2015年03月30日

勇気のための川柳処方箋47 つまり、別にはっきりしたことじゃない。一つの希望、漠然とした、嘆願のような……

DSC_0802.jpg

殴りたくて抱きしめたくて草原に  佐藤みさ子

   *

M 『川柳杜人』題245号(2015年3月)の佐藤みさ子さんの「こんなもの」からの一句です。

Y 「草原」についてよくかんがえているんですが、「草原」ってそもそもなんなんでしょうか。そろそろ草原に決着をつけたいところです。

M まず誰のものでもない場所、という意味性がありますよね。草原に棲んでいるひとはいないし、草原が所有化されたら〈庭〉という呼び名がつくわけです。つまり、記号としてはあまりにも不分明な記号不毛地帯が「草原」ということになるんじゃないでしょうか。だって草原って境界線さえもよくわからないでしょう?

Y たしかに待ち合わせとかで、「じゃあ三時に草原でね」っていわれても困りますよね。「じゃあ三時にTSUTAYAの前でね」っていわれたらほっと胸をなでおろせるけど、草原でねっていわれたら、もうグーグルアースしかたよりにならないですから。あてどなくさがしつづける、待ち合わせがひとつの旅みたいになっちゃいますから。

M ですから「草原」はある種の記号の無法地帯にもなっているわけです。そこでは勃発的な記号のゲリラが隆起する。たとえばこの句の「殴りたくて抱きしめたくて」もこれらもゲリラ的に勃発してきた記号行為かもしれません。

Y 〈殴る〉と〈抱きしめる〉は相反する行為ですよね。

M そうなんです。でも語り手は「て」という連接の助詞でつなげている。それもけっこう大事な点だとおもいます。つまり語り手にとってはどこかで〈殴る〉ことも〈抱きしめる〉ことも同じだと感じられている。

Y じゃあここでのミソはなんですか?

M 相手へ働きかけたい行為の〈強度〉だと思います。ともかく語り手は相手への強い感情を行為として昇華しようとしている。〈殴る〉も〈抱きしめる〉も強い行為ですよね。そしてそれができるのが〈草原〉なんです。

Y 草原じゃなきゃだめなんですね。

M たぶんなんですが、草原だと行為がどこにも私有化されえないからなんじゃないかとおもうんですね。殴るや抱きしめるが意味づけられない場所。それが草原なんじゃないかって。たとえば、わたしが自宅でYさんを抱きしめたとしますよね。

Y (いやだなあ、昼間から)

M そうすると、Yさんはわたしの行為を意味づけてしまうかもしれない、即座に、決定的に。

Y 草原だとしたら変わってくるんですね。

M 風が吹く草原みたいに、意味づけのベクトルは錯綜するとおもうんですよね。

Y そうか、そうか、わかりましたよ! わたしたちはこんな風の吹く草原でいつもひとつの句をめぐって対話を交わしつづけていて、だからもう50回目をこえようとしているのに、いまだに勇気の「ゆ」の字にさえたどりつけていないんだ!

  ふたり、風の吹く草原にいる。木だけが、生きている。

DSC_0777.jpg


posted by 柳本々々 at 13:00| Comment(0) | 柳本々々・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。