2018年10月07日

ねむりこんだあとで  柳本々々

さいきんちょっとじぶんが川柳をはじめたところに帰ろうとおもって、本があちこちに積みあがってる部屋に行ってごそごそしたりしていた。ときどき本の山が崩れてはわたしになだれかかってくる。からだに傷がつく。きにしなかった。

わたしがとってきたのは(帰ろうと思った場所は)よっつあって、まずひとつは、今までくんじろうさんからいただいた『川柳北田辺』の束だった。今、時間があるとバスで電車で誰かの隣で『川柳北田辺』を読んでいる。『川柳北田辺』では、川柳のリミットがつねに試されているようにおもう。その志向はわたしに勇気をくれる。川柳って勇気のことじゃないかなあとわたしは『川柳北田辺』を読みながらときどきおもう。

  もみあげは死ぬまで6センチと決める  くんじろう

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ふたつめは、樋口由紀子さんの『容顔』。わたしが川柳をはじめたころ、あるひととであって、ふたりでできるだけ川柳の句集をかきあつめた。そうして夜毎どこかで待ち合わせをして、ずっと句集を読んでいた。読んではまたこれからなにを読んでいくか話し合った。佐藤みさ子さんというひとがいるよ、とか、なかはられいこさんというひとがいるよ、とか、倉本朝世さんというひとがいるよ、とか。そのころそのひとと『容顔』の表紙について話し合ったとおもう。川柳の表紙でこんな過激なことはすてきだね、と。ついこないだこのスープレックスで樋口さんの感想を書く機会をもらったが、そのとき、ふっと、わたしは、ぼんやりすることが多くなった今、もういちどもときたところへ帰ろうかなと思った。どんな川柳に出会ってわたしははじめたのか。樋口さんは日常のあちこちに爆弾を埋め込むように(ことばのテロのように)川柳を書いてきた(とわたしはおもう)。もし時実新子が、〈女としてのわたしのテロ〉としての魅力があったなら、樋口さんは〈非日常としてのことばのテロ〉だったのかもしれない。わたしがよく思い出す樋口さんのことばで、「こうならざるをえなかった」ということばがある。こう書かざるをえなかった。表現のかなめは、「こうならざるをえなかった」かもしれない。よくおもいだす。

  明るいうちに隠しておいた鹿の肉  樋口由紀子

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みっつめは、小池正博さんの『水牛の余波』で、小池さんの川柳の魅力は、定型を通した認識の格差だとおもう。卑近なことばづかいと、文学的なことばづかいが、定型のなかで自然と接着してしまう。定型は糸のついたロケットのようなものだ。どこかへ飛び立ちながらも、地球からの糸を断ち切れない。でもそのどっちをも含めた落差に、ワンダーな意味が生まれる。とびたとうとして、いま、あしもとからおちつつあること。そういうダイナミクスが川柳にはある。

  おしぼりください活人剣ください  小池正博

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よっつめは、松岡瑞恵さんの『光の缶詰』で、どこかで川柳は、光の缶詰を開封することだと、いつもおもってる。缶詰を開けると、光があふれる。そういうものよりうえでもなく、そういうものよりしたでもなく、そういうものとして。

  また一人飛んだ傷だらけの羽で  松岡瑞恵

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秋にはいるまえにずーっとながいあいだねむりこんだあと、ふっとして、さいきん、そういうよっつの場所に帰ろうかなとおもった。


posted by 柳本々々 at 12:33| 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする