2015年02月20日

勇気のための川柳処方箋P 涙の宛名。

追伸のしずくの跡は見ましたか?  奈良一艘

  *

ときどき、泣くということについてかんがえていることがある。

こないだある方が、あの勇気の、あのシリーズ、あの、ゆうきの、あの、なんとかというもの、読んでますよ、といってくださって、そのときそのひとが泣いていたようだったので、あれなにかあったのかな、とおもった。

いそいでわたしは、わたしもときどき、いやけっこう毎日泣いてますから、と声をかけたが、それはなぐさめにはならなかった。

泣くという行為は、私秘的な行為である。

ところが、一艘さんの句がふしぎなのは、
「見ましたか?」とたずねちゃうところである。

しかも、「追伸」で泣いていたらしい。
本文や本丸では、泣かず、追伸で泣き、さらにてがみをだしたのに、あとで声、あるい実際に会って、追伸の涙の所在を確認している。

もしかしたらこの句の語り手にとっては、ことば=手紙よりも、もっと大事なものがあったのかもしれない。

それは、なみだである。
伝達機能を有したことばにならない涙だ。
そして言葉を否定し、論理や理屈を封じる圧倒的な非言語としての涙だ。

わたしはむかし、助手席に座りながらきらくにいろんなことをべらべらしゃべっていたら、運転しながらぼろぼろ泣き出したひとがいたので、すごく驚いて、即座に県道地図を取り出して真剣に熟読するふりをしたことがあったけれど、でも、なみだはいつまでも残る。

その意味で、なみだは、いつまでも追伸である。

で、今回の勇気は? とわたしは聞かれ、わたしは、また、慌てふためいてしまう。

勇気。県道地図。助手席のわたし。ぼろぼろ泣く運転席の友人。あわてるわたし。

あ、そうだ!

こんなふうに、それでも追伸として、なみだはなんどでもやってくる。

だから、なみだこそが、追伸としての勇気である。なみだのとなりの県道地図も。

そうなのだ。
ロラン・バルトも、いっていたではないか。

ええと、

なみだは、おてがみであり、わたしは、ええと、……

いや、ちがうな。

あ、そうだ!

これほどいろいろの泣き方があるというのも、おそらくは、わたしが常に誰かに向って泣いているからであり、わたしのこぼす涙の宛名が、常に同じ人物ではないからであろう。  ロラン・バルト『恋愛のディスクール』

posted by 柳本々々 at 12:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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