2016年09月28日

川合大祐『スロー・リバー』を読む2(【一句ミニ対談】点と線 安福望×柳本々々)

【一句ミニ対談】点と線 安福望×柳本々々

だから、ねえ、祈っているよ、それだけだ、  川合大祐

安福 だから、の前が気になるんですよね。 この句、だれかに言ってるんだと思って、二人いるのかな。二人以上の可能性も。でもひとりぼっちのような気もする。

柳本 あ、そうか。途中からいきなりはじまってるんですよね。

安福 そうなんですよ。「だから、」の前になにがあったんやろうって思いました。あと「、」が四つもあるから、川柳なのに滞在時間が長く感じます。

柳本 時間の問題は面白いですね。「、」が入るとそれだけ滞在時間が長くなるから。これ句集の最後の句なんですけど、すごおくゆっくりになって句集は終わる。ほんと句集のタイトルの「スロー・リバー」になっておわる。

安福 あ、ほんとですね!

柳本 しかも複数のひとで終わるっていうのがいいのかな。川みたいに複数の線でおわる。ひとが二人以上いるみたいに。点がたくさん入った発話が、複数の線=人を呼び込んでいく。

安福 複数のひとが祈ってるような気がしてきました。

柳本 あ、いいですね。それで終わりにしましょう。複数のひとの祈りでこの句集は終わる。それって短い形式の短詩がかかえもつ祝福された逆説のような気がするから。

(終)

安福 だから、の前はなんか別れがあった気がするんですよね。たぶん、もう会えないんですよ。

柳本 あ、また、話し始めた、

安福 終わらないのがいいですね。

柳本 …はい。


【ゲスト・安福望・プロフィール】
イラストレーター。『食器と食パンとペン』(キノブックス、2015年)、岡野大嗣『サイレンと犀』(書肆侃侃房、2014年)の装画・挿絵を担当。
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2016年09月25日

車の起源:200字川柳小説  川合大祐

以上をもって、始原は一輪車であったという知見が、現在では最も正当であると推定される。時間の経過に伴い、一輪車は二輪車に進化した。この証拠としては、一輪挿しに二輪草を活けることが可能である事実を明記しておけば足りる。演繹的に、二輪車は三輪車に進化し、四輪車として更に無限の可能性を拡張する筈だった。然るに、送電塔の下には、現在なお三輪車のみが停滞している。断ずるならば、進化とはかなしいものなのである。

  送電塔から連なってくる三輪車  江口ちかる(「第71回 川柳北田辺」より)

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2016年09月20日

【今月の作品を読む】「左手にマングース」を〈読む〉川合大祐

 「「左手にマングース」を〈読む〉」と題して一文を書こうとしているわけだが、〈読む〉とはどういうことなのだろうか。
 たとえば、〈読む〉だけなら根気さえあれば誰にでもできる。『失われた時を求めて』の活字を追うだけなら、小学生にも可能のはずだ。だが、普通(って何だろう)、そういう行為を〈読む〉とは思わないだろう。
 ではどうすればいいのか。感じればいいのか。Don't think,Feel. だが私は、〈感じる〉という言葉で物事を片付けることに、一抹の危惧を覚える。今語っていることは「左手にマングース」についてだが、これは〈考え〉て〈わかる〉句群ではない。だが〈感じ〉てしまった時に、何か大切なものが欠落してしまう。
 考える、でもなく、感じる、でもない第三の道はないものだろうか。それは私にも明確な答えは出ていない。出ていないが、漠然と〈する〉ではないかと仮に名付けておく。テクストを、まさに体験として体験〈する〉こと。それがおそらく〈読む〉ということの、ひとつのありかたなのかもしれない。小池正博の句は、長さとしては最小に近い川柳という形式の上で、人にそういう〈読む〉体験を否応なく迫ってくる。
 そのあたりを念頭に置きつつ、一句ずつを〈読む〉ことにしたい。

まみどりのねばねばたちの総くずれ
 この句には主体がない。まみどりのねばねばたち「が」総くずれしているわけではないのだ。「まみどりのねばねばたち」が正体不明なのではない。「の総くずれ」と書かれることによって、句全体が客体化されているところに、この句の〈わからなさ〉があるのだ。あえて主体を探すとすれば、それはこの句を読んでいる読者だろう。読者とはわたしであるかもしれないし、あなたであるかもしれない。だがそこで主体を問われているところに、読むという体験がある。まみどりのねばねばたちの総くずれとは、〈する〉ものなのだった。

仰向けに死なない蝉もいるようだ
 この句においても、主体は句の中にいない。「死なない蝉」が主体かと思えば、すぐさま「いるようだ」と外から眺められる被観察物になる。「いるようだ」は誰が言っているのだろうか。作者であるとは言い切ることができない。「仰向けに死なない」という蝉の行為があるかぎり、これは作者の観察眼だとか、そういう範疇を逸脱している。やはりこの句でも一貫した体験を〈する〉のは〈読む〉ものにのみ与えられた特権なのだと思う。

攻めることにする左手にマングース
 「左手にマングース」という言葉自体は難解ではない。意味/無意味を越えた地点に、左手とマングースの出会いがある。問題は「攻めることにする」の寄る辺なさだろう。誰が、何を、どうして攻めることにするのか、この句は頑として語らない。だが、〈わたし〉と世界との関わりは、本来こうしたものではなかったか。「左手にマングース」とは、普遍的な体験なのだ。

