2018年10月02日

樋口由紀子「ビラ配る」を読む−ぼくらは檸檬を忘れない/柳本々々

由紀子さんの今回の連作のキーワードは〈足す〉ことではないか。

「父上京」と父が足され、「空海を信じて」空海が足され、「ひそひそと殖える」フランスパンが足され、「帝にも知らせず小匙五杯足」され、「湯槽より水があふれ」、「ビラ」が配られることによってひとりの手からみんなの手にビラが足されてゆく。

かつてこんな由紀子さんの川柳があった。

  なにもない部屋に卵を置いてくる  樋口由紀子

この由紀子さんの句も〈足す〉行為だ。梶井基次郎は「檸檬」においてテロを仕掛けるように丸善に檸檬を置いたが(実際、当時のテロ活動と関係があるらしい)、由紀子さんにとっても〈足す〉行為は、(足すだけで)過激な行為となっている。足すことは、まんなかわけの「髪」のように世界のだいたんな改変にも通じている。「帝にも知らせず小匙五杯足す」のは、「小匙五杯足す」行為であっても、テロ的な過激性を秘めているからだ。「殻むきにくい茹で卵」も檸檬が爆弾であったかもしれないように卵が爆弾であるかもしれない不穏さを秘めている。それは、たべものなんかではないかもしれないし、そもそもたべものには過激さが宿っているのかもしれない(それを川柳はひっぱりだす)。

「もし君が鰐を捨てたら」という〈踏み絵〉的な句は、わたしときみの思想=方向性の違いをしめすかもしれない。わたしはこんな句をおもいだす。

  たてがみを失ってからまた逢おう  小池正博

わたしは小池さんのこの句から川柳をはじめたところがあるけれど、この句はいま樋口さんの連作を通して考えると〈思想の違い〉を描いた句でもある。わたしときみは思想がちがう人間かもしれない。だからいまは離れているかもしれない。でもたてがみを失うというなにかのきっかけ、去勢行為を通じてまた再会できるかもしれない。失うことが再会になること。そして樋口さんにとっては逆に、鰐を捨てるという去勢行為はおたがいの別れのきっかけになるのだ。失うことが別れになること。(ふたつの句がライオンと鰐という猛獣をめぐっているのもちょっと興味深いところだ)。

この連作には〈足す行為〉をめぐりながらの隠密で過激な不穏さがある。足す行為を通して、世界の煽動(父上京)が、変革(まんなかわけ)が、地下活動(ひそひそと殖える)が、主張(言ってみろ)が、崩壊(あふれて)が、革命(ビラ配る)が、示唆される。

こうまとめてみようとおもう。

川柳は、とっても身近な事物をとおして、不穏で過激な世界地図をえがくことです。と。

川柳は世界をマッピングしなおす。わすれていたことで、わかってたこと。




posted by 柳本々々 at 03:02| 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする