2015年05月24日

腹が立つから山手線で寝る   十四世根岸川柳

昭和29年〜30年、作者66歳〜67歳の作という。
川柳界の論客として名を馳せた山村祐は、十四世根岸川柳についてこう述べる。

根岸川柳の性格は短気で行動的で、天邪鬼でややエゴイスチックな面もあるが、童心と心のやさしさが溢れている。テレ屋でおとぼけも結構あり、精神の貴族性と庶民性と、更にはきびしさと遊びの精神とが同居している。
(『明治・大正・昭和三代 現代川柳の鑑賞』/山村祐・坂本幸四郎/たいまつ社)

上掲作は、そんな作者の性格を踏まえたうえで読むと面白さが倍増してきそうだ。

初代の柄井川柳から数えて十四代目に川柳号を継いだ根岸川柳の作品には、

 男の子どこからとなく砂が落ち
 影法師いちどは俺に跨がせろ
 ざまァ見ろと向ける顔の中の岩盤
 桃の中の虫の恍惚で死のう


などがあり、上掲作はどれもわたしの好きな川柳である。
ああ、今じぶんは川柳を読んでいるんだなあ、という感覚が生じるのだ。

これにたいして、「腹が立つから山手線で寝る」の方は、ちょっとおもむきが違う気がする。
何というか、「わたしは川柳ですよ」という主張がない。
「わたしが川柳である」といった存在感も出していない。
ことによってはネット上のつぶやきに見えなくもない。
まあ、かりにそうであっても、わたしに限っていえば「おっ!」と注目すると思うのだが、しかしそれはつかの間のことであって、目まぐるしく消費されていく言葉の数々の中、翌日まで覚えているかどうかは分からない

それにもかかわらず、わたしが「腹が立つから山手線で寝る」というテクストを〈川柳〉として楽しんでしまったのは、不思議なことだと思う。
これって何なのだろうか。
それについてちょっと考えたので、何の変哲もない内容だが、以下、このテクストをわたしが〈川柳〉として読んだ由来を三つほど書いてみたい。

第一の由来。
これが最も重要かつ最も当たり前の条件なのだけど、或るテクストがいったん〈川柳〉として提出されると、そこに川柳的な磁力をもった〈場〉が生れて、読み手がそのテクストを川柳として解釈しはじめる事態があげられる。
そして、その〈場〉を成り立たせているものとは、人びとが或るテクストを川柳として読むという〈前提の一致〉である。

たとえばこの「川柳スープレックス」という〈場〉の成り立ちもおなじだ。
間違ってプロレスマニアが漂着してしまう事態はあるかも知れない(もうしわけない)。
でも、基本的には読者の方々も執筆者も、川柳の感想や鑑賞、あるいは柳論に立ち会うという〈前提の一致〉で〈場〉を成立させている。
或る裸のテクストが〈川柳〉の形態をそなえるのは、〈場〉によって物理変化するからだといえる。

〈場〉という言い方は、ちょっと抽象的かも知れないと不安になってきたので、試みにこれを〈劇場〉と言いかえてみる。
劇場の舞台で芝居が始まる。
すると、たとえそこで日常会話とおなじ言葉が話されていても、〈演劇的言語〉となって独特の磁力を観客に意識させるものだ。
いや、言葉に限らず、たとえばダンスとかジャグリングとか熱々おでん、などの肉体的な行為でもおなじだといえる。
「あしたのジョー」のオープニング曲で作詞を担当した寺山修司は大のボクシングファンだったけど(なぜいきなり寺山だ)、たとえば一般社会で他人を殴ってしまったら、どれほど見事なパンチを放ったとしても野蛮な行為だ。
しかし、いったん舞台上で主人公がパンチを放ち敵をやっつけたなら、人びとはエキサイトしカタルシスを得るだろう。
一般社会では、ほとんど価値がないどころか違法ですらあるパンチが、こと〈劇場〉の舞台の上では価値となってしまう事態がここにはある。

「この句は川柳として書いたんだから、俳句ではなく川柳なのだ!」ということをよく聞く。
これは、俳句と川柳の違いが傾向論でしか語れないもどかしさから吐いてしまう面もあると思うけど、結論としては賛成だ。
なぜといって、くり返しになるが、〈劇場〉というある種の文化的な磁場が、裸の言葉や行為を演劇的言語(台詞やパンチや熱々おでん)に飛躍させるのだから。
(まあ、それでも寺山修司だったら、〈場〉として成立してしまう短詩型文化は鼻につくのかなあ)。

さて、ここからは第一条件にくらべれば副次的になってくるが、上掲作を〈川柳〉として読んだ第二の由来は、〈言葉選び〉を経ていることがあげられる。
中央線でも総武線でもなく「山手線」が選ばれている。
山手線は、大正14年から環状線としてお馴染みだが、それが上掲作においては、興奮から沈静へといたる感情をうまく示唆しているように思われる。

そして最後、第三の由来は、「腹が立つから・山手線で・寝る」という7・7・2のリズムがあげられる。
といっても、リズムというのはおおよそは潜在的な要素であって、このテクストも実際は一気に読み下すのがいいと思う。
それでも、7・7というくり返しの後に「寝る」という2音がくる。
これは、「腹が立つから山手線で寝る!」という感じがして、どこか川柳的なおかしみがある。
また7・7からの2音というバランスに、まるくなり切らない、ちょっとチャーミングな我の強さを想ってもいいかも知れない。

以上、上掲のテクストを〈川柳〉として読んだ由来を列記してみた。
どれも何てことない内容だ。
特に、一つ目の〈前提の一致〉などは、あまりに当たり前な暗黙の了解かも知れない。
しかし、或るテクストが川柳として有効かどうかを疑って議論するためには、それを川柳として読んでみる〈前提の一致〉の〈場〉が必要だ。
だから、第一条件として取り上げるに相応だと考えたしだいである。

現代川柳では、5W1Hが大幅に省略されたスタイルや、問答体の答えの部分を飛躍させたスタイル、あるいは言葉の意味の連なりを脱臼させたスタイルなど、所謂〈膝ポン川柳〉以外のスタイルもいろいろ模索されている。
しかし、一見普通のつぶやきに見えつつも「どこか普通でない」というレベルの表現は、案外少ないように思える。

 いっせいに桜が咲いている ひどい   松木 秀

その意味で、この松木の川柳には、根岸川柳の上掲作につうじるおかしみを感じた。
(ちなみに、「そらとぶうさぎ」で取り上げられていた)。

posted by 飯島章友 at 17:01| Comment(0) | 飯島章友・一句鑑賞 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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