2016年05月29日

ラブ・ミー・テンダー:200字川柳小説  川合大祐

「だから、キスよりはしなくていいと思うの。それ以上のことって、別にしたくないわけじゃないんだけど、何か、こうね、手段と目的がすりかわっちゃってる気がする。とくべつにね、愛をささやけって言ってるわけじゃないのよ。ただ、求めるものがわたしとあなたではちがう。それがわかり合えないから、相手のことを知ろうって、コミュニケーションが生まれるんじゃないの?だから、キス以上はいい」と言って、少女は老人になった。

  一老人 交尾の姿勢ならできる  定金冬二(『一老人』より)

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2016年05月27日

第2回川柳フリマの感想

5月22日(日)の川柳フリマに参加した。微力ながら「かばん関西」のブースで販売のお手伝いをしてきた。

かばん関西のブースは、もしかしたら2名くらいで担当するかも知れないと構えていたが、最終的にはわたしも含め7人前後のメンバーで販売をした。それだけの人数が協力しあって仕事をこなすのを目の当たりにし、「かばんの会」的な良さは西も東も変わらないなあ、と感じた。かばん的な良さとは〈個〉と〈集〉のバランス感覚だと思っている。孤絶もせず埋没もせず、自然体で〈個〉と〈集〉を行き来するあり方といえばいいだろうか。そんな好印象もあってか、初対面のメンバーばかりなのに、ものの10分でため口になっていた気がする。失礼しました。

わたしは文学フリマに客側としてはよく行くのだけど、売る側としての経験はまったくなかった。そんなわけでコツがいまいち分からなかったのだが、終盤あたりにはいろいろなことが分かってきた気がする。声のかけ方、商品数の目安、小銭をどのくらい用意しておくべきか、などなど。その意味でいい経験をさせていただいた。


さて、川柳フリマの良さとは何か。いろいろあると思うけど、ひとつに、普段ブログを読んだりEメールだけでやり取りをしている川柳人とじかに社交がもてることだと思う。わたしも「あざみエージェント」の冨上朝世さん、「びわこ番傘川柳会」の徳永政二さん、竹井紫乙さん、「ねじまき句会」の妹尾凛さん、「川柳マガジン」の松岡恭子さんらと初めてお目にかかった。たいへん光栄だった。

とはいえ、多くの方は電脳空間で知っているというだけで、実際のお顔は存じ上げないことも多い。なもので、おそろしくシャイなわたしは「あれ、何となく◯◯さんの気がする・・・でも違っていたらどうしよう」などと気苦労が絶えなかった。それでも、一回ご挨拶をしてみるとじつに素敵な方たちばかりで、ひじょ〜にリラックスしてお話ができた。「川柳ねじまき」のブースでは妹尾凛さん、八上桐子さんと、
「旬の樹萄らきさんの句は面白いですね」
「でもお顔を見たことはないんですよ」
「あら、わたしもです」
「いやだ、わたしもよ」
(一同笑い)
みたいなやり取りがあった。

わたしの経験からいうと、伝統川柳・詩性川柳にかかわりなく、川柳人の大半は気取ったところがない。歌人がガラスのような感じだとすれば、川柳人は藁みたいな感じ(あ、これベストを尽くして褒めています)。川柳という文芸は「座の文芸」の性質を残しているので、それも親しみやすさに関係しているのかしら。善かれ悪しかれ〈近代的な個〉にどっぷりというわけではない。社会性を身につけている感じだ。

「第1回現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」にわたしは参加していないので去年との比較はできないけれど、会場には20代〜30代くらいの人もわりと来場していた。俳句や短歌に基盤をおいている方々なのかも知れないが、「川柳って意外に面白そうだよ」と口コミでひろがっていけば素敵ではないか。そこから有為な青年が参入してくるかも知れない。

最後に、川柳フリマの総括をして終わ・・・・・・と思ったが、帰りに立ち寄った「551蓬莱」の豚まん、焼売、エビ焼売を紹介して終わりにしたい。アツアツすぎて口中の皮が剝がれてしまったのだが、とてもおいしゅうございました。わたしの隣りの席には深津絵里似のおねいさんが独り、豚まんと焼売とラーメンを豪快に召し上がっていた。思わず「惚れてまうやろ〜」と叫んでしまいそうになったのである。

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posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(2) | 川柳イベントレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月24日

