2017年04月11日

ゲスト作品「暮らしラッシュ」をよむ


ゾンビになったら探そうゾンビのしあわせ   山中千瀬

通勤ラッシュと通学ラッシュが融合した朝の駅では、動く歩道に、ホームへの階段に、連絡用通路に、実にたくさんの人が押し寄せる。彼らは皆一定の方向に向けて、なおかつ一定のペースで歩みを進める。急いで走ることはなく、かといってのんびり歩いているわけでもない、奇妙なスピード感。自らの意志のようにも、何者かに操られているかのようにも見える、不思議な歩行。彼らを眺める度に、私は決まってホラー映画のワンシーンを思い浮かべてしまう。白眼をむきボロボロの服をまとい、土気色の両手を前に突き出してゆらゆらと近付いてくる、大量のゾンビの群。何より怖いのは、私もまたいつのまにかその中の1人になっていることだ。とはいえ〈暮らし〉の中で消費し消費されることはどうしたって避けられない。
しかしこの句は「ゾンビになったらゾンビのしあわせを探そう」と言う。やむをえずゾンビになってしまう事を決して否定せず、その中で幸せを探そうと、探しても良いのだと、言ってくれる。私はそれを皮肉ややけっぱちなどではなく、一種のエールとして心にしまいたい。

posted by 倉間しおり at 14:19| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

まれびとと桜浅草十二階  なかはられいこ

nejimaki3.JPG

まれびとと桜浅草十二階  なかはられいこ

「川柳ねじまき」第3号より。

わたしはかねてより「川柳ねじまき」誌と、そのもとになっている「ねじまき句会」の川柳が大好きだ。現代川柳はコア層向けの作風からライト層向けの作風までいろいろあると思うけど、ねじまきの川柳はあらゆる層の方々にお勧めしたい。とてもポップな柳誌なのだ。

掲出句。
まず言葉の意味から調べてみると、「まれびと」は《まれに来る人の意》で、@「民俗学で、異郷から来訪する神をいう。人々の歓待を受けて帰ると考えられた。折口信夫の用語」、A「まろうど」すなわち「訪ねてきた人、客、客人」、という意味がある。

また「浅草十二階」は「凌雲閣」の通称で、「東京都台東区浅草公園にあった煉瓦 造り12階建ての建物。明治23年(1890)建設。東京名所となったが、大正12年(1923)の関東大震災で半壊、撤去された。通称、十二階」。

ちなみに、浅草十二階=凌雲閣といえば、石川啄木も『一握の砂』にこんな歌を残している。

 浅草の凌雲閣りよううんかくのいただきに
 腕組みし日の
 長き日記にきかな


「凌雲閣」「いただき」「腕組み」「長き日記」という言葉が共鳴しあい、時間的にも空間的にもゆったりとした長さが感得される。

さて、掲出句を読んでまっさきに面白いと感じた点は、(五・七・五の真ん中の七音にあたる)中七に表れた音の混ざり合いにある。ちょっと掲出句をローマ字で示してみよう。

marebito to sakura asakusa-junikai

つまり、中七の「桜」と「浅草」が主に、s音、a音、k音、u音で構成されているため、「桜」ということばと「浅草」ということばがじわじわと混ざり合い、滲み合い、あたかも音によって融合されていく感覚が生じるのだ。言い換えるなら、作中に登場するヒトやモノの〈空間〉的なへだたりが徐々に無効になっていく感覚だ。ちなみに作中に登場するヒトとは、花見にやって来た「語り手」と「まれびと」。作中に登場するモノとは、「桜」と「浅草十二階」である。

〈空間〉的なへだたりが徐々に無効になっていくとはどういうことなのか。
かりに掲出句を、@「〈語り手〉と〈まれびと〉は眼前に〈桜〉を見ており、そのすこし向こうのほうには〈浅草十二階〉が見える」という位置関係で読んでみる。すると、中七部分の音の融合があたかも近距離ワープの役割を果たし、「語り手・まれびと・桜」の側と「浅草十二階」との間にある遠近感が無効化されていくと思うのだ。

別の位置関係で読んでみても同じである。A「〈語り手〉と〈まれびと〉が眼下に〈桜〉を見渡している、この〈浅草十二階〉という場所から」という位置関係で考えてみよう。中七部分の音の融合によって、「語り手・まれびと・浅草十二階」の側と「桜」との間にある空間的なへだたりが徐々に無効化されていく感覚が生じてくる。いわば、あちらとこちらの位置関係が徐々に意味をなくしていくのである。

また、このワープ感に気づくと、この中七の音の融合は、過去→現在→未来という〈時間〉の不可逆な進行方向すら無効にしているのではないかと思えてくる。「まれびと」と共に浅草へ花見に来た「語り手」が、「まれびと」の不可思議な能力によって過去にタイムリープし、90年以上前に潰えた「浅草十二階」を見てしまった、というふうに。

掲出句は、登場するヒトとモノの位置関係が判然としない。どこに言葉の切れ目があるのかも少々あいまいだ。それゆえ句意をつかもうと思ってもどうもつかみがたい。にもかかわらず、わたしを惹きつける要素がある。「まれびと」「桜」「浅草十二階」という、まるで夢と現のあやうい境界線上に存在するような句語が慎重に選択されているが、それらには儚さゆえの蠱惑的な魔力がある。たとえるならばこの句は、蜃気楼にも似たおもむきを醸している。
わたしがその妖しい文体の魔力に嵌って何回も何回も読み返している短編小説がある。江戸川乱歩の『押絵と旅する男』だ。その冒頭は、夢と現が倒錯する出来事が起こる予兆のように、主人公が魚津に蜃気楼を見に行ったシーンではじまる。

 蜃気楼とは、乳色のフィルムの表面に墨汁をたらして、それが自然にジワジワとにじんで行くのを、途方もなく巨大な映画にして、大空にうつし出したようなものであった。
 はるかな能登半島の森林が、喰いちがった大気の変形レンズを通して、すぐ眼の前の大空に、焦点のよく合わぬ顕微鏡の下の黒い虫みたいに、曖昧に、しかもばかばかしく拡大されて、見る者の頭上におしかぶさってくるのであった。それは、妙な形の黒雲と似ていたけれど、黒雲なればその所在がハッキリわかっているのに反し、蜃気楼は不思議にも、それを見る者との距離が非常に曖昧なのだ。

江戸川乱歩著『押絵と旅する男』


4396.JPG

posted by 飯島章友 at 07:00| Comment(2) | 飯島章友・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする