同じ匂いのする仮面  小池正博
 字幕からあふれる海のモノローグ  清水かおり
 足を攣るジムノペディアの少年A  飯島章友
【果樹園 会員作品】
 きっとあなたも西太后の舌が好き  松尾初夏
 亀が鳴くそろそろ楽になりなさい  宇川草書
 手袋を指を残さぬように脱ぐ  吉松澄子
 ひそやかに口伝する椿の鳥語  内田万貴
 ヘイスティングス大尉からの手紙がまだ来ない  いなだ豆乃助
 校長室に飾る代々の眼鏡  猫田千恵子
 夕昏れの千切りキャベツから聖歌  悠とし子

今号は、月湖さんの絵川柳のページ「川柳な人たち」に、拙句「上向きにすれば蛇口は夏の季語」を選んでいただいた。ちびっこ、入道雲、カエル、虫、アイスキャンディー、麦わら帽子、サングラスなど夏のアイテムがいっぱい描かれ、とても素敵なイラストになっている。本当にありがとうございました!
また入交佐妃さんの写真のページには、前田一石の「途中下車して天動説をあたためる」が添えられている。編集後記にも書かれているのだが、写真や絵は誌面に潤いを与えてくれる。

さて、川柳カードでは毎号、会員作品の「果樹園」を小池正博が鑑賞している。題して「果樹園散歩 現代川柳を楽しむ」である。今号は「日常語と川柳の言葉」という副題が付けられている。鑑賞ばかりではなく、非常に重要な問題提起も書かれているので、少し引用してみよう。

川柳は口語表現を基本とし、日常語を用いることが多いから簡単なように見えるが、日常語がそのまま川柳の言葉になるとは限らないのだ。自分の思いを垂れ流しすればそれでよいとするならともかく、表現ということになるなら、川柳の言葉にしなければならない。堂々巡りになるが、川柳の言葉といっても日常語だから、日常語はどのようにして川柳の言葉になるかというのはけっこう微妙な問題である。

これを読んで思い出したことがある。わたしが短歌に興味をもちはじめた頃に読んだ短歌入門書『短歌はプロに訊け!』(穂村弘・東直子・沢田康彦著/本の雑誌社)にも、小池の問題意識につながるような議論があった。

 ひとの不幸をむしろたのしむミイの音の鳴らぬハモニカ海辺に吹きて  寺山修司

この歌に関して穂村弘さんは、初心者ならおそらく「人の不幸をむしろ楽しむただひとり古きハモニカ海辺に吹きて」などと、実際の体験としてあるように詠むだろうと推測。それに比べて寺山のばあい「ミイの音の鳴らぬハモニカ」と、わざと特殊な表現の〈しぼりこみ〉をして陰影を作り出している。要するに、初心者の「古きハモニカ海辺に吹きて」は一首全体に〈寸胴〉な印象しか与えないのに対し、寺山の「ミイの音の鳴らぬハモニカ」は砂時計の形のように〈くびれ〉ており、この〈くびれ〉=〈しぼりこみ〉が普遍的な共感を提示するのにつながっているのだと、初心者との差を分析している(以上、前掲書P303の要約)

穂村さんのいう〈くびれ〉と直接対応するわけではないけど、定金冬二の「一老人 交尾の姿勢ならできる」「一老人 風の割れ目で息をして(倉本朝世編『定金冬二句集 一老人』・詩遊社)での「交尾の姿勢」「風の割れ目」などは、日常語から〈しぼりこみ〉を経て川柳の言葉になったのだと思う。〈平明にして深い〉川柳とは何なのでしょうね。

 ◇ ◇ ◇

さて、今号の特集は「いま現代川柳を問い直す」として兵頭全郎・飯島章友・湊圭史・榊陽子が執筆している。編集長の小池は編集後記で「こう意見がばらばらだと匙を投げたくなる」と困惑気味。まあしかし、ドリフターズなどは完全無欠のリーダー長介、しっかり者の工事、明るい茶、アナーキーなけん、癒し系のブーと、バラバラの個性でありながら素晴らしいハーモニーを奏でていた。全郎・章友・圭史・陽子だって全体から見ればきっときっと・・・・・・いや。