鳥葬が終わったあとの赤と青
 この句で、作中主体を探すとすれば「赤と青」ではない。赤と青はいわば残響として置かれた手がかりである。同時にこの「赤と青」がある限り、「鳥葬」も主体にはなりえない。「鳥葬」と「赤と青」のベクトルは正反対を向き、互いに主体であることを牽制しあっているのだ。強いて主体を挙げるとすれば「あと」ではないのか。すべてが「終わった」後の「あと」。これはやはりひとつの行為が終わったというしるしである。それを〈体験〉と呼ぶのではないだろうか。体験を〈する〉のは、必然的に、読者であろう。

空白を曳けば山鉾動き出す
 この句においては、二重の主体が使われている。「空白を曳」く誰か、そして「動き出す」山鉾の二つである。一句の中に巧妙に嵌められた(ゆえに、一読しただけでは気付かない)二重の主体に、読み手は惑乱させられる。「空白」とはまぎれもない空白であり、そこに〈わたし〉も〈あなた〉も回収されるのだった。

肉食は滝であろうとなかろうと
 「滝であろうとなかろうと」において、〈滝である〉という行為が想定されている。それは、日常言語であれば成立しない行為である。そこに読者を立たせてくれること、これこそが〈詩〉の言語である。ここで読み手が目くらましにあったような感覚に襲われるのは、この句が〈滝である〉という体験のただ中に置かれるからなのだろう。それが川柳を「する」ということなのではないだろうか。

快晴の空から降ってくる子ども
 今まで見てきた句がそうであるように、「子ども」が主体なのではない。「快晴の空から」という視点が、明らかにメタレベルの主体を示している。〈わたし/あなた〉は「子ども」が「降ってくる」のを、まさに体験として体験する。視点がそうであったように、一見してあるように見える〈意味〉も、メタフィクション的な領域に存在するのだった。

預金から月の光をひきだそう
 「まみどりのねばねばたちの総くずれ」から始まった連作は、ここで終わる。「まみどりの」の句に主体が存在しないことはすでに触れた。ではこの句では主体はどこにあるのか。「ひきだそう」は決意の表明であるとも、読み手への呼びかけであるとも取れる。どちらにせよ、そこにあるのは、まぎれもない意志である。意志は主体を呼ぶ。あるいは、主体が意志を明確にすると言えるかも知れない。だが、この句の主体は作者なのか、読み手なのかあえて撹乱されている。考えて(!)みれば体験とは、主体が主体でなくなる、あるいは主体の交差に生まれる現象だった。だからこの句の配置は偶然ではない。必然的に選ばれた「ひきだそう」という言葉である。やはりこの連作は〈する〉ものだったと考えられる、感じられるものだったのだ。

 以上、粗い読みながら八句を鑑賞してみた。舌足らず、思慮足らずな面があるのは申し訳ない。この連作の〈意味〉を考えるのも、無論有効な読み方である。ただ、ここではなるべく〈意味〉を探すのを避けた。それが小池正博という作家への、私なりの正当な向き合い方であると思うからである。暴論平にご容赦願いたい。
 ただ、この読み方を〈する〉のは大変面白かった。
 私も、川柳をしてゆこうと思う。
posted by 川合大祐 at 06:02| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月18日

存在と置換:200字川柳小説  川合大祐

峠を越えると総菜売り場がある。否その言い方は正確でない。癒着爆弾の投下によりこの国の言語はそして物自体は一変した。とうげのうとそうざいうりばのううが融合してしまったのだった。今や西澤ショッパーズ特製かき揚げを買うためにもこの長い人生めいた天城峠めいた塩狩峠めいた峠と向き合わなければならない始末だ。長い峠で森はもっと深くなる。突然天啓があった。こうやって、を打てばいいのだと。総菜の、存在の、そざい。

  峠という存在感、総菜売り場  石田柊馬(「ふらすこてん」第四十七号より)

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2016年09月13日

THANATOS 石部明 2/4

「THANATOS 石部明 2/4」(knot:小池正博 八上桐子)が発行されました。石部明さんの作品・評論と共にその創作人生を振り返る内容です。いっさいの無駄を省き、石部明の魅力をまとめた良質な冊子だと思います。前回の「1/4」は1977年〜1986年の石部明が取り上げられましたが、今回の「2/4」では1987年〜1995年に焦点があてられています。

2007(平成19)年のデータで少し古いのですが、季刊「短歌ヴァ―サス」第11号に「若手歌人白書2007」というアンケート企画がありました。その中に「好きな歌人・影響を受けた歌人を3人まで挙げて下さい」という質問があったのですが、得票順で1位が寺山修司、2位が塚本邦雄、3位が穂村弘、という結果でした。寺山と塚本の影響は現在の若手歌人にも絶大だったのです。
わたしは、これから川柳の世界に入ってくる若い人にとって、石部明はかならずや、寺山や恂{のような存在になるだろうと考えています。

ちなみに「THANATOS 石部明 2/4」は、9月18日(日)に開催される「第四回文学フリマ大阪」の「川柳カード」ブースで手に入るそうです。

 さくら咲き耳のいちまい蘇生する  石部明


posted by 飯島章友 at 00:00| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする