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『東奥文芸叢書川柳14 角田古錐句集 北の変奏曲』から古錐さんの一句です。
ここで俳句からこんな一句を思い出してみたいとおもいます。
ともだちにならう蜜柑を剥いてあげる 喪字男
どちらの句も「ともだちになろう」と呼びかけています。
でもそこからの接続が、どちらもささやかであることに注意してみたいです。
「小銭が少しある」、「蜜柑を剥いてあげる」。
どちらも大したことではありません。
一万円札であるわけでもないし、グレープフルーツやぽんかんでもない。
小銭や蜜柑です。
どういうことなんでしょうか。
こういうことなのではないかとも、おもうのです。
わたしはあなたになにかにしてあげたいきもちはある。
でも、わたしがどんなにそれが大きなことであろうともわたしがあなたにしてあげられることは、〈してあげる〉という意味合いにおいては、ささやかかもしれない。
けれども、そのささやかさにあなたが応答してくれた瞬間、あなたはわたしの「ともだち」になるのではないか。
なにをするか、どれくらいのことをしてあげられるか、が、大事なのではなくて、呼びかけたときに、あなたが応じてくれること。
その形式をふたりでつくること。
それが、ともだちのつくりかたなんじゃないか。
ともだちでいるための、ともだちであるための勇気は、そんなところにあるのではないかともおもうのです。
だから、ともだちは、カウントとしては、たえず、つねに、ゼロでもいい。
数、がもんだいなのではない。
応答された瞬間、明滅し、またたく関係の星座がともだちかもしれないから。
「ともだちでいよう」ではなく、なんどもなんども繰り返される、「ともだちになろう」なのです。
