2015年04月16日

情死する途中の鰻屋をくぐる   石部明

BSおかやま句会「Field」No.25より。

鰻屋といえば例の江戸時代の小噺を思い出す。
うなぎを焼くにおいをおかずにご飯を食っている男がいたので、店主が「鰻のにおい代を払え」と要求したところ、男は財布に入っていたお金をじゃらじゃら鳴らして「はい、音で払ったよ」と切り返した、例のあれだ。

さて、掲出句のばあい、来世ではきっと結ばれようねと誓った情死の途中に、あろうことか鰻屋があったというんだからツラい。
まるで『心中天網島』のクライマックスに「ちょっとご免よ」と上記の小噺が入り込んできた趣だ。

食欲とは、〈死にたくない〉=〈生存欲〉につながる生物のもっとも根源的な本能。
だとすれば、食事とは最高の快楽にあたるのかも知れない。
それに対して情死とは、その根源的な本能にさからう行為。
掲出句には、生物の根源的な本能とそれに逆らう行為とが組み込まれているのだが、最終的にどちらがまさったのかは「鰻屋をくぐる」で終わったことに暗示されているようだ。

この句においてわたしの注意を引きつけたのは、「情死する途中の」における「の」である。
かりに掲出句が「情死する途中で鰻屋をくぐる」だったら作者の意図がほのかに見えてしまい、何か脚本どおり芝居をしていますという感じになってしまう。
芝居内芝居になってしまうといえばいいのだろうか。
だが、そこを「情死する途中の鰻屋をくぐる」としたことで、期せずして途中に鰻屋がありフラッと暖簾をくぐってしまった、という描写上のリアリティーが出たのではないか。
「鰻/屋をくぐる」という句跨りも、ここではそんな〈期せずして感〉に貢献している。

掲出句の興趣は『誹風柳多留』につうじるかと思う。
石部明さんは、誌やブログなどで同時代の川柳を論じるばかりでなく、『誹風柳多留』や明治の新川柳、大正末期〜昭和初期の新興川柳運動、戦後の中村冨二や河野春三、時実新子といった先人への言及もじつに多い。
過去──現在──未来という時間軸は常に意識してきたのだろう。
〈更新〉という言葉を好んで使ってきたことは、石部さんの伝統観をよく表しているとわたしは思う。

わたしは「Field」誌をよく送っていただいたものだが、掲出句が掲載されたNo.25が最後となった。
誌には「追悼 石部明」という前田一石の記した栞が挟まれていた。


【石部明さんのブログ】
顎のはずれた鯨
初心者のためのやさしい川柳
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posted by 飯島章友 at 23:30| Comment(0) | 飯島章友・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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