【イベントレポート】恋愛はアイドルの夢を見るか?−第二回現代川柳フリマ 山田消児×小池正博「短歌の虚構・川柳の虚構」レポート−/柳本々々

2016年5月22日に大阪のたかつガーデンに開催された「第二回現代川柳ヒストリア+川柳フリマ」で、山田消児さんと小池正博さんの対談がありました。

そのなかで、短歌の虚構・川柳の虚構についてお二人が話されたんですが、短歌の虚構/川柳の虚構という同一化できない〈ふたつの虚構〉を通してみえてきたのは、〈虚構〉というのはそもそも「これだ」とくくることができないものであり、その虚構をめぐる〈場所〉によって関数的に変わっていくものだということだったように思うんです。

だから、「虚構とは、なにか」という問題の立て方をするとあしもとをすくわれるというか果てのない論議になってしまう。「虚構とは、なにか」という問いの立て方自体が〈虚構・的〉になってしまう場合がある。もし〈虚構〉をさぐるなら、その〈虚構〉という言葉がおのおのの場所でどのように使用され、どのように意味構築しているかをていねいにみる必要がある。

ただそれはものすごく大変な作業です。短歌や川柳は、短歌や川柳とう大きなジャンルはあっても、それぞれの人間の歌や句が志向するベクトルはおのおのが所属している場所によって違うのでそれだけ〈虚構の用法〉の数がでてきます。ある場所では〈こう〉でも、べつの場所にいけば、まったく反対の場合もある。〈虚構の用法〉がみんなちがってくる。

そうすると〈虚構問題〉というのは、〈虚構とは、なにか〉という問題ではなくて、〈ひとはなんのために虚構について話し合いたいのか〉という問題になってくるようにも思うんです。そうすると〈虚構問題〉が少しだけ見えてくる場合もあるんじゃないか。つまり、ジャンルをもう一度あらためて考え直したいために〈虚構問題〉について考えようとするんじゃないかと。

なぜそんなことを考えたかというと、〈虚構問題〉というのはちょっとアイドル論に似ているんじゃないかと思ったんです。アイドルはよく恋愛禁止と言われたりしているけれど、でも実際のところはよくわからないわけです。どこまで虚構なのかわからない。それでも、恋愛した/しないというのはアイドルにとって死活問題になってくることがある。そのとき、恋愛をしたのかどうかはわからないけれど、でも切実にその恋愛が問題になってくるのは、アイドルというジャンルをきちんと考え直すためのバネになっているからだとも思うんです。恋愛=虚構を通じて、ファンのひとたちは、アイドルというカテゴリーをもういちど考え直そうとしているんじゃないかと。

だからそういう仕組みというか装置として虚構問題をとらえる視点がひとつありなのかなとお二方の対談をききながら思ったんです。

で、私がたまたま連想した虚構問題とアイドル論が少し似通っているところがあるのだとするのならば、〈虚構問題〉というのはアイドル論が社会学的問題であるように、短歌論や川柳論、文学論の問題ではなく、もしかしたら社会学的な問題なのかなとも思いました。〈虚構の用法〉というのはたぶんそういうことなんだと思うんです。社会学的にみるというのは、ひとりひとりの人間が〈虚構〉という言葉をそのジャンルの場所のなかでどんなふうに使いながら・どこに行こうとしているかという視点です。

そうすると〈虚構問題〉を取り扱うことは、ときに、カテゴリーを踏み越えていく場合がある。そういう超カテゴリー的な問題でもある。

〈虚構問題〉って〈虚構〉というラベルを貼りながらも、おまえがどこの場所にいて、どういう発言をしているかという根っこの部分に〈実体〉として食い込んでくるのです。

すごく、おそろしいものだと、思いました。(談)

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posted by 柳本々々 at 13:05| 川柳イベントレポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

レポート:現代川柳ヒストリア+川柳フリマ

5月22日、第二回現代川柳ヒストリア+川柳フリマに行ってきました。
↓先日、飯島章友も紹介しています。
http://senryusuplex.seesaa.net/article/437784844.html

わたしは『俳句と超短編』二十数冊を出店したのですが、たくさんの方に手に取っていただき、俳句や短歌の実作者である方たちと言葉もかわせて、たとえば俳句を作っているという男性(推定二十代半ば)が『俳句と超短編』を開いて、わ、この句、とひとりごとを口にして笑えば、もっと話を聞いてみたいところだったのですが、なんとなくばたばたと時間が過ぎ、ちょっと残念にも思いつつ、長崎くんちの蛇踊りみたいに、カプセルが入った立方体のケージを前後ふたりで抱えて練り歩く「短歌がちゃがちゃ」(かぷせるの中身は短歌なのでしょう、おみくじみたいでひいてみたかったのですがby関西かばん)にびっくりしたり、お祭り気分も味わえ楽しかったです。

