2019年10月30日

現代川柳新思潮No.159

現代川柳新思潮No.159 2019年11月号
編集兼発行人 岡田俊介


気をぬくと夜空になってしまう髪  西田雅子
象形文字なぞる微かに人の肌  松井文子
告白はパセリの森の妖精に  中嶋ひろむ
私の息では飛べない風船  谷沢けい子

また今号は、5月に行われた新思潮・横浜研修句会の議事録を山崎夫美子氏が書いている。上位3句は以下の通り。

春の芽の傾斜 君に向かう列車  明日歌
骨格標本まだ恋ごころ秘めたまま  斉藤和子
水玉がはじけて 港ひろがって  俊介

なお、次回の160号(令和2年1月号)から現代川柳新思潮を『現代川柳琳琅』(りんろう)と改題することになったという。主宰も杉山夕祈氏に代わり、より自由な創作活動を展開するとのことだ。今号の岡田俊介氏の巻頭にはこう書かれてある。

 片柳哲郎は昭和50年代に『季刊藍』誌に発表した「現代川柳の美学」の中で、現代川柳は「私」を詠むべきものだと説いた。この考え方に賛同した作家たちを集めて平成5年に創刊されたのが新思潮である。新思潮は、創刊当初から、川柳文学運動を含めて自己研鑽の場として活動してきた。ここで、現代川柳とは昭和32年に革新作家を集めて結成された現代川柳作家連盟の流れを汲み、既成川柳との対立軸をもつものとして捉えている。
(中略)
 続刊に当たって、会員作家たちの作品創作上の活気を喚起するために、次号から『現代川柳琳琅』に改題することにした。現代川柳の作家たちは常に新鮮な気持ちを持ちつづけなければ新鮮な作品も生れない。新鮮な作品の創作こそが現代川柳誌の存在意義であり、それを希っての改題である。
 今後は既成の考え方、価値観などの枠組みに囚われず、より自由に創作するべきだろう。この場合、新思潮から琳琅に残すべきものは「私」を詠むことである。その他は自由に創作してよいと思う。大事なことは川柳の質の向上に正面から取り組み、新しい川柳を開拓するという現代川柳の火を消さないことである。

現代川柳新思潮のホームページはこちら。
現代川柳 新思潮
posted by 飯島章友 at 23:30| Comment(0) | 柳誌レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今月の作品 米山明日歌「次の音」を読む

@「桐」「梨の芯」「白い花」「草いきれ」といった植物のあしらい
A「行き先のある風だけにある香り」、「その次の音を求めてたつうぶ毛」に見られる触覚(風は肌で感じるものだ)と嗅覚の、また聴覚と触覚の親密な結びつき
B「この先」「行き先」「明日」「その次」といった空間的・時間的に未来を志向する言葉たち(その中にあって、「草いきれ日傘の骨にある記憶」だけが異質である。)
これらの特徴から、繊細にして清冽な連作という印象を受けた。

ぬかるみに落としてもまだ白い花

「落としても」という動詞から、白い花を敢えてぬかるみへ落そうとする意図を読み取らないことは難しい。それでいて「なぜ花をぬかるみに落そうと思ったのか」「花をぬかるみに落としてどう思ったか」と人間の心理を追うのではなく、花の白さだけを言うのが潔い。「ぬかるみ」と拮抗する花の白さに、塚本邦雄の〈芍藥置きしかば眞夜の土純白にけがれたり たとふれば新婚〉も思い起こされる。

貫乳からもれだす夜の歯ぎしり

連作中ではこの句にもっとも惹かれた。貫乳とは陶磁器の釉(うわぐすり)の表面に入った細かなひびのこと。「歯ぎしり」、すなわち歯と歯が擦り合わされる音と陶磁器同士が擦れ合う音が似ているという、ほとんど生理的な納得のうえにこの句の世界は立ち上がる。「夜の歯ぎしり」という下の句からは、時間帯が夜であるということ以上に「夜」そのものが陶磁器に憑依して歯ぎしりをしているかのようなイメージを受け取りたくなる。「行き先のある風にだけある香り」が(ほんらい風に行き先はないはずなのに)「行き先のある風」とそうでない風を嗅ぎ分けるすごい嗅覚の句であるとすれば、これは(ほんらい歯ぎしりをしないはずの)「夜」の歯ぎしりを聴きとってしまうすごい聴覚の句なのである。

posted by 暮田真名 at 02:07| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月21日

今月の作品 石川 聡「そうなんだぁおいら支流のおさかなです」を読む

 秩序、というもの/ことは、何のためにあるのだろうか。
 こんな問いを立てるのも、川柳というもの/ことにあって、いっけん「法」が支配しているように見えるからである。ルール、とあえて片仮名で書いた方が感触は伝わるだろうか。たとえば五七五ということ、それが川柳にとって、最も尊ばれる「法」であると、多くの人が理解している。
 だが、なぜ五七五なのか。その理論については、拍打などの音声的な点からも説明はなされている。だが、その当否はここでは置いておく。ここで考えたいのは、多くの人々(主に五七調に携わらない人々)にとって、五七五(短歌なら五七五七七)が当然の前提として了解されているという問題についてである。
 およそ、五七調に関わった者ならば、いちどならず「ここで五音(あるいは七音)にしなければどんなにかよいのに」と誘惑された経験があるはずだ。その次には、当然として「なぜ五七五なのだろう?」という疑問にぶち当たる人も多いだろう。そのあとに「それはルールだから」と言って納得するのか、その「ルール」自体を食い破ろうとするのかには、優劣はない。ただ、携わる者の志向が異なるだけである。
 だが、その「ルール」は果たして五七五にとって必然なのか、を意識してしまう者はいる。
 五七五は、五七五でなくともよいのではないか。
 しかし、「携わらない人々」からは、五七五は、五七五であると、前提されている。その無自覚性を含めて、「五七五」は「法」と呼ぶのがふさわしいように思う。無論、「法」によって「秩序」がうまれたわけではないし、その逆に「秩序」によって「法」がうまれたわけでもない。「法」が発見されたときに「秩序」も発見されたという考えは、一考に値すると思われるが、「法」と「秩序」(この順番は攻×受のように固定化されたものではなく、リバ可能なものと思っていただきたい)の連関を説明するものではない。いや、ここで「法/秩序」を語るのは、大言壮語にすぎる。私が語ることができるのは、あくまで川柳のことだけだった。
 川柳とは何か。
 そんな問いに答えが出せるのだったら、誰も苦労しないが、仮説を立てることはできる。たとえば「川柳とは、秩序をあたえるものである」という説はどうだろうか。渾沌、という言葉ではとらえきれない〈ぐちゃぐちゃ〉を、言葉という枷をもってかたちと成す。それが川柳であると、とりあえずは仮定しておく。
 であれば、五七五とは、やはり枷のかたちとして、必然なのか。否、と答える作品群が確かに存在する。自由律、と呼ばれる句が、その一角を占めるだろう。回り道をしたが、九月の作品、石川聡「そうなんだぁおいら支流のおさかなです」もそのひとつである。
 視点を今作に絞るとして、そこに秩序はあるか。是、と答える。その回答に至るまでに、私は、冒頭の問いを以下のように修正しなければならない。
 秩序、というもの/ことは、何によってもたらされるのだろうか。
 その問いを続けつつ、まず「そうなんだぁおいら支流のおさかなです」を見てゆくことにしたい。
 まず目につくのは、連作が進むたびに文字数が昇順でふえてゆくこと。
 これは全体を見たときに、一種強烈な印象を与える。同時に、そこに「ルール」があることを了承させる。ふえてゆくという自己規程。斜面のような紙幅を見るとき、この連作は自ら「ルール」を課するものだということを私たちは感じ取る。
 自由律、というものが、絶えざる自己管理の結果であると、この型式は明示している。それがゆえにひとつの秩序がもたらされているのでもあるが。

  逆立ちした秋だ

 「秋」が「逆立ち」しているのか、逆立ちをしている作中主体が秋を詠嘆しているのか、あるいは、「逆立ちした」と「秋だ」のあいだには連関がないのか。そのいずれも読み方として可能である。むしろ、さまざまな読み方を、これだけの字数で提示することができる、そこに句としての構成力=秩序の兆しとして解釈したい。

  雷去り萩に色さす

 第一句に比べ、ここでは因果関係が表記されている。意味の上での因果関係はあまり「意味がない」。雷が去ったから萩に色がさしたというのは、たしかに因果として成立していないだろう。だが、因果がないところに因果を設定する。すなわち、ここにおいても秩序が発生すると言うことである。連作として見た場合、字数がふえてゆくことによる、情報量の増加もまた、一定の秩序であろう。

  セミのパトラッシュ

 当然ながら『フランダースの犬』の「パトラッシュ」を踏まえている。ここで示されているのは、パトラッシュが「セミ」である世界と、「犬」である世界の交錯である。セミを「パトラッシュ」と呼ぶ世界は、犬をそう呼ぶ世界に折り重なることによって、より世界観を補強される。世界というもの/ことが秩序のためのツールだとして、この句は秩序としての世界を描いている。

  そよりさよりひかりきる

 ここでは、「り」の連続による統一がなされている。しかしそれは無意味なのか? という問いを立ててみても良いだろう。文脈において、ここに矛盾はない。しかし、「そより/さより/ひかりきる」のあいだには断絶がある。その断絶をひとつの文章にすること。そこに、渾沌を濾過する「詩」があるように思うのだ。

  なかゆび舐めて駆けのぼる龍

 このあたりから、情報量の増大により、「意味」と「無意味」がいっそう際立ってくる。この句において「舐めて」は「なかゆび」に、「龍」は「駆けのぼる」に強く結びついていることは言うまでもない。しかしこの二群の連結、あるいは非連結に、まぎれもなくなんらかの「法」が通底している。それが、五七五に拠らない、「自由」というルールなのではないか。

  平積みの浸透圧の無いフォント

 連作中、はじめて私たちは五七五に遭遇する。しかしそれは一瞬で、すぐに通過するものと、連作の全体を見た私たちはよくわかっている。この句において五七五は絶対ではなく、連作を構成するための一パーツにすぎない。それを証立てるように、句として「詠まれた」もの/ことは、ほぼ意味性を剥奪されている。だからこその、Aが「無い」Bという奇妙な公式が導き出される。

  赤く重く滑り落ちる満月不飽和脂肪酸

 そう、そして五七五はあっけなく通過されてしまった。五七五をはみ出していくことに、実は必然性などいらない、というのはこの評でにじみ出してきたテーゼである。この句はうつくしい。うつくしさのために何をしてもいい、という理屈ではない。むしろ句の意味の解体と再構成が、一句の中で続けられている、という点において、美、が存在するのだ。それはこの「不飽和脂肪酸」が「ある」ものではない、存在しないという存在の仕方によって保証されるのではないだろうか。存在しないものが存在するというのは、やはりひとつの秩序立てであるかもしれないが、この句のインパクトはその秩序自体をも解体する。

  浮いた静脈の第四弦サティーの蒼いしらべ

 そしてついに、ここはゴールなのだろうか。理論上は、文字数をさらにふやしてゆくことが可能なはずである。八句、というルールがあるからこの連作はここで終わっているが、連作のベクトルはさらに先を目ざしているようにも見える。この(仮の)最終句における情報量の多さは、〈さらに入れられる〉詩の面積の無限性を示している。だが、この連作はここで終わった。それは八句という縛りのせいだけではないだろう。短詩が短詩として成立するぎりぎりのところで、この句はあやうく立っている。それはこの句および連作に対する否定ではない。むしろ、〈短詩は無限の詩へのエネルギーを内蔵しつつ、それをさえぎる〉ことによって成立するのではないか。そうした「川柳」というものの構造を、くっきりと見せているのではないか。
 ここでのルールは、その〈さえぎる〉という一点に集約されるのかもしれない。何かを規定するときの、切断。
 だから全体として見たときに、「切断」によって「秩序」はもたらさるのではないか。評中に挙げた「何によってもたらされるか?」という問いに、この連作はひとつの答えを示してくれたような気がする。
 秩序は型式ではない。秩序は〈ぐちゃぐちゃ〉を切断したときにはじめて発生する。
 だがその秩序は、切断ゆえの自己切断と、反動としての自己増殖に常に突き動かされている。
 その運動体をとらえるのが、五七五の、川柳の意義なのかもしれない。そしてそれが、〈携わらない〉人びとの、「前提」への回答になっているはずだ。
 この連作を呼んで、渾沌としたまま、考えさせられたもの/ことである。

追記
 ネット環境の不備から、鑑賞文を書くのがかなり遅くなりました。石川聡さんはじめ、皆さまにご迷惑お掛けしたことを謝罪します。たいへん失礼しました。
posted by 川合大祐 at 20:03| Comment(0) | 今月の作品・鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月13日

【再度お知らせ】『補遺』批評会は中止とさせていただきます

本日10月13日の午後に開催を予定していた暮田真名第一句集『補遺』批評会は台風の影響による安全上の配慮等から、会場の「かたらいの道市民スペース」が12日・13日と閉館になりました。したがいまして『補遺』批評会もやむなく中止とさせていただきます。

みなさまにご迷惑をお掛けすることを再度お詫び申し上げます。

現在進行形で被災状況が報道されております。みなさまどうぞ十分にお気をつけてお過ごしください。
posted by 飯島章友 at 09:42| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月11日

【重要】『補遺』批評会中止のお知らせ(10月13日)

2019(令和元)年10月13日(日)に開催を予定していた暮田真名第一句集『補遺』批評会でございますが、台風が関東に接近すると予想されているため安全を考慮し、会場の「かたらいの道市民スペース」が12日・13日と閉館になることが決まりました。したがいまして『補遺』批評会もやむなく中止とさせていただきます。

ご参加のご予定だった皆様にはご迷惑をお掛けすることを深くお詫び申し上げます。
posted by 飯島章友 at 15:33| Comment(0) | お知らせ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする