2015年02月27日

勇気のための川柳処方箋24 狂気と勇気。

少し狂って少し毀れてラジオ体操  加藤久子

  *

たしかデリダがいってたと思うんですけど、決断の瞬間はいつも少し狂気の瞬間なんですよ。
なにかを決めるとき、ひとはどこか狂っている。

これはなにかをえいやっ!て決めるときのことを思い出してみてもらうとニュアンスがわかるとおもうんですけど、なにかを決めるときって実は決定的な理由がなかったりする。でも、ないからこそ、決めることができる。たとえば、駆け落ちしようといわれたときに、そこで理由をかんがえると、駆け落ちはできない。やろう、と(根拠もなく)思えたときに手をとりあって駆け落ちができる(だから漱石の『それから』で代助は姦通する理由や理屈を考えてしまっているので、親友の妻である三千代からの「わたしはあなたとともに生きます」に対して「はい!」と返事ができず決断もできずにうじうじしている。けれども最後は〈狂気〉の状態になるため、そうだ職探ししよう!と〈決断〉することができる。ちなみに有名なコピー「そうだ京都行こう。」も少し狂気の瞬間に近いと思います)。
なにか理由があっても後付けになるとおもうんですよ。私はきっとこう思ってたからこうしたに違いないって。
でもそれはあくまであとからの意味付けであって、決断の瞬間は、いつも無根拠だと思うんですよ。
逆にいえば、無根拠だからこそ、ひとは決断ができる。
それは、決めたから、決めたわけです。たとえどんな理由や意図があったとしても。
決断を支えることばや言説や理屈なんてないとおもうんです。
ことばがたちむかえない状態のなかで、ことばの真空のなかでひとは決断する。
好きとか、愛とかも、そうだとおもうんです。
どうしてこのひとを好きなのか、愛するのか、にもかかわらず愛そうとするのか、わからないけれども、そうすることを決断する。
これはある意味、狂ってるんですけど、狂ってるからこそ、決断できる。そしてことばは後からやってくる。

加藤久子さんの句。
ラジオ体操っていうのは決められたことを繰り返す体操です。しかもこれは第一・第二と定められているものなので、たぶん何万年後も、地球が滅びても、このやりかたで体操しないといけない。
だからそれ自体、なんだかちょっと狂ってるんだけれども、ほんとうに狂ってるのはそこじゃない。
その決められたラジオ体操のやりかたにひとつひとつの身体の挙措をシンクロさせ、一致させ、身体の決断を遂行していく。
それが、ラジオ体操の狂っている部分だとおもう。
ラジオ体操っていうのは、実は、ひとつひとつの決断の所作なのではないかとおもうのです。
だからラジオ体操はいつもすこしくるってるし、すこしこわれている。
でも、そういうものなんです。これは善悪の彼岸です。
狂気というのは善いとか悪いとかの問題ではない。
それはひとつひとつ根拠もなく決断される場所のことです。

そして今回じゃあやぎもとなにが勇気なのかってわたしが聞かれたとします。狂気の話はわかったけれど、まだおまえ勇気の話はしていないよ、と。どうするの、と。

でもそれは、決めたんです。理由もなく。
決断の瞬間はいつも狂気であり、だからこそそれは勇気にほかならないと。
それが、やぎもとの決断と狂気です。

posted by 柳本々々 at 01:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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