フリマ以外では
展示「句集でたどる現代川柳の歩み」(解説・石田柊馬)
対談「短歌の虚構・川柳の虚構」(山田消児×小池正博)
句集紹介、事前投句の選句発表など、もりだくさんでありました。

さて、虚構について。
「句集でたどる現代川柳の歩み」(解説・石田柊馬)でも、「川柳はフィクションを見つけた」ということがキーワードだと感じたのですが、対談「短歌の虚構・川柳の虚構」(山田消児×小池正博)の「虚構」が興味ぶかかったです。
資料の、「短歌の虚構・川柳の虚構」として挙げられたのは下記の通り。

【短歌の虚構】(AからEのアルファベットは江口が付記)
A 照準つけしままの姿勢に息絶えし少年もありき敵陣のなかに(渡辺直己)
B 奪われてしまうものならはじめからいらないたとえば祖国朝鮮(野樹かずみ)
C 降り出した粉雪ながめ帰れずにあたしいつまで万引き少女(河野麻沙希)
D 父危篤の報受けし宵缶ビール一本分の速度違反を(石井僚一)
E 食べ損ねたる手足を想い山姥が涙の沼を作つた話(石川美南)
【川柳の虚構】
人殺しして来て細い糞をする(中村冨二)
雑踏のひとり振り向き滝を吐く(石部明)
流れ着くワカメ、コンブを巻きつけて(広瀬ちえみ)
ヒトラーユーゲントの脛毛にチャコはすがりつく(山田ゆみ葉)
乳飲み子と歩調があえば船は出る(兵頭全郎)

ならべるとずいぶん違う「虚構」なのです。
川柳の5句は一読して「虚」の世界ですが、短歌はE以外はリアルとも読めます。
Eは『物語集』という、すべて「~話」と結ばれる連作から。
ではA~Dはどこが虚構なのか?渡辺直己はアララギの歌人。昭和14年32歳で戦死。写実詠のようなAは実は戦地へ赴く前に作られたものだといいます。映画『西部戦線異状なし』の影響もあるという指摘も。その言われれば虚構かもしれま今から戦地へと向かう青年にとっては歌の世界はリアルだったことでしょう。ともあれ、ほんとうらしく書いているという点では、辞書的な虚構にあてはまる。同様にBの作者は日本人で、Cの作者は男性、Dは短歌研究新人賞受賞作「父親のような雨に打たれて」の一首ですが、受賞作はのちに父が生存していたことがあきらかになり論議をよんだもの。
「ほんとうらしく書いた」ということは共通でも虚構のしつらえかたはさまざまです。
読み手としておもしろがれるか否か、そもそもテキストのみがあれば他の情報は不要ではないのか?
テキストの鑑賞が、それが虚構か否かによって変化するなんて読み手としてふがいなくはないか?
(とはいえ、Cの歌など、作者の性別を知って好感さらにあがった、ふがいないわたしです)
等々、短時間ではとうてい考えつくせないのですが。
31文字と17文字という長さの違いもあるんでしょうか、
川柳の虚構は、ほんとうらしく仕上がるヒマもない。
ほんとうらしく書く態度がない部分で辞書的な意味の虚構とは違う。
石部明は川柳で大嘘を書きたいと言いました。大嘘とはワタクシ川柳へのアンチテーゼかもしれないと小池正博は発言し、わたしもそうだったんだろうなと思い ま すが、レジメの掲句をみるとアンチテーゼからも自由で、純粋に大嘘、とも思え、いいぞ!と、おもしろがったことでした。

、以上、取り急ぎ、レポートでした。。。




posted by 江口ちかる at 02:14| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月22日

ユニバーサル・スタジオ:200字川柳小説  川合大祐

裏庭に飼っている宇宙を見に行った。この所の宇宙泥棒さわぎで、うちもだいぶ警戒はしている。近所のAさんからZさんに至るまで、軒並みやられている。無傷なのは我が家だけだ。裏庭に行く。金網の中で、宇宙が眠っている。直径0.575ミリの針金とビー玉で出来た宇宙。静かな、しかし苦々しい眠り。ふと金網を開いて、宇宙を逃してやった。なんだ。宇宙泥棒なんていなかったんだ。その宇宙が、今我々が住んでいる宇宙である。

  空に問う大きいものは何ですか  樹萄らき(「川柳の仲間 旬」No.205より)

posted by 川合大祐 at 00:00| Comment(0) | 川柳小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする