2017年02月04日

2ぽ なんだかぶきみなことが 安福望×柳本々々−田島健一句集『ただならぬぽ』から−

安福 たじまさん、ブログで

  句集なのでどこから読んでもかまいませんが、1ページ目から読んでいってもらえると、先の読めない予告編をあつめた、予告編だけの映画を観たような気分になれるかも知れません。もしご覧になる機会があれば、そんなつもりで読んでみていただけるとありがたいです。

ってかいてたんですよね。だから、じゃあ、起こったあとなんだけど、起こってることをうまいこと編集してるかんじの句、なのかな、とか、予告ってことはまだ起こる前ってことかな、とか考えたりしていたんですけどね。なんかよくわかんなくなってきました(笑)。

柳本 なるほどなあ。予告だと起こってないかんじですね。

安福 人にみられるまでシンメトリーの桃とか豆にしらないひとがいるとか、なんか予告っぽいですよね。いまからはじまるかんじがします。なんだかぶきみなことが。

柳本 いまちょっと面白いなと思ったのは、田島さんが俳句を映画と関連づけて考えているところだと思うんですよね。田島さんって、俳句の基礎的な部分を考えてるうちに、他ジャンルのことも考えざるをえなくなったところがあるんじゃないのかなあって時々おもうんですよね。だからあとがきで、俳句が俳句であることを書かれたんじゃないのかなあ。

安福 ああ。

柳本 映画をたとえにするのっておもしろいですよね。映画っていってみれば、なにもなくても・なにかが起こってる場所だから。

安福 えっ、あっ、そうかあ。なにもなくてもおこってるばしょですか。映画って、みえてないそのまわりにめちゃくちゃ人がいるのがふしぎだなあっていつもおもいますけどね。うつってないんだけどほんとはまわりにいっぱいひといますよね、一人の場面でも。あれふしぎだなあ。

柳本 映画って、いってみれば、ただの光なんですよね。ただの光しかみてない状態だと思うんですよ、ひとの。つまり、「ぽ」ってかんじの光をみて、かってにイメージをうつしてるだけで、ただたんにひかりしかみてない、スクリーンの。なんか、ひとの感覚の根っこの体験ですよね、映画って。ただの光をみてるんだから。さいきん、安井浩司さんの原稿を読ませていただく機会があってそのときに、そもそも俳句の〈根っこ〉ってなんなんだろう、って考えたんですよね。どうやって、ひとは俳句の根っこに出会うのかなって。それって、筑紫磐井さんや攝津幸彦さんについて書いたときもおもったんですよ。根っこってなんだろう、って。それで、田島さんも現代詩手帖でずっと時評を書かれているんだけど、どうも、俳句をめぐる根っこについてかんがえられているんじゃないかって気がしたんです。

安福 田島さんの句集のいいなと思った句に、

  根の研究あかるくて見えにくい蝶  田島健一

があるんですよ。これいいなあとおもって。

柳本 ああ、これいいですね。いやほんとに、まさに「根の研究」なんだと思います。その、表層の部分としての「蝶」は、見えないというか。見えにくいのか。田島さんって「根の研究」者なのかなあと思うときがあるんです。根の研究をするためには蝶をいったん見えにくくする必要があるというか。

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柳本 これまたやすふくさんの昔の作品なんですよね。これもおもしろい作品ですね。

安福 雲の本なんですよ。

柳本 きのうの芽Amazonも場所が志向されていたけれど、今回の雲の本も本が雲化することによって場所が志向されているんですね。そうかんがえると、安福論としても今の絵につながってて面白いと思うけど、こうやって田島さんの句集と組み合わせてみると田島さんの句ももくもくなにかが生成されてるかんじってありますよね。

安福 わたしの好きな句で、

  蟬時雨いるような気がすればいる  田島健一

っていう句があるんですけど、これってなにかが生まれてるかんじしますよね。生まれてるところにたちあってるというか。

柳本 ああ、「いるような気がすればいる」ってなにかが生まれることの根っこなんじゃないですかね。この「いるような気がすればいる」っていうのも俳句の根っこのひとつなんじゃないかな。俳句であるような気がすれば俳句である、っていう。

安福 そうしたら、すべてのものがいえるじゃないですか。わたしであるような気がすればわたしである、とかね。

柳本 だから、その、あの、根っこ。


posted by 柳本々々 at 21:49| 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする