2015年04月22日

【川柳インタビュー】小津夜景さんに聴く〜普川素床さんの明るい追伸への追伸〜(聴き手:柳本々々)


追伸の明るい雨をありがとう  普川素床

   *

柳本々々(以下、Y) はい、また風の吹くこの公民館へとやってきました。こんにちは、もともとです。きょうは小津夜景さんと普川素床さんの句をめぐりながらお話をさせていただきたいなと思っています。
まず普川さんの句に入る前に、小津さんはふだん俳句をつくられている方なので、そういった俳句の場所から川柳がどのようにみえているのかをすこしお聞かせいただければと思います。

小津夜景(以下、O) うーん、昔のSF界隈っぽい感じ。なんというか、場の雑種的活力を重んじるような雰囲気がありますよね、川柳って。

Y  あ、そうか。SFってそういえば、いろんなものがありますもんね。マテリアルなロボットや装置に注目したものから精神哲学的なもの、言説上のトリック、概念の延長からのマジックなどいろんな要素を雑食的に取り込んでいける。それってちょっと川柳という〈ふりはば〉に似ているかもしれませんね。川柳って乱暴に二極化していえば、時事川柳と詩性川柳があるようにおもうんですが、SFもそうした時事性を取り込んだエンターテインメントから、詩性的哲学的な文学までできますもんね。SFと川柳が似てるってちょっと意外だとおもったんですが、いわれてみると川柳ってふしぎな、SF的なものもおおいから、形式だけでなく、内実も似たところがあるのかもしれませんね。それにSFって、たぶんどこかで諷刺もふくんでいくとおもうんですが、川柳も諷刺をふくみますもんね。

O あと『川柳マガジン』とか『川柳カード』といったタイトルもざっくりとして良い味だと思うし、『バックストローク』や『川柳スープレックス』などのネーミングセンスに共通する〈背面主義〉なんかも割と好きです。ちなみに〈背面主義〉というのは今思いついたテクニカルタームで、まあ商業系格闘技のノリ、くらいのことを美学用語っぽく言ってみました。

Y  うん、それたしかにふしぎな点ですねかんがえてみると。身体用語が川柳と親和性が高いっていうのは。俳句だとちょっとノリが強すぎるような気がするんですね。『俳句スープレックス』だと身体性がきゅうに強く、あざといくらいに感じてしまいますよね。だから上田信治さんの「今走つてゐること夕立来さうなこと」をはじめてみたときすごく面白かったんですよね。芭蕉も古池のまわりを全速力で周回しながら古池の句を詠んだらどんなだったんだろうとかいろいろかんがえた。そもそもですね、俳句の句会をみていたときに、たぶん句会で走っているひとってあんまりいないんじゃないかと。吟行とかで走りながら句をつくって るひとはあんまりいないんじゃないかと。そんなことをまえ句会をみていておもったことがあるんです。だから上田さんのこの句っていまでもふしぎでときどき かんがえたりしています。川柳でいえば、たとえば『川柳スープレックス』や『バックストローク』だと不思議と感じない。そもそも川柳って身体を詠むものがとても多かったりするのも前からすこし不思議だなあとおもってました。しかも川柳では、このわたしの身体を詠むと同時に、それが詠まれたしゅんかん、このわたしから身体が分離し、他者の身体になっていく。身体の他者性みたいなものを非常に強くテーマとして抱え込んでいる。たとえば倉本朝世さんの句「この世からはがれた膝がうつくしい」なんかも膝がはがれると〈うつくしい〉という価値観が出てくる。むしろ身体が分離すると親しみがでてくる。なにか川柳だけがつくってる身体のトポス、身体を語る意味の場所・空間のようなものがあるのかなあっておもったりします。どこかでそれとなく形成されているんじゃないのかなって。

O 信治さんの走り方はふつうに俳句的です。一方、もともとさんが今なさった、信治さんの句に対する全速力の思案はとても〈背面主義〉的でした。川柳ならではの、背筋重視のアクロバティックな言語運動をライヴで示して下さりありがとうございます(笑)

Y 走りながらの句会みたいのがあってもいいかなあって思ったりもしていました。全速力句会、というか。グラウンドでの句会とかですね。
さて、今回この普川素床さんの句を取り上げる理由がですね、小津さんがこの句をお好きだからということで選ばせてもらったのですが、どういったところがまずこの句で気になられたというか気に入られたのでしょうか。

O これは、相手からの追伸が、光のトポスと、そのトポスを伝う涙のような雨だったわけですよね。もう充分素敵じゃないですか、それだけで。うふふ。

Y 「明るい」=光で、「雨」=涙なわけですね。あ、そうか、そういうふうに喩えを変換して読むと、とたんに意味がぐっとわかりやすくなりますね。そうか、これ小津さんは涙として読んだんだ。わたしはね、そのまんま、雨として読んでたんですよね(笑)。なんでだろう。

O いえ、わたしもそのまんま、雨として読みました。ここで涙という喩えを持ち出した理由は……。

Y  散文的じゃなくて詩的言語=隠喩的言語として読めばでもこれは涙になりますよね。なんかね、天気雨ってあるじゃないですか、晴れなのに雨が降ってくる。あの天気雨のなかでひとり立っててね、で、追伸なんかもらってもないのにね、語り手はああこれが追伸なんだって思いこんじゃってるわけです。だからわたしの解釈では、この句って、思いこみから「ありがとう」を言っているちょっとあぶない語り手としても解釈ができるのかな、そういうすこしデンジャラスなすてきさもあるのかなっておもったりもしたんです。追伸ってね、手渡されるわけじゃなくて、いろんなメディアを経由してやってくるわけでしょ。間接的なわけですよね。だからね、なんていうかな、デリダが郵便は届かない場合もある、そうした誤配性が郵便性なんだみたいなことをいっていたけれど、それってね、追伸を語る語り手のあぶなさみたいなものもあらわしてるのかなって。つまり追伸を語るということは、じぶんのことばが誤配されてゆく危険もつねにあるんじゃないかと。だから、〈たのしい〉んじゃないかと。ゆかい、なんだと。はい、しゃべりすぎてますね。どうぞ。

O  わたし、もともと追伸が大好きなんですよ。追伸というのは〈反復〉ですよね。一度終わってしまったはずの〈手紙=主体〉がふたたび目の前に蘇る。わたしはそんな追伸みたいに、一切が終わったあと、もういちど相手が還ってきてくれることをいつも夢見ているんです。実際の手紙でも、追伸がついていると胸が高鳴ります。

Y  なるほど。追伸ってたしかに手紙の主体とは異ならざるをえないところがおもしろいですね。あ、そうか。それって「あとがき」の主体みたいなものですよ ね。ちょっと主体に差違ができる。でも形式としては〈手紙〉だから似てるんですよね。おなじかたちでありながら・ちがったふうあいになる。追伸、っていう 主体もかんがえてみるとたしかにおもしろいですね。この反復はキルケゴールのいってた創造的反復にも似ている。創造は反復にこそあるんだ、反復を見つけろ! ってキルケゴールはいってましたが、この語り手はみつけたのかもしれない。

O で、この句はそんな私の日頃の夢に対し、とても穏やかに、ひとつの答えを与えてくれている。その答えとは「甦る〈手紙=主体〉とは、もはや言葉を成さないただの明るい雨なのだ」という静かな現実です。失われた〈手紙=主体〉は二度と還らない。わたしたちは、そういった世界を生きなければならない。

Y  ああ、言語じゃないわけですね。光と涙はことばじゃないから、それもまた形式が変わってるのか。だからことばじゃないから、読み手も主体が変容せざるをえないわけですよね。たとえば隠喩のプロにならなきゃならないとかね。そういえば、ロラン・バルトが『恋愛のディスクール』で、涙っていうのは追伸なんだ、って素敵なことをいってましたね。泣くたびに、いつもそれを思い出しながら泣きじゃくってるんですが。

O  ところで、追伸としての「明るい雨」とはいったい何だったのか、といった点についてですが、わたしはそれを〈書き文字未満の痕跡〉すなわち〈原エクリチュール〉を意味しているとみています。光とは世界の始源であり、またそこにふる雨とは、世界の始源にさいしょの〈陰影=刻印〉をもたらす、いまだ文字ならざる〈傷としてのエクリチュール〉なのだ、という風に。

Y ええ。エクリチュールっていうのは基本的にはデリダの考え方で、ことばになるまえのプログラムみたいなものですよね。ことばを生成するための。

O ええ。

Y みんな、エクリチュールがあるから、ことばをつくったり書いたり読んだりできる。そういったことばの書式をかたちづくっているのがエクリチュールですね。だけどその書式そのものは言語化できない。

O  そうです。言語化できない。そして、一切が語られ終えた後にふたたび蘇る追伸とは、いわばなにかの〈記憶のような痕跡〉であり、わたしたちはもはや決し て読むことのできないその傷から、還りあうことの喜びを懸命に思い出そうとするのです。そして思い出そうとすることによって、それを生きるのです。私はこの句を読んで、そんな情景に立ち会って、本当にうれしく思いました……ところで〈原エクリチュール〉の話を詳しく知りたい方は、デリダの『エクリチュールと差異』所収の「フロイトとエクリチュールの舞台」を読んで下さい。これ、デリダ自身による註がまた素敵で泣けるんです。

Y はい、文献の言及もありがとうございます。たしかさいきん『エクリチュールと差違』は叢書ウンベルシンタンタスで新訳が出たばかりなはずです。すごくわからなかったデリダが、すこししかわからなくなったデリダになってるという評判の訳だったとおもいます。

O あの、すいません、ウニベルシタスだとおもうんですけれど……。

Y ウニベルシータス?

O (……だいじょぶ、このひと?…)

Y ウニベルヒー…

O いえ……あとね、この句の作中主体は、追伸をくれた相手に「ありがとう」と語りかけていますけど、この自分の語りかけに対する返事はもうないだろう、これが相手からの最後の手紙だったのだろうって知っていそうですね。そんな雰囲気も好きなんですよ。

Y  ああ、この「ありがとう」ってモノローグに近いんですね。わたしもそんな気がしました。なんでだろう。うーん。それ、大事な気がしますね。なぜ「ありがとう」がダイアローグにならないのか、届かないのかって。さっきの小津さんの文脈でいえばね、もしかしたら語り手がエクリチュールに語りかけてしまったからかもしれませんよね。根源的な書式のほうに語りかけ、ありがとうといってしまった。そうするともう言語的対話はなされえないわけです。そういう場所に語り手はおもむいてしまった。だからかな。そのプログラムはふれたらおしまいなのかな。あのね、なかはられいこさんにこんな句があるんです、「お別れね 壜の中身を当てたから」。これもね、なんかエクリチュールに触れてしまったからお別れになったんじゃないかなっていまおもいました。そういうことばがうまれ るまえのプログラムのほうにさわってしまったから。きがついてしまったから。箱をあけてしまったから。

O なるほど。

Y それではここで一度曲を挿むということで、小津さんはふだんジョン・ケージを聴きながら作句されているということなので、ジョン・ケージの「4分33秒」をぞんぶんにお聞きいただきたいなとおもいます。こんなにエキサイティングでダイナミックな曲もないだろうとおもうんですが、わたしもですね、よく初めてのひとといっしょに食事するときにこの曲を歌いあげてしまったりしてしまうことがあります。それではまた、4分33秒後にお会いいたしましょう。



Y はい、ジョン・ケージで「4分33秒」でした。とても感動的な曲でしたね。だいたいみんな緊張したり気まずかったりおなか痛かったりすると歌い始めるわけですが。
さて、小津さんの句で、「鳴る胸に触れたら雲雀なのでした」っていう句があるんですけれども、けっこう「なのでした」っていうのが俳句で使ってもいいんだ、とこの句をみたときびびったりもしたんですが、そういえば少し同じような語法の風合いで西原天気さんの句にも「しろながすくぢらのやうな人でした」 という「でした」がありました。

O  わたしの「でした」はその句のパクリです。天気さんのことが好きなので。どのくらい好きかというと、私、露出が大の苦手で、生まれてこのかたブログもSNSもしたことがなく、色んな媒体への顔出しも、高校や大学の卒業アルバムなんかを含め一切回避してきたんですけど、天気さんになら写真を撮られても、 ま、いいかってくらいに。実はこのあいだ、天気さんに本当に写真を撮って頂いたのですが、そのお陰で少し耐性ができたのか、その二日後関悦史さんとお会いした際もなんとか写真撮影に応じられたので、すごく助かりました。話が逸れましたが、そういうわけで確信犯的パクリなのでした。

Y  なるほど、この「でした」はそういう響きあいがあったわけですね。西原さんの口語的な句をはじめて読んだときに、えっ、俳句ってこういうふうにも書けるんだとすごく驚いて読んで、それから俳句に自分も興味をもっていいのかなとも思いました。それまで俳句って遠いところにあったんだけれども、でも実はすごく近くにあったりもして、そういう遠近のなかにあるんじゃないかなって。
で、小津さんの口語的な風景というか風合い、かぎかっこを句にそのままつけても違和感なく成立してしまうような句の感じが、ちょっとこの普川素床さんの句 にちかいかなともおもったりするんですね。この普川さんの句もかぎかっこをつけても違和感がないから。で、小津さんのそういう部分が現代川柳に共鳴してる部分でもあるのかなって、少し乱暴なんですがそんなふうに感じたりもしたんだけれどもどうでしょうか。

O それは「口語的な風合い」というより、むしろ「散文的な風合い」ということだとおもいます。川柳との共鳴については、自分ではなんとも言えません。ごめんなさい。

Y ああ「散文的」なんですね。たとえば今申し上げたような「散文性」を小津さんが使うときにですね、それでもじぶんのなかで絶対に守っている枠組み、俳句的枠組みでもいいんですが、とくに意識されて守っておられるものとかってありますでしょうか。

O  基本的に、私は文語で作句するのが好きなのですが、それをつづけていると、自然にこういう句を書きたくなるんです。文語で書くと、世界へ直に〈応答〉したいという気持ちの昂りが起こって、ふっと散文的な風合い(口語的ではなく)へと言葉が開かれる。別の言い方をすれば、私にとって文語で書くというのは 「精巧な家をこしらえ、触れえざる世界をその窓から想い感じる」ことに近い。そして散文的に書くというのは「自分の家を開け放って、見はてぬ世界そのものを家とする」(@大島弓子)ことのようです。

Y  あ、なるほど。とつぜん大島弓子が出てきたのでびっくりしましたが、散文的ってたしかに〈散文・的〉なので文章にそのまま接続しやすいんですよね。「」をつけて文章のなかに放り込んでも違和感がない。それはそもそもどのように世界をパッケージングするか、密封するか、それとも接続できるよう風穴をあけておくかというつくる際の違いがあったわけですね。そしてそれは小津さんのことばを借りれば、その句自体がもつ応答性の質感にもなっている。

O  あ。その「応答性の質感」というの、とても的確な表現です。また文語的に書くか散文的に書くかの切り替えについても、もともとさんの仰る通り「世界との接続(あるいは断絶)具合」に関係しているのかもしれません。ちなみに私の脳裏にあった大島弓子の台詞は「ロストハウス」の「ああ彼はついに全世界を部屋 にしたのだ/そしてそのドアを開け放ったのだ」というものです。「世界と家」の関係というのはわたしにとって非常に重要で、それで昔「天蓋に埋もれる家」 という散文を書いたこともあるんですが……ヘボ俳句つきで。

Y  そういえば小津さんの俳句は家に関するものが多いかもしれませんよね。たしか長嶋有さんも家や室内に関する句が多かった気がする。「エアコン大好き二人で部屋に飾るリボン」とか。あの、大島さんのマンガで猫がおおいのって、世界そのものを家として感じているからかもしれませんね。猫の世界ってそういうも のなのかな。大島さんのマンガって白塗りとか黒塗りとかコマの空白がすごく特徴的だとおもうんですが、そういう場所をそのまま世界化していこととすこし関係があるのかもしれません。さて、小津さんからみて俳句と川柳のちがいってどのようにかんじられているかをお聞かせくださるとうれしいです。

O  質感や気分の有無ですね。観念的なことを書いていても、俳句の場合はその観念に〈触知〉がないとダメだとおもっています。〈触知〉があるというのは「暑 い」とか「冷たい」とか「嬉しい」とか「悲しい」とかそういうのでは全然なく、さきほど言った創傷とか、ノイズとか、気配とか、痕跡とか、そういった〈原 エクリチュールへの契機〉が内包されている、という意味です。でもこれ、一般的な定義として言ってるわけでは全然ないですから。単に私がいつもこんなことしか考えてないってだけの話で。

Y  小津さんにとっての俳句・性というようなことですね。痕跡があるということ。小津さんの俳句を読んでいておもったのは、〈語り落としてきたひと・もの・ わたし〉への視線だったんですが、それもすこし〈痕跡〉とかかわってくるかもしれませんね。〈語り落とした〉ひとやものやことに言及するときって、観念で 語っててもただの言語操作になってしまって語り落としたことに触れることにはならない。語り落としたのだから、もちろんもはや語れないんだけれども、でも そこにすくなからずタッチするためには、身体性がなければならない。たとえそれが観念的だという諦念があったとしても。小津さんのいまお話をきいてそんなふうにおもいました。小津さんの句に「別のかたちだけど生きてゐますから」って句がありますよね。あれをたとえば、川柳ですっていわれても、ああ川柳かもしれないともおもうかもしれないんですが、そのときに俳句と川柳の分水嶺っていうか境目ってどのようなところになるんでしょうか。

O  川柳の方が、言葉をめぐる作者の責任が大きいイメージはありますね。意味に準拠するにしても、反意味に準拠するにしても、作者が句をきちんと操作しなければならないといった印象。一方、俳句については、文脈によってテクストの読みが変わるような構造を内包しているもの、いわば思弁のソフトウェアとして聳え立つべきものだと考えています。それゆえ俳人というのは、句の表面的な意味合いに対しては一種冷酷なまでに「無責任でいる責任」がある。

Y  ソフトウェアかあ。さっきわたしがエクリチュールはプログラムみたいなものといったんですが、ソフトウェアのようなものといってもよかったかもしれません。川柳のほうが作者性が強くなるのはなんでだろう。さっきいった身体を読むことが多いとも関連してくることなのかもしれませんね。

O  それはやはり川柳人が「身体性をモジュールとした意味、あるいは反意味」を努めてコントロールしているからだと思います。もともとさんがたまに引用なさる兵頭全郎さんとか、あと湊圭史さんなんかもそうですけど、句が「無意味」でなくきちんと「反意味」になっている。意味のズレなんかにも相当意識的だし、 川柳には「意味との熾烈な闘争」がある。でもね、こういうのって本当はどうでもよいことなんですよね。だって作品というのは、本質的に、ジャンルという制 度をすりぬける有機物なんですから。それを、たとえばグリーンバーグのように還元しようというのは、一種の選民的イデオロギーが根底にあるというか、まあ 単純に政治なわけで。普川素床さんの句にしても、わたしの思う俳句的な文脈で解釈できるんですし。

Y  そうですね、たとえばソシュールの記号体系の考え方でいえば、新しい記号が入ってくるとそれまであった記号のシステムに変化が生じて、記号の意味内容が 差違とともに変化するわけです。たとえば犬が猫とのであいによって意味がすこし変わってしまったように。だから、ジャンルはたぶん、なにか新しい参照点が 生まれるたびに、すこしずつ勝手に、オートポイエーシスみたいに、自己増殖というか、伸縮していくとおもうんですねね。たとえば喪字男さんの俳句を拝見していてそんなふうにおもったことがあります。だからもしかしたらジャンルを言及するときの〈正しさ〉というのは的をはずしてしまうこと、みあやまること、 遅れてしまうことかもしれませんよね。指摘はつねに遅れてしかやってこない、構造は遅れとしか理解できない。たしか柄谷行人さんか大澤真幸さんがそんなこ とをいっていました。漱石の『こころ』でも先生もわたしもたぶん〈遅れて〉構造に気がついたんだとおもいます。こころはいつも遅れてやってきますからね。もしかしたら追伸もつねに必然的に遅延する形式ですから、そういった〈遅れ〉の形式としてジャンルに似通ったところがあるかもしれませんね。きょうは 長い時間ありがとうございました。最後にですね、小津夜景さんに普川素床さんに寄せて夜景さんの句から自選していただいたので、それをご紹介しつつ、この 明るいインタビューを終わりにしたいとおもいます。
雨のなか、ありがとうございました!



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この対談は明るい風の吹く公民館で正座して行われました。

【小津夜景さん自選十句〜普川素床さんの句へ寄り添う夏、という趣向で〜】

けふ還り逢ふとも知らで黴の家

青嵐もの問ふために戸を開ける

来たりしよ肩重りかに蟬しぐれ

フイルムは深き眠りに鳴る砂か

かつてこの入り江に虹といふ軋み

くらげらのこゑを光は書きしるす

またとなき日がまたの名を名告りけり

籐まくら遠くて近きもの思ふ

閑居初夏開魂匣愛撫哉(かんきよしよかたまばこひらくあいぶかな)

重力のはじめの虹は疵ならむ


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(小津夜景近影 撮影:西原天気)




posted by 柳本々々 at 23:48| Comment(1) | 川柳サロン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「昔のSF界隈」とは、小松左京さんが王様で、山田正紀さんが王子様で、その悪友がかんべむさしさんや横田順彌さんで……の頃でしょうか(筒井康隆さんのエッセイのうろ覚え)。すいません。私はそのころ(から10年前後したくらいの)「SF界隈」が大好きなので、嬉しくなって、ついコメントしてしまいました。そうか、そういう「川柳界隈」に末席ながらいる(?)のか。感無量であります。

追伸
あるじゃーのん……では、ないです。お二人とも、素敵な対談を、ありがとうございました。
Posted by 川合大祐 at 2015年04月23日 04:37
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