各文のタイトルを列記しておこう。

 兵頭全郎「現代川柳の現況」
 飯島章友「川合大祐を読む―ドラえもんは来なかった世代の句―」
 湊圭史「観光客か、住人か」
 榊陽子「いま現代川柳を問い直す・・・気はあんまりない」

兵頭の文は、「いま現代川柳を問い直す」というテーマにもっとも合致している。いま世間で圧倒的に読まれている川柳がどういうものなのかを認識したうえで、現代川柳とは何かを再構築し、そのための情報を発信していく必要性を説いている。
飯島の文は、川合大祐の川柳の底に流れる大きなテーマを推測したうえで、第二次ベビーブーム世代が生きてきた時代と絡めた論を展開している。
湊の文は、以前旅行したスコットランドの歴史や首都エジンバラの街のつくりをきっかけにして、川柳の中で自分は観光客なのか住人なのかを問うている。
榊の文は、タイトルどおりの立場表明が滔々と捲し立てられていて兵頭と正反対の論調なのだが、それが結果的に、川柳への依存度を示しているところがご愛嬌。

ばらばらな感じは受ける。けれども、各人が川柳という〈場〉を立脚点とし、川柳という〈文脈〉に依拠して定点をもっている。定点があればこそ川柳をさまざま論じることができている。わたしはこの定点があるだけでもけっこう楽しい。

 ◇ ◇ ◇

特集に加え、今号は「特別寄稿」として、俳人の小津夜景さんが「ことばの原型を思い出す午後」と題し、わたくし飯島章友について文章を寄せてくださった。
小津夜景さんの作品は、知性・唯美性・背徳性・ユーモアが同居した言語センスで紡がれており、いつも陶然とさせられる。また音感といい、浸透感といい、雅言の選択といい、近代の以前以後を問わず短歌を読まれている形跡がある。それもあってか、小津さんの句を読んでいると俳句作品であることを忘れ、俳句でも短歌でも川柳でもない〈短詩〉そのものを読む心地がするときもある。歌人で芭蕉研究家でもあった太田水穂は、新古今和歌集が昇華されたものとして蕉風俳諧を捉えていたと記憶するが、小津作品にも短詩の総合性を感じる。

 誤字となるすんでの水を抱き寄せぬ
 ふゆいちご空間(ところ)時間(とき)のふたなりに
 郵便配達人(ファクター)よ此処は廃園だつたんだ
 (小津夜景作品集『THEATRUM MUNDI』より)
 
 ゆく秋の虹を義足に呉れないか
 しろながすくぢら最終便となる
 即興の雨をパセリとして過ごす
 (「週刊俳句」第469号・「小津夜景 水の音楽 musica aquatica」より)

わたしは、短歌においても川柳おいても、誌に作家論的な文を書いていただいたのはこれが初めて。それが小津夜景さんであったことは光栄の至りである。
「ことばの原型を思い出す午後」では、「私という質感/世界という質感」「変質と生命」「逼迫する時間性」「螺旋的起源へ」という観点から論じていただいた。ふだんの創作活動では抽象的にしか認識できていない自分の傾向や偏愛をここまで緻密に分析されると、驚きや悦びと同時に蠱惑的な怖さも浮かび上がってくる。ドイツ表現主義の映画として有名な「プラーグの大学生」では、鏡に映ったおのれの影(ドッペルゲンガー)が自分とは別の存在として行動しはじめるのだが、その感覚に似ているといえばいいのだろうか。それくらい小津さんの分析によって自分の影がじぶんに迫ってきた。

 ◇ ◇ ◇

最後に、昨年お亡くなりになった久保田紺さんの作品を小池正博が五十句抄出しているので、そちらから五句引用して終わりとしたい。紺さんとは本の贈答をしたことがあり、また或るWEB句会で特選にしていただいた思い出がある。

 極刑としての鏡を見せられる
 ライオンの口に投げ込むオムライス
 売り切れたはずの息子が並んでる
 キリンでいるキリン閉園時間まで
 着ぐるみの中では笑わなくていい


posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする