2017年02月06日

4ぽ 俳句の感想って言ってもいいのかどうか罰せられないかどうか 安福望×柳本々々

安福 田島さんの句集『ぽ』、ぱらぱらしたとき川柳っぽいなあっておもったけど、最初からめくってると、やっぱり俳句なきがしました。季語って昔からあるから難しい字が多かったりもするんですよね。だから俳句を読むってことは俳句をやってないひとには不安になる行為になることもあるんじゃないかなって思いました。

柳本 季語がね、すごくふしぎなんですよね。季語ってなんなんでしょうね。ときどきものすごく季語がぬーっと立ってみえるときがある。ダイダラボッチみたいに。季語って共有言語だとはおもうんですよ。それは歳時記があるからそうじゃないですか。それに決まりもちゃんとありますよね。春の季語をわたしだけきょうから夏の季語にします、とかはできないじゃないですか。
でも、季語って共有言語とはいいながら共有言語でもない部分ありますよね。「浮いてこい」って夏の季語なんですけど、ふつうに暮らしてたらちょっとわかんないですよね。季語ってわからないものがけっこうたくさんあって。そのときの季節感ってなんだろうと思うんですよ。ほんとうはそれによって季節がざわっと感じられるはずなんだけれど、文字のざわざわした感じをむしろ今は感じる場合もあるわけですよね。
あと、間違えちゃうこともある。イチゴは季語ですっていわれても、えっ、そうなのと思ったり。でも俳句は基本的に季語を使う。
そうすると、なんかこう理解不能な場所にじぶんからわざわざつっこんでゆく行為なわけですよね。それってずっと不思議で。わたしにとって俳句の不思議ってたぶんそういうことなんだろうなと思います。それで興味もってるんだとおもいます。それってなんなんだろ。なんのためなんだろうって。
季語ってそのいみで魅力的でこわいんですよ。よくわからないところがある。安心させてくれるとともにつきおとすような。
ただし、この季語って広げてみると、定型にもなってくるとおもいます。だから短歌とか川柳も無縁ではないとおもう。なんのためにわざわざ定型という理解しにくいかたちでひとは発話するんだろうって。それはすごく不思議なことですよ。定型って生まれつきそなわってるものじゃないし、たぶん、もしかしたらだけど、自然なリズムでもないのかもしれないし。8音とかのほうがナチュラルなのかもしれないし。

安福 そうですね。たしかに安心させるようで、わかんないとつきおとされるところがあるかもしれない、季語は。

柳本 つきおとされるといえばね、象徴的自殺っていろんなかたちがあるとおもうんですよ。一日ふとんにもぐって家からでない、とか。
俳句もすこし近いのかなとおもうときがあるんです。なんていうか、季語がね、刀にみえるときがあるんです。
ただ象徴的自殺ってわるいことじゃないですね。なにかのきっかけになるし、生き返る。
こないだNHKのハートネットTVで、新宿歌舞伎町屍派のドキュメンタリーがやっていて、北大路翼さんが、生きることの不思議、みたいなことについてさいご話されてたんですよ。死んでも生きる、みたいな。だから、屍なんだよ、って。で、ああそうかあ、なんか、俳句って象徴的自傷というか象徴的自殺があるのかなあって。そこからの再生というか。
うまくいえないですけどね。でも、うーん、屍派の俳句ドキュメンタリーをみていて、そのなかで生きることと俳句が結びついていたんですよね。生きること、生きないことと結びついていく。なんかそこからいろいろ考えられないかって。そうおもいながら、何度か繰り返し、深夜に、みました。

安福 テレビで俳句先生とかやってて、母とかよくみてるから、やりはじめるひと多そうですよね。どこまで奥にすすむかなのかなあ。奥にすすむとやっぱりおそろしくなっていきますね。でもどんな奥にいくかなのかなあ。そもそも奥があるってことなのかなあ。

柳本 だから、たぶん、俳句って高層ビルみたいなもんで、いろんな場所でエレベーターから降りていくひとがいるんですよ。だからものすごくみあげながら相手と話してる場合もあるんじゃないかな。
俳句ってなんなんですかね。ただ田島さんの俳句みてると、なんか俳句やったことないひとにも抜け道みたいのを示してる気もして。それはなんなのかはよくわからないんだけど。
なんかこう、高校のいちばん暗いころに、田島さんの俳句みてたら、ちょっと俳句に対する考え方が変わってたんじゃないのとはおもうときあるんですよ。ああこんなこともできるのかって。ちょっとだけ明るくなれる、っていうかね。そのときの生が。

安福 なるほど、

  いちご憲法いちごの幸せな国民  田島健一

この「いちご憲法」の「いちご」が季語なんですね。

柳本 こうみてみると、季語ってファンシーなものなんだなっておもいますよね。俳句だからいちごって季語がはいってくるんだけど、そのいちごが憲法とか国民とくっついてファンシーなものになっていく。この句の中のすべてのことばがそわそわしてるかんじがある。季語のいちごも憲法も国民も落ち着いていなくてね、あっそうか、落ち着いてない俳句なんだ、っておもう。
だから、幸せだっておもってることって、その同一性がじつは落ち着いてないかもしれないんだよとも、おもう。幸せなときってがーっといっちゃいますもんね。季語がトリガーみたいになって、ことばをそわそわさせていく。でもここまで読んじゃっていいのかなあ。読みすぎかもしれない。

安福 なるほどなあ。私も俳句を読むといろいろ感想をもつんですけど、ときどきいっていいものなのかなっておもうんですよね。それはなんだろう。季語があるからなのかな。でも季語がわかったからといって感想いえるようになるのかなあ。そもそも俳句と感想がどうむすびつくかもわからないところがあるのかな。

柳本 そうなんですよね、私もずっと考えてるんですよ。昔、西原天気さんとお話させていただいたときにやっぱり、季語がこわい、って話したんですよね。なんかすごくこわいものだと。
俳句を読む、ってどういうことなんですかね。わたしもよくわからないんです。わたしは俳句を詠んでないし。ただ田島さんみたいにおもしろい俳句があるから、なんだ俳句ってへんなことが起こってるのかなと思ってきょうみもつんだけど。
俳句ってなんなんでしょうね。ふしぎなものです。で、ときどき感想を書いてみるんですけど、たぶん、決定的に間違えてることもあるとおもうんですよ。致命的な、とんでもない間違いを。こいつとんでもない誤読してんな、って。そういうとき、少しだけ死ぬわけですよね、感想をもつことが。だから、俳句の形式ってふしぎだなあとおもう。
なにかね、ときどき罰せられることもあるのかもしれないなって。饒舌さにたいして。

安福 誰から罰せられるんですか。

柳本 俳句から。

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(写真・白鳥:安福望。作品名「白鳥のつかいみち」)


posted by 柳本々々 at 22:02| 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする