2015年02月15日

火事ですねでは朗読を続けます  きゅういち

火事ですねでは朗読を続けます  きゅういち
川柳カード叢書の第一巻『ほぼむほん』収録。

発語のみでつくられた句である。
ダイアローグだろうか。モノローグだろうか。
朗読の場で、火事ですね / では朗読を続けます/ と交わされる会話もこわくてどきっとするが、その場合はカギ括弧で発言者が複数だと示されるだろうから、これは朗読者ひとりの発語だということになる。

短詩型に発語が入れ込んである、となると、まず思い浮かぶのは次の一首だ。
「酔ってるの? あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」 穂村弘
「ブーフーウーのウー」だなんて。酔っているのは少々いじわるな恋人らしい。あまり見分けのつかない三匹の子豚の末っ子とまちがえるなんて。しっかりものの末っ子。(声は黒柳徹子)でも恋愛中であれば、そんな恋人を「カワイイ」とおもえるのかもしれない。しっかりものらしく、恋人の世話を焼くのかもしれない。
体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ   穂村弘
「奇麗なものにみえてくるのよメチャクチャに骨の突き出たビニール傘が」   穂村弘

こんなふうに、短詩型のなかに配せられた発語(台詞)は、日常を切り取り、漠とした気分、空気をあらわす演出に使われるものだとおもう。

そうおもうとき、きゅういち氏の
火事ですねでは朗読を続けます
は、特異である。
ともかく日常ではないのである。
耳傾ける者を持たない朗読者のモノローグかと思う。
無表情に淡々と発せられたものか。回り舞台上の絶叫なのか。

発出は『バックストローク』第23号で、一読して、わわわ!となった。わわわ!というにもいい加減な言葉だが、この句を得たときの、作者自身の手応えが感じられるようで、読んだこちらも爽快な気分になったのである。

石部明は同号で次のように書いている。

「火事ですね」「朗読を・・」と、なんの因果関係も持たない言葉が、常識をばらばらに解体した後に組み立てられた世界として、「火事ですね」・・「では」と、なにやら正当性を得たように立ち上がってくる。

わたしは「では」は火事と朗読の続行の因果関係を示す接続詞ではなくて、火事から朗読へ意識を移す前置きの言葉だと思った。朗読が、火事に気づいて、束の間滞る。再び通常の朗読へ戻るときの一呼吸分の「では」だと考える。
クレイジーである。
火事だと知ったとき、通常であれば、ヒトは怖れを抱くだろう。あるいは好奇心を満たそうと物見高く騒ぐかもしれない。だが発言者は朗読を優先する。
読み手は立ちどまらずにいられない。合理的に理解できないからだ。にもかかわらず、魅惑的だからだ。
いったいこの朗読とは何なんだろう。なにやらいけないものとすれちがったという感覚がうれしい。

そしてまた考える。
火事は対岸のそれなのか。であればおもしろさが削がれるのである。
やはりこれは、本能寺の信長の朗読がよろしいかと思われるのである。



posted by 飯島章友 at 22:13| Comment(0) | 江口ちかる